ノルマンディー最大の港町ル・アーブルの郊外の小高い丘の上に教会がある。
歴史は古いようだが、さほど有名でもなければ勢力が強いわけでもなく、まさに村の教会という風情である。
そんなところになぜバルトリ侯爵家のニコレットお嬢さまが肩入れなさるのか、マブーフにはわからない。
だが、とにかく慈善事業で食器が必要だということなので、マブーフは幌付きの荷馬車に食器を積み込んでセーヌ河畔の道を走っていた。
どんぐり屋敷からだと荷馬車では小一時間の距離である。
昨日お屋敷の屋根裏部屋にしまい込まれていた食器類をだんなさまと一緒に引っ張り出した。
以前バルトリ侯爵の叔父君が所有していたどんぐり屋敷には、収集された食器が山のようにあった。
そういう諸々のもの一切合切をオスカルが引き継いだのだ。
だが、それらは、あまりに多すぎて到底使い切れるものではなく、大半は箱に詰められたまま屋根裏に放置されていた。
それを母から伝え聞いたニコレットが、使わないなら教会に届けるよう依頼してきたのだ。
もちろんアンドレもオスカルも二つ返事で了承した。
川沿いから北にわかれた道にそれ、しばらく行くと林があらわれ、その向こうに教会の十字架が見えてきた。
賑やかな声が聞こえてくる。
ニコレットの企画した行事がもう始まっているらしい。
林を抜け、教会前の広場に来ると人だかりがしていた。
正面の扉まで乗り付けるのは難しそうだ。
さてどうしたものかと思案しているとニコレットの声が聞こえてきた。
「衣類はこちらの箱に入れてちょうだい。それから食べ物は教会の中に。それ以外のものは全部わたくしに見せに来て。どこに入れるか判断しますから…」
大勢の市民に向かって似合わぬ大声を張り上げている。
背後に白髪の神父が立っているが、明らかにこの場を仕切っているのはうら若い女性の方だということは、何も知らないマブーフにもわかった。
「ニコレットさま!」
マブーフは大声で呼びかけた。
周囲のものにてきぱきと指示を出していたニコレットが、すぐに気づいて走り寄ってきた。
「ご苦労様!待っていたのよ。荷物は後ろね?」
長いドレスをものともせず荷馬車の後部にまわったニコレットが、「あら!」と両手で口元を押さえた。
「マブーフ、ノエルも一緒だったの?」
目を点にしたマブーフは御者台から転げ落ちるように降り立つと後部に回った。
荷台の幌の下に、人形のようにノエルが座っていた。
マブーフはぶんぶんと首を横に振った。
目の前の光景がにわかには信じがたいらしい。
「ど、どうして…ノエルさまが…!」
「あらまあ。ではノエルが勝手について来ちゃったの?」
ニコレットは身体を前のめりにして荷台の箱の間に埋もれているノエルを抱き取った。
同じ顔をしているのだからミカエルと間違えそうなものだが、ニコレットもマブーフもこんなことをしでかすのはノエルだと確信しているようだった。
「ニコレット…!」
ノエルが正確に従姉の名前を発音した。
満面の笑みだ。
「えらいことだ!」
マブーフは顔面蒼白である。
荷馬車は小一時間走ってきたのだ。
よくぞ途中で落ちなかったものだ。
というか、全く気づかなかった自分を殴り倒したい。
今頃お屋敷ではどんな騒ぎになっていることか。
種々雑多な思いが胸をかきむしるようにわいてくる。
「困ったわね。マブーフにはお手伝いを頼みたかったのに…。このままノエルを連れて戻らなきゃならないなんて…」
ニコレットはノエルの顔をのぞき込みながらにっこり笑った。
「困った?ニコレット、困った?」
「ええ、とっても困ったわ」
「とっても困った…!キャッキャッ!」
ノエルは大喜びだ。
「マブーフ、ノエルを連れて帰ってくれる?」
「それはもちろんですが、どうやって帰ればいいんでしょう?いくらなんでもノエルさまをもう一度荷台にお乗せするわけにはいきません」
「あら、それもそうね。かといって御者台も無理だわねえ」
「はい。無理です」
二人はそこで同時にため息をついた。
知らぬが仏とはよく言ったもの。
気づいていないから、二歳の子供を荷台にのせたままやって来られたのだ。
わかってしまえば恐ろしくて震えが来る。
もともと荷馬車自体がそれほど大きなものではない。
馬一頭が引くごく一般的なものだ。
御者台というほどのものもなく、荷台の先端に板を一枚渡しただけの簡易なものだ。
荷台には覆い被せるように幌をかけてある。
だから気づかなかった。
大声を出すとか泣き声をあげるとかしてくれればまだ気づいたのかもしれない。
だが、荷馬車の車輪は木製でギシギシガタガタと大きな音をたてる。
よほどの声でないと御者には聞こえない。
マブーフは泣きたくなった。
いつまでたってもニコレットが戻ってこないので神父が荷馬車までやってきた。
「ニコレットさま、食器はこれですか?」
穏やかな笑みを浮かべた神父は、ニコレットが子供を抱いているのに気づいて目を見張った。
「おやおや、こちらは天から舞い降りてこられたのですか?」
「神父さま。わたくしの従妹です。ノエルと申しますの」
「ほう。ではどんぐり屋敷の?」
オスカルとアンドレがノルマンディーに来てからまもなく3年になる。
知る人ぞ知る存在になっていた。
「ええ、どうやら食器を積んだ荷馬車に乗り込んでしまってたようで…」
「わたしの責任です。馬車を出すまえに荷台をよく見ていれば…」
マブーフがかぶっていた帽子をくしゃくしゃと取って頭を下げた。
「マブーフ、今は誰の責任かということよりも、ノエルをどうするかが先決よ。どんぐり屋敷に連絡して迎えに来てもらうのが一番いいのでしょうけれど、それだと二時間近くはかかってしまうわね」
「教会の馬車をお借りできませんか?」
マブーフは思いあまって神父に嘆願した。
「あいにく今日の準備で出てしまっているんだよ」
「では神父さま、ノエルの世話役をひとり探していただけませんか?わたくしは仕事に戻らなければなりませんし、マブーフとこの荷馬車もまだお役が残っていますから」
「そうですな、ニコレットさまの手が止まると非常に困る。わかりました。誰か連れてきましょう」
「ありがとうございます。では見つかるまでわたくしがノエルを見ているから、マブーフはこの食器を裏口に運んでちょうだい。そこにいるおばさんたちに渡してほしいの。行けばわかるわこちらが落ち着いたらわたくしが荷台に一緒に乗って送り届けましょう。どんぐり屋敷では心配しているでしょうけど、今はどうしようもないわ」
「どうしようもない…」
ノエルがかわいらしく復唱するのを聞きながら、神父は子守役を探しに教会に戻り、マブーフは再び荷馬車に乗って裏口へ向かった。
その後ろ姿があまりに打ちひしがれていて哀れを誘う。
「ねえ、ノエル。いたずらも大概にしないと危ないわよ」
ニコレットは一度ノエルを地面に下ろすと、腰をかがめて目線をあわせた。
「危なくないよ」
こまっしゃくれた口調である。
最近否定文を覚えてことあるごとに大人の言葉を否定して喜んでいるのだが、ニコレットはそんなことは知らない。
「危ないわよ。もし荷馬車から転げ落ちていたら大けがだったんだから」
「大けが?ノエル、大けがする?」
「そうよ」
「大けが、してない」
「だから、したかもしれないっていうこと」
「ノエル、大けが、してない」
嬉々として否定文を連発している。
「やれやれ、アンドレも大変ね。ばあやがいないとこんなことになっちゃうなんて…」
今日の慈善事業は、不要品の持ち寄りである。
それらを寄進してもらい困っている家庭に届けるのだ。
そのかわり、炊き出しを行って、品物を寄進してくれた人にふるまう。
炊き出しは村の料理自慢の女たちに頼んでいる。
その食事が美味だと評判で、それが目的でとにかく家にあるものを村人が持ち寄ってくるのだ。
広場には次々に馬車や馬が到着し、荷物を下ろしていく。
「わたくしがいなければ配分ができないのに…」
どれを誰に届けるかの判断も含めて、いったん集まったものを分類する仕事は、公明正大であらねばならない。
いいものだからこっそり自分がもらっておこう、などと考える不届きものには任せられないのだ。
そして悲しいかな、普段は善人でも、目の前に大量の品物を見ると心がよこしまなほうに動きかねないのが人間であることを、ニコレットはこの若さで知っていた。
教会の正面玄関にまた馬が着いた。
降りてきた人物と神父が話しをしている。
「神父さま、お客様の相手もいいけれど、はやく子守りを探してくださらないと困ってしまうわ」
ニコレットは、もう一度ため息をつくと、意を決したように頭を上げた。
それからノエルの手をひき、品物の集積所になっているところへ戻った。
そして手近にあった荷造り用の紐で自分とノエルの手首をしっかりと結んだ。
「いい?離れてはだめよ」
「離れてはだめ」
「そうよ。離れてはだめ」
「ノエル、離れない」
ニコレットは持ち場に戻り、寄進物の仕分けを始めた。
ノエルは隣で目を輝かせている。
次々に持ち込まれるものすべてに好奇心をそそられるようで、知っているものは名前を言い、知らないものはいちいち「これはなに?」とニコレットに尋ねた。
かわいい天使がいる、という声があっという間に広がり、たちまち人だかりができた。
次々に声をかけられ、ノエルはそのすべての言葉を否定していく。
それがかわいいと皆が大受けする。
ノエルの興奮は最高潮に達した。
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このお話しは「野辺送り」と「終焉」の間の挿話です。