タンプル塔内でルイ・ジョゼフが水薬を飲んでから5日後、革命委員会がようやくルイ・シャルルの死亡を発表した。
水薬が体内に入ってからまもなくしてルイ・ジョゼフは混濁状態になり、見た目には完全に事切れているようにうつった。
それを確認するや、ニコーラはすぐに看視に事情を伝え、看視は革命委員会に報告した。
そしてラソンヌ医師が派遣された。
医師は冷静に検死を行い、死亡を確認した旨、委員会に伝えた。
埋葬の手続きがすぐに取られた。
あまりにやつれた少年の姿が公になるのはまずい。
だから検死は簡単でいい。
が、報告書は丹念に丁寧に書くように。
つまりは適当で良いということである。
ラソンヌ医師は指示通り、友人数人の医師の名前を借りることまでして大層丁寧な解剖報告書を作成した。
無論、善良かつ誠実なるラソンヌ医師の人生で一回きりの一世一代の捏造である。
これ以上ないくらい悲惨な状況を克明に綴ってやった。
そして検死書とは正反対に、死亡診断書には、いたってシンプルに以下の記載がなされた。
故ルイ・シャルル・カペーの記録
牧月(プレリアル月)20日午後3時
享年10歳2ヶ月
出生地ベルサイユ
住所パリ・タンプル塔
フランス人最後の国王ルイ・カペーとオーストリアのマリー・アントワネット・ジョゼフジャンヌの息子
死因結核
埋葬地サン・マルグリット墓地
ニコーラは埋葬後、即座に解任され、塔内で見聞きしたことを世間に発表しないという条件を受け入れる代わりに幾ばくかの退職金を支給された。
だが事実を知りすぎている彼の命が狙われるのは時間の問題だったので、解雇と同時にすぐに姿をくらました。
ルイ17世と関わったものにはろくな末路はないのだ。
靴屋のシモンも書類上はロベスピエールの処刑後にギロチンにかかったことになっている。
ただし、これはアランの極秘の工作により書類を一枚滑り込ませただけで、フランソワ・アルマンはぴんぴんしているが。
ニコーラもフランソワと同じく、失踪と見せかけて実際は42時間以内にルイ・ジョゼフを救出する為、ラソンヌ邸のオスカルと合流したのである。
夜更けを待ってサン・マルグリット墓地に急行したニコーラは見事にルイ・ジョゼフを奪還した。
埋め戻された棺はすでにもぬけの殻であり、小さな無記名の十字架がポツンと立っているのみ。
だがこの時期にわざわざ埋葬された墓を暴くものはいない。
そんなことは誰の利益にもならないからだ。
革命派にとって少年の死は歓迎すべきものだったし、亡命貴族にとっても喜び事ではないにしろ、どうしようもないことだった。
案外、ルイ16世の弟たちは、強力な対抗馬が消えていずれ王位が自分たちに、などと考えてホッとしていた可能性すらある。
また、本来なら弟の死を誰よりも悲しむべきマリー・テレーズは、クリスを通じてこの一連の計画を完全に承知していたので、ただただその成功を喜んでいた。
同じ塔内にルイ・ジョゼフがいることは心強く嬉しいことではあったが、過酷な環境にいつまでも耐えられる体ではない従兄弟が、一刻も早くきちんと治療を受け快復できる環境に身を置くことができるのなら、たとえひとり残されたところでそれを恨むものではなかった。
彼女は震える喜びを押し隠し、何も知らない振りを続けた。
つまりは日々聖書を読むことに費やしたのだ。
こうしてルイ・ジョゼフはラソンヌ邸に戻ってきた。
ルイ・シャルルはすでにバルトリ侯爵によってノルマンディーに移され、ナポリ王妃の元に送り届けられることになっていた。
ナポリ王妃はマリー・アントワネットの姉であり、娘は兄の子であるオーストリアの神聖ローマ帝国皇帝に嫁いでいる。
従って実家であるハブスブルグ家への発言力は強い。
ナポリ王妃は甥であり娘婿である神聖ローマ帝国皇帝に対し、マリー・テレーズの解放に向けてフランス政府に働きかけるよう使者を出した。
尊敬する母マリア・デレジアが最期の瞬間まで案じ続けた末妹マリー・アントワネット。
その妹が娘の名前を母からつけたように、ナポリ王妃もまた娘のひとりにマリーア・テレーザと名付けていた。
そしてこのマリーア・テレーザこそ現在の神聖ローマ帝国皇后マリア・テレジアである。
ナポリ王妃は妹の子どもたちを取り戻すため、精力的に動いた。
そしてルイ・シャルルの死後2ヵ月とたたないうちに、フランス共和国政府は、フランス人捕虜との引き換えによりマリー・テレーズの身柄を神聖ローマ帝国に引き渡すことに同意したのである。
ラソンヌ邸でルイ・ジョゼフは老医師とクリスの診察を受け、ソワソン夫人とディアンヌ母子、さらにロザリーまで加わっての完全看護を受けた。
「これで快復しなければ嘘だな」
オスカルが枕元で笑うほどの快適な環境だった。
「まったくだ。フランソワが実にうらやましそうに見ていたぞ」
「いや、フランソワだけではない。ベルナールも、なんとアランまでもが羨望のまなざしだ」
アンドレは短くなったろうそくを取り替え、さらに暖炉に薪をくべ、快適な環境を整えていった。
これほどまめまめしく働くアンドレから見ても女性陣の看護は徹底していた。
かゆいところに手が届くほど、微に入り細に入り、とにかくこの世の天国だ。
ルイ・シャルルからルイ・ジョゼフに戻ったのだ。
もう偽ることはいらない。
一刻も早く快復し、ノルマンディーに帰ろう。
一足先に帰ったニコーラがきっとまたニコレットと不可思議で優しい会話をしながら待っていてくれるだろう。
バルトリ侯爵夫妻は何も言わずにただ笑って受け入れてくれるはずだ。
そして大きくなったであろうミカエルとノエル。
ああ、どちらから先に名前を呼ぼうか。
同時に呼ぶ方法を考えなくては…。
タンプル塔での出来事はすべて終わった。
暗黒の日々を思い出すことはするまい。
いっさいの記憶よ、永遠にこおりつきセピア色の化石ともなれ。
ルイ・ジョゼフは本当に幸福だった。
「鼻歌を歌いながら死ぬよりずっと良かっただろう?」
オスカルが意地悪く尋ねた。
「なんのことですか?」
キョトンとするルイ・ジョゼフの掛布をオスカルはなおしてやった。
「おまえがそれを望んでいると、どこかの馬鹿が言っていたのだよ」
おいおい…、あわてふためくアンドレに、驚くほど鋭い視線を投げつけられた。
「いや、まいりました。完全に降参です」
アンドレは両手を挙げた。
「あたりまえだ。ルイ・ジョゼフ、どうだ?生きていてよかっただろう?」
「はい。本当に…、生きていて良かった…。生まれてきてよかった…。ありがとうございました」
オスカルは弟子の涙にそっと唇を寄せた。
「あっ、寝る前に薬を飲まなくては…。またクリスにどやされる!」
アンドレが枕元の籠から薬袋を取り出した。
水差しをとり、カップに注ごうとして、中が空であることに気づいた。
「オスカル、水を…」
粉薬の分量をはかりながらアンドレはオスカルに言った。
「水? わかった。すぐ持って来てやる。待っていろ…!」
オスカルは笑いながら駆けだした。
長い金髪がひるがえってキラキラとろうそくの灯をはね返す。
アンドレは話題を変えられたことにホッとしながらその後ろ姿を見送った。
ルイ・ジョゼフの背に手を添えて身体を起こしてやる。
確かに、オスカルの言うとおりだ。
生きているからこその喜びだ。
その姿こそが美しいのだ。
それこそが自分の心を震わせるのだ。
やがてコップを持ったオスカルが戻ってきた。
アンドレは計量のすんだ粉薬を薄紙にあけてルイ・ジョゼフに渡し、オスカルの手元からコップをしっかりと受け取った。
「さあ、ルイ・ジョゼフ…」
ルイ・ジョゼフは素直に薬を口にして、その苦さにちょっと顔をしかめてからぐっと水で飲み込んだ。
オスカルがそれでいいとうなずいた。
少年は再び身体をよこたえ、やがて静かな寝息が聞こえてきた。
オスカルとアンドレはそっとろうそくの灯りを消し、並んで部屋を後にした。