1789年7月10日午前10時 オスカルは衛兵隊に別れの挨拶をした。
その様子を、遠く離れたところから、騎乗したジェローデル少佐が見つめていた。
オスカルの後任としてフランス衛兵隊ベルサイユ駐屯部の隊長となったタグー大佐から、この日の国民議会の議場警備を近衛隊に代わってほしいとの依頼がきたのが2日前だった。
普通ならあまりに直前すぎてやりくりがつかず、即座に断るところだったが、依頼状に添えられた事情を読んで、ジェローデルはその場で受諾した。
かつて許婚者を名乗ることを許された美しい元上官が、部下に最後の挨拶をするためだというのである。
それならば、なんとしてでも協力したい。
唯一の愛の証が身を引くことだと、当の許婚者に告げはしたが、もう一つの証として、彼女の軍人としての最後の願いをかなえたいと思ったのだ。
もちろん、何をしても、どれほど尽くしても、決してかなえられることのない思いであることは一切承知の上での、いわば純愛だ。
それがわれながらおかしくもあり切なくもあった。
承諾の返書を衛兵隊の使者に手渡すと、ジェローデルは、急遽、休暇中の近衛兵からかつてかの人の部下であったものを選び、寄せ集めの班を急ごしらえした。
そして臨時に任命した班長を呼び、理由を簡潔に告げ、兵士にも伝えるよう指示した。
班長は黙って美しい敬礼をし、ジェローデルの前から去っていった。
彼にも心に秘めた元近衛連隊長への思いがあるのだろう。
人徳だな、と感服した。
退任の日、夏の空はどこまでも明るく、高く、澄み渡っていた。
まるであの人の心のようだ。
衛兵隊の元司令官室の窓が開いていて、豪華な金髪が光を照り返している。
マドモアゼル…
ジェローデルはそっとつぶやいた。
おそらくこの瞬間、彼女は選び抜いた言葉で部下に語りかけているはずだ。
だが、元部下で元許婚者であるジェローデルはそこから遠く離れた場所にいる。
懐かしい声は聞こえない。
恋いこがれた表情も見えない。
それでも、間違いなくかの人はあそこにいるのだ。
あそこから兵士たちに語りかけているのだ。
ジェローデルは息を止めてじっと見つめていた。
荒くれ兵士たちは、遠目にもわかるほど身を縮め、真剣に窓辺を見あげていた。
見事な統制ぶりである。
よそ見をしているものは一人もいない。
荒れ放題だった衛兵隊をここまでまとめた技量に今さらながら敬服する。
よい噂など聞いたこともない連中だったのに。
だが、それは貴族の集まりである近衛隊でもそうだった。
女の隊長なんてという言葉を、入隊時には一人残らずが吐いていた。
けれど、ひと月もすれば全員崇拝者になっていた。
何より自分がそうだった。
出会ったころは女のくせにと思っていた。
「ちっこいな」と笑った人を見返したくて、剣の稽古に励み、背も追い越して、いつかこの手で守ってやりたいとすら思うようになっていた。
その思いは見事にかわされてしまったが、衛兵隊の面々も自分と同じ思いでいるのではないか。
一見すると近衛隊のように容姿端麗で品行方正な輩は皆無だが、そういうものを飛び越えて慕われる魅力が、あの人にはあるのだ。
きっと彼らも、付き従いつつ守ってあげたいと思っていたはずだった。
だがその人は今日を限りに軍を去る。
もはや近衛隊でも衛兵隊でもなくなるのだ。
去りゆく司令官の挨拶が終わったようだ。
兵士たちの叫び声が響き渡り、腕を突き上げる姿が見えた。
名残惜しい敬礼ののち、窓は閉じられた。
不思議な静寂があたりを覆った。
兵士たちは、二度と開かないとわかっていてなお、無言でしばらく窓を見上げていた。
「マドモアゼル、お見事です」
ジェローデルははるかに窓を見つめた。
あの窓を閉めたのはおそらく黒髪の従者だ。
きっとあの男も、かの人とともに除隊するのだろう。
彼だけが付き従いつつ守ることを許されている。
彼だけが…。
一陣の風が吹き抜けた。
ようやく兵士が解散した。
狭い場所に集まっていた集団がわらわらと崩れ、三々五々に散っていく。
馬の向きを変えようとしたジェローデルの元に、一頭の馬が近づいてきた。
ダグー大佐だった。
身分も役職もジェローデルのほうが上だが、階級だけはダグー大佐のほうが高い。
軍暦が長いのだから当然とも言えた。
ジェローデルは静かに黙礼した。
大佐は少し驚いたように目を瞬かせ、それから丁重に頭を下げた。
「このたびのご配慮、まことに、まことに、ありがとうございました」
「これはご丁寧に恐れ入ります。わたくしも元部下です。わずかながらもご恩返しの機会を設けて頂き感謝しています」
「そのお言葉、ジャルジェ准将がお聞きになれば、さぞお喜びになりましょう。30分後には衛兵隊を配置に戻します。それまでよろしくお願いします」
「承知しました。では…」
互いに敬礼してそれぞれの持ち場に向かうため馬の向きを変えた。
ダグー大佐は衛兵隊へ。
ジェローデル少佐は近衛隊へ。
馬はオスカルがかつて所属したそれぞれの場所に向かってゆっくりと歩き出した。
にぎやかな声が近づいてきたと思うと、解散した兵士たちが急ぎ足でジェローデルの馬を追い越していった。
貧弱な面構えばかりだな、と笑みをうかべたとき、一人の男が足を止めジェローデルを振り返った。
背が高く黒髪で、なかなかの男前である。
それで思い出した。
二日前、使者として来たのがこの男だった。
男はジェローデルに向かって一礼した。
今日の配慮に対する謝意なのだろう。
衛兵隊にもこういう輩がいるのか、と興味がわいた。
「君、名前は?」
「アラン・ド・ソワソンです」
貴族か、どうりで…。
ふと思いついて聞いてみた。
「ジャルジェ准将は君をアランと呼ぶのか?」
「え…?ああ、そうです。それがなにか?」
不思議なことを問われて、男はあきらかにとまどっている。
「そうか。君たちは幸せだな…」
「…」
貴族の気まぐれにつきあってはいられないと思ったのだろう。
アランは、失礼しますと言うなり、駆け足で仲間の方に走り出した。
ジェローデルは今一度振り返り、閉じられた窓をはるかに見やった。
−わたしは一度もフローリアンと呼ばれたことがないのだよ−
空が悲しいほどに青かった。
この話は本編『惜別3』に続くものです。
「MOM NOM」はフランス語で「わたしの名前」です。
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