ノエル・グランディエ・ド・ジャルジェは二歳である。
ミカエル・グランディエ・ド・ジャルジェという双子の兄がいる。
この名前は実はなかなかのいわくつきで、父アンドレ・グランディエは誕生当時、ド・ジャルジェを名乗らせるのは恐れ多いと固辞したのだが、ジャルジェ一族が亡命するためにこのノルマンディーに大集合したときに、よってたかってジャルジェの名跡を絶やすなと父を責め立て、多勢に無勢となった父が観念して、本来の名前であるノエル・グランディエの後ろにジャルジェを背負うことになったのだ。
ミカエルとうり二つだが、一応ノエルは女の子である。
彼女はどんぐり屋敷と通称されるさほど大きくはないが、趣味の良い屋敷に暮らしていて、家族のほかに、使用人の料理人夫婦と雑用係の夫婦が屋敷地内に住んでいる。
本来なら乳母を雇っても良い環境なのだが、父方の曾祖母が自分の目が黒いうちは必要ないと言い張ったため、乳を飲ませる時期が終わった段階で二人いた乳母はお役ご免になり、以後雇われることはなかった。
ところが、つい先日、世話を焼いてくれていたこの曾祖母マロン・グラッセが90歳であの世に旅立った。
母と、その父親の乳母であり、また父の祖母でもあったこの女性は、母には使用人として、父には保護者として接したので、双子は「大おばあさま」とも「ばあや」とも呼べず、皆で知恵を絞った結果、本名とおばあさま(grand-mère)を合体させてグラン・マロンと呼んでいた。
恵まれた人生だったと本人が繰り返し語っていたので、大きな大きな寂しさはあるが、その死は自然のことだと、皆には受け止められていた。
これまで元気にひ孫の世話をしていたことのほうが奇跡だったのだ。
ただ、ここで大問題が起きた。
双子の世話をするものがいないのだ。
いかに小さな屋敷でも、使用人4人というのはいっばいいっばいで、とても幼児二人の世話まで手が回らない。
母は生粋の貴族で、しかも男として育った人である。
子育てなど望むべくもない。
母親という自覚があるのかどうかすら疑わしい。
そのくせ他人の子には精力的に家庭教師をしているのだから、子供が嫌いというわけではないようだ。
教育はできるが世話は焼けないというのが妥当なところだろう。
一方父はマメな性格で、子育てにはもってこいなのだが、小さいとはいえ領地を持っており、さらには小さいゆえに当主自身が果たすべき役割も多く、常に子守をしているというわけにはいかなかった。
頻繁に領地に出て作付けの様子や、商売の実情、領民の暮らしぶりを巡視するので留守が多いのである。
しかも何事も使用人任せにするのに気後れを感じるタチらしく、時間ができれば薪割りでもろうそく磨きでもすすんでこなしてしまっている。
これは父の育ちに由来するので、今さら変えられないようだ。
父自身はもっと子育てに関わりたいのかもしれないが物理的に難しい状況だった。
したがって、曾祖母の目がなくなったどんぐり屋敷で、よく言えばのびのびとした、悪く言えば放置されたままのノエルの暮らしが始まったのである。
ところが、これがノエルには不思議なほど居心地が良かった。
グラン・マロンのことは大好きだったが、とにかく口うるさかったし、注意が細かかった。
口癖は「ジャルジェ家のお嬢さまなんですからね」というもので、男のミカエルには不思議に甘く、ノエルには異様に厳しかった。
まだ二歳である。
ミカエルがしてもよいことなら、自分だって同じようにしたいのは当然だった。
だが一緒にしようとすると、いつの間にかどこかからグラン・マロンが現れて「ノエルお嬢さま!いけませんでございますよ」と止めるのである。
この使用人のような口調でありながら曾祖母としての容赦ないお小言は、二歳のノエルには充分抑圧的だった。
それが…
なくなった。
何をしても怒られない。
木馬のおもちゃにまたがり壊れるほど激しく揺らしても…。
ミカエルの練習用の剣を奪ってしっちゃかめっちゃかに振り回しても…。
誰も見ていないのだから、とめられようがない。
実は誰もというのは言い過ぎで、大人たちはそれぞれ、それなりに注意はしていたし見守ってもいるつもりだった。
だが監視に空白の時間が生まれることは否めなかった。
季節が冬から春にうつり始め、屋敷の中に風を通すため、窓や扉が開放される機会が増えた。
ノエルはキラキラとした蒼い瞳を外に向けた。
今までなら大人と一緒でなければ決して庭に出ることは許されなかった。
まだ自分で扉を開けられないので、双子が外に行きたいときは、だれか大人に頼んでつれて出てもらわねばならなかった。
もちろんグラン・マロン亡き後も、扉が自力で開けられないことには変わりはない。
だが、今、屋敷の窓や扉は開け放たれたままである。
庭に出る事が可能なのだ。
冷たい風が姿を消し、うららかな春風が吹き始めたその日、ノエルはミカエルとともに遊んでいた積み木を壊し、ひとりで外に出た。
遊んでいた部屋は一階の一番日当たりのよいところにある客間だが、双子が生まれてからは日中子供室として使用されている。
二人が楽しそうに遊んでいる様子を、巡回に行く支度をしていたアンドレが見ている。
仲良くお利口にしているんだよ、とそれぞれの頬に口づけをしてから馬に乗って出かけたのだ。
オスカルはそのとき見送りには出ず、二階の書斎の窓から馬上のアンドレに手を振っていた。
だから双子の姿を見てはいない。
アンドレが自分に手を振った後、一階の子供室に向かって同様に手を振っていたので、子供たちはそこにいるのだな、と認識しただけだ。
アンドレが行ってから半時間後、料理人の妻コリンヌが双子のおやつを用意して子供室にやってきた。
積み木が絨毯の上にまき散らされていて、ミカエルが遊んでいた。
「あれ、お一人足りないわ…」
コリンヌはトレイを卓上に置くと、室内をゆっくり見回した。
いない。
長椅子の後ろやカーテンの裏側にもまわってみた。
だがやはりそこにもいない。
「ノエルさま!」と声を出して呼んでみたが反応はなかった。
そこで静かに遊んでいるミカエルに尋ねた。
「ミカエルさま、ノエルさまは?」
二歳をすぎたばかりのミカエルが、理路整然と答えることなどハナから期待していないが、なにがしかの手がかりくらいは聞き出せるのではないかと思ったのだ。
実際、この双子は非常に賢い。
話せる言葉数も多く、理解できる言葉はさらに多かった。
短文での会話は充分可能なのだ。
「おそと…」
ミカエルはボソッと答えた。
「お外に行かれたのですか?」
コクリと金髪のかわいい頭がうなずいた。
コリンヌはあわてて開きっぱなしの掃き出し窓から外に飛び出した。
雑用係のマブーフが丹誠込めた庭は、春めざして様々な植物が芽吹きの用意をしているところだ。
その植え込みの中をひとつひとつまわって小さな影を探した。
それから屋敷の名前の由来となったどんぐりの木々の間を回り、花壇の方にも足をのばした。
だが、いない。
コリンヌは、ミカエルが勘違いしただけで、実は廷内にいるのだと思い直した。
急ぎ足で室内にもどり、ミカエルの横を抜けて部屋から廊下に出た。
甲冑姿の騎士像や、中国製の花瓶など、そこここに置かれた大きなものの裏側にまで目をやるが、ノエルの姿はなかった。
コリンヌは二階へ上がった。
そして扉の開いている部屋を順番に見て回ることにした。
部屋数はさほど多くないし、まして扉が開いたままの部屋はわずかに二室。
そのどちらにもいない。
仕方なくオスカルの書斎をノックした。
オスカルは書き物をしていた。
「ノエルさまはこちらにいらっしゃいますか?」
コリンヌに聞かれ、オスカルはいぶかしげに顔を上げた。
「子供たちは下の客間だろう」
「ミカエルさまはおられるのですが…」
「ここには来ていない」
「そうですか。ではやはりお庭でしょうか。お探ししたのですが見あたらなくて…」
コリンヌは当惑した表情で窓辺に駆け寄り、庭を見下ろした。
「アンドレが出るとき、二人に向かって手を振っていた。そのときには確かにいたはずだ」
「風を通すため、あちこちの扉を開けておりましたので、出て行かれたのかもしれません。ミカエルさまにお聞きすると、お外とおっしゃいましたから…」
オスカルはインク壺に蓋をすると椅子から立ち上がった。
「わたしが庭を探そう。コリンヌはほかのものに尋ねてみてくれ」
「はい」
二人はそろって階下におり、オスカルは玄関へ、コリンヌは厨房へ走った。
庭に出ようとしたオスカルは、ふと思い直して子供室に向かった。
とりあえずミカエルを確認するためである。
ミカエルは積み木に飽きたのだろう。
一人で絵本を見ていた。
「ミカエル」
オスカルに呼ばれてミカエルはにっこりと笑った。
そしてトコトコと近づいてきた。
オスカルは腰を落とし、目線をミカエルにあわせると頭をなでてやった。
「おまえ、ノエルがどこに行ったか知らないか?」
「お外」
ミカエルは庭を指さした。
「ここから出たのか?」
「ここから出た」
「そのあとどうした?」
ミカエルは首を横に振った。
「よし、ここから出たことはわかった。とするとそのあとどっちに行ったかだな」
オスカルはミカエルにここにいるよう言い聞かせ、掃き出し窓から外に出た。
そのとき勝手口からコリンヌが出てきた。
「オスカルさま!」
「どうだった?」
「厨房にはお見えでないとモーリスが言っております」
「そうか。アゼルマはなんと言ってる?」
「彼女は裏庭で洗濯をしていたそうですが、そちらにも来られていないと…」
「ふむ。マブーフはどこにいる?」
そこへアゼルマが走ってきた。
まだ手が濡れている。
気になって洗濯を途中でおいてきたのだ。
「うちの人はさっき荷馬車で教会へ行きました。ニコレットさまのご指示でこちらで使っていない食器などを届けに…」
そういえば昨日アンドレとマブーフは屋根裏に上がっていた。
不要なものを慈善事業に提供するのだと言っていたが、ニコレットの依頼だったのか。
「まいったな。誰もノエルを見ていないとは…」
オスカルはコリンヌとアゼルマをうながし、一旦ミカエルのいる部屋に戻った。
そのうちモーリスも厨房から出てオスカルのもとに来た。
「これで今屋敷にいるのは全員だな」
アンドレとマブーフとノエルがいなくて、オスカルとミカエルとコリンヌとアゼルマがここにいる。
「アンドレは領地巡回だし、マブーフは教会だ。行き先がつかめないのはノエルだけということか」
「申し訳ありません。あたしがもっと注意していればこんなことには…」
コリンヌの目に涙が浮かんだ。
「ばあやさんからくれぐれもノエルさまをお守りするよう言われていたのに…」
アゼルマがコリンヌの肩を抱いた。
「それはあたしも一緒だよ。あんただけのせいじゃない」
「そのとおりだ。この一件は誰にも責任はない。強いて言うなら責任はノエルにある」
ミカエル以外の全員がびっくりしてオスカルを見つめた。
本気だろうか。
本気で二歳のノエルさまの責任だと、オスカルさまはおっしゃっているのだろうか。
「同じように遊んでいたミカエルはちゃんとここにいるのだ。つまりノエルが自分でいなくなったのだ。だからおまえたちのせいではない」
なんというか、やはり変わったお方だ。
使用人をかばって下さる気持ちは大変ありがたいが、ふつうなら、まず母親として、ご自分をお責めになりそうなものだが…。
三人の使用人はしげしげとオスカルを見つめてしまった。
「とにかくアンドレが戻るまでに見つけだそう。そして今後は子供室は全部締め切って、絶対に勝手に出られないようにしておくんだ」
オスカルは真顔だった。
本気だ。
だから使用人たちはノエルを探すため思い思いの方向へ散っていった。
ミカエルが締め切った室内にまたもや一人取り残された。
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このお話しは「野辺送り」と「終焉」の間の挿話です。