ミカエルはそろそろ絵本に飽きてきた。
いや、飽きてきたというのはちょっと違う。
堪能した、と言うべきだ。
いつもなら勝手に横からページをめくってしまうノエルがいないおかげで、久しぶりにゆっくりと好きなページを好きなだけ見ることができたのだ。
満足度は非常に高かった。
さて、次は何をしようか。
今ならなんでも好きなことができる。
玩具を取り上げられることもない。
ミカエルはゆっくりと周囲を見回した。
積み木が出しっぱなしになっていた。
せっかくきれいに積み上げたのにノエルが壊してしまい、そのままどこかに行ってしまったのだ。
片付けておかなくては…。
グラン・マロンがいたらきっと言っただろう。
「ミカエルさま、絵本を読むのなら、積み木を片付けてからですよ。次のことをする前に、それまでのことを片付けるんです」
もう耳にタコができるくらい聞かされた。
うるさいお小言だったが、そう言いながら片付けてくれていた。
そしてしわくちゃの目はいつも笑っていた。
でも今、グラン・マロンはいない。
自分でしなければ、片付けてくれる人はいない。
ミカエルは積み木を一つずつ拾い始めた。

「いるか?ミカエル、行くぞ!」
突然大きな音がして扉が開き、オスカルが入ってきた。
いるか、とは心外だ。
ここでじっとしていろと言ったのは誰でもないオスカルなのだから。
だが、妹と母が理不尽なことを言うのはいつものことだ。
「なんだ?積み木をしてたのか?それは置いていけ!」
オスカルがミカエルの手から積み木を取り上げ、ポンと床に放り投げた。
グラン・マロンに怒られる!
ミカエルは反射的に身をすくめた。
だが、怒ってくれるグラン・マロンの姿はなく、気づいた時には抱きかかえられ、外に出て馬に乗っていた。

生まれて初めての乗馬である。
落ちないようオスカルと身体をひもでくくりつけられている。
オスカルの両腕が頬の横を通りたずなを握りしめている。
ミカエルの顔はオスカルの胸に押しつけられ、そのままでは息ができないので、首を真横に向けて酸素を確保した。
高い!
馬の背に乗るのは初めてだ。
こんなに高かったんだ。
ミカエルの頬が紅潮した。
馬が歩き出した。

「オスカルさま、どちらへ?!」
コリンヌの声が馬の背後から聞こえてきた。
「外を捜す!これだけ探していないのだ。ノエルは外に出たに違いない。おまえたちは念のためもう一度屋敷の中を捜せ!ミカエルはわたしが連れて行く!!」
ビシッと鞭を入れる音がして、馬が速度を上げた。
門が一瞬で通り過ぎた。
ミカエルが馬に乗せられている事を知って、呆然と立ち尽くすコリンヌの姿もすぐに見えなくなった。
「ミカエル、しっかりつかまっていろ!」
オスカルの声が頭の上に降ってきた。
言われるまでもない。
二歳の子どもにも生存本能はある。
ミカエルは生き残るためにオスカルの身体にしがみついた。

門を出るとしばら一本道だ。
ここを疾走し、小麦畑が見えたところで速度を弛めた。
馬車の窓越しに見たことはあったが、これほど広大な景色をミカエルは初めて直に見た。
緑の絨毯が延々と続いている。
ところどころに人の姿があった。
オスカルは一番近くの農夫のそばに馬を寄せた。
「ちょっと聞きたいことがある。この子どもと同じ子どもを見なかったか?」
文法的にも内容的にも不可解な質問だ。
「同じ子ども?この子じゃなくて…?」
「ああ、そうだ。この子ではなく、この子と同じ子どもだ」
ミカエルとノエルは同じ子どもではない。
同じ姿の子どもだ。
だがオスカルは一向に表現をあらためる気配はない。
農夫は首をかしげていたが、やがて思い当たることがあったのだろう。
「ひょっとしてどんぐり屋敷の?」
恐る恐る聞いてきた。
領主バルトリ侯の親戚がこの近くのどんぐり屋敷に暮らし始めて、まもなく双子が生まれた。
そのうわさなら聞いていた。
「そうだ。双子の片割れだ。見なかったか?」
「いや、見てません。こんな小さいお子が、ひとりでこんなところまで来ますかね?」
しごくまっとうな農夫の問いかけは無視して、オスカルは軽く礼を言うと再び馬を走らせた。

わずかに小高くなっている丘をこえてややくだったところで、鍬をかついだ男に出会った。
「ちょっと聞きたいことがある」
馬を止めたオスカルは先程と同じ質問を繰り返した。
「この子どもと同じ子どもを見なかったか?」
男は意味をはかりかねて、首を横に振る。
それから質問主の豪華な金髪を見て、ああ、とうなずいた。
こちらもうわさを聞いているのだろう。
「いつからお姿がみえないんです?」
「かれこれ一時間以上はたつ。屋敷の中を探していたのだ」
「それは大変だ。わしも皆に聞いてみましょう」
「それはありがたい。何かわかれば屋敷にいるものに伝えてくれ」
親切な申し出に感謝して、オスカルは丘を下り始めた。
出会う人すべてにミカエルの顔を見せ、聞いていく。
だが芳しい返事は誰からももらえなかった。
あまりにたびたび顔を皆に見せろと言われるうちに、ミカエルも慣れてきて、にっこり微笑んだり、真面目な顔をしたり、時には泣き顔を見せたりできるようになった。
ノエルがどんな顔をでどこにいるかわからないし、皆に手がかりとして提供できるのがミカエルの顔だけなのだ。
できるだけ協力しなければならないとミカエルはけなげに思っていた。

そんなこんなで10人くらい聞いただろうか。
それでもまったく成果を得られなかったオスカルは、このあたりをすべて見下ろせる高台に馬首を向けた。
標高40メートルほどの高さをのぼりきると360度の視界が開ける。
小さいノエルをそんなところから見つけ出せるわけはないのだが、一つの方法が駄目だった場合、違う戦術に転換する勇気は必要だ。
オスカルは坂道をのぼりながらミカエルに真面目に戦術論を語り聞かせた。
そしてミカエルも真面目に笑顔と真顔と泣き顔を順に見せた。

高台に立つと、波打つように小麦畑が広がっているのが見えた。
畑の向こうには牧場があり、羊が群れている。
その中の一本道をのんびりと馬が一頭こちらに向かってくる。
オスカルは唐突に戦術論を終了し、手綱を引くと馬首をめぐらせて、来たばかりの坂道を駆け下りた。
「やはり方法転換は正解だった。ミカエル覚えておけ!」
オスカルはめいっぱい馬を駆った。
下り坂に加えて全力疾走である。
ミカエルは振り落とされないよう必死でオスカルにしがみついた。

「アンドレ!!」
思いがけない名前が聞こえて、ミカエルは思わず振り返った。
「馬鹿もの!振り向くな!落ちるぞ!!」
オスカルの怒声にミカエルは瞬時に顔をオスカルの胸に戻した。
「アンドレ!!」
再びオスカルが叫んだ。
馬の速度が落ちた。
オスカルとアンドレの馬が農道の真ん中で出会った。
アンドレの馬にはノエルも乗っていた。
二人そろってビックリ仰天している。
「オスカル。ミカエルも…」
「おまえがノエルを連れて出ていたのか?!」
つかみかかりそうなオスカルの勢いだ。
「まさか!教会に寄ったら、ニコレットの隣で売り子さんをしていたんだ」
「売り子さんだとぉ!!」
「ああ。マブーフの荷馬車に紛れ込んでいたらしい」
「!!」
さすがのオスカルも言葉を失ってしまった。
屋敷中探してもいないわけである。
一気に勢いの落ちたオスカルにアンドレが事の次第を語って聞かせた。
「思ったより早く領地での仕事が終わったんで、慈善事業の様子を見にニコレットの教会へ回ってみたんだ。そしたら神父さまが、天使がお見えですよと。なんのことかと思ったら、大勢の村人に囲まれてニコレットが寄贈品をさばいていて、その隣でノエルが客寄せをしていたというわけだ。仕事が一段落したらニコレットがうちに送り届けるつもりだったらしいが、俺が来たならちょうどいいから連れて帰ってくれと…」
集客における天使効果は捨てがたいものがあったのだが、オスカルが心配しているはずだから、やはり一刻も早く無事でいることを知らせる方がいい、というニコレットと神父の判断で、まだまだ働く気満々のノエルをアンドレが無理矢理馬に乗せて帰宅途中、ということだった。
「そうか…。荷馬車に乗り込んでいたのか…」
「ところで、どうしておまえはミカエルを連れているんだ?かえって走らせにくいだろうに…」
「金髪の二歳の子ども、と口で説明するより、実物を見せるのが一番てっとり早いだろう」
「なるほど…たしかに…」
名案だと言おうとして、アンドレは口ごもった。
ミカエルがすがりつくような目で自分を見ていたからだ。
よく見るとミカエルは木綿のひもを身体に巻かれオスカルの前に進行方向と反対向きに縛り付けられている。
「オスカル、もう飛ばす必要は無いんだから、ミカエルのひもをほどいてやらないか」
「ん?」
オスカルはあらためて自分とミカエルを見た。
そしてアンドレとノエルを見た。
ノエルはアンドレの前に前方を向いて座っている。

「それもそうだな」
オスカルは馬から下りた。
そして自分とミカエルを結びつけているひもをほどいた。
地面に降り立ったミカエルが大きく息をした。
よほど苦しかったのだろう。
アンドレもすぐに馬を下り、ノエルも下ろした。
そして背中にかついでいた袋から瓶を取り出した。
「教会で水を入れてもらってきたんだ、ミカエル、ほら」
蓋を取って渡してやるとミカエルはごくごくと飲んだ。
「ずいぶん怖い思いをしたんだろうな」
ミカエルがコクンとうなずいた。
「よし、選手交代だ。オスカル、ノエルを乗せてやってくれ。この子はおれの走らせ方では物足りないらしい」
「それは頼もしい。よし、ノエル来い」
オスカルはノエルを抱いて再び馬にまたがった。
今度は前向きに座らせる。
そして馬の脇腹を蹴った。
軽やかに走り出した。
そのあとをゆっくりとアンドレの馬が歩き出した。
「ふたりそろってとんだ冒険だったな」
アンドレの声が笑っていた。
「できればこれが最後の冒険だといいんだが…」



                            -終わり-





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このお話しは「野辺送り」と「終焉」の間の挿話です。










はじめての冒険
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