La Vie en Rose
作 オンディーヌさま
11月というのに、思いのほか陽射しは強くセーヌの水面はきらきらとその光を返していた。今日はシテ島で集会があるとの情報が入り、一個小隊を率いて遠巻きに見守ることとなった。
屋外の集会場まで駆けつけると、簡単な舞台が用意され、にわか仕立ての役者達が滑稽な化粧をほどこし、貴族の腐敗した生活ぶりを面白おかしく皮肉っていた。観衆は喚声を上げたり、野次を飛ばしたりと、しばしの間、自分達の空腹を忘れているかのようだった。
寸劇が終わり、座長役の鬚面の男がうやうやしくお辞儀をしてみせると、次に壇上に登ったのは若い、演説をするにはまだ、その技巧も身に着けてはいないだろうと思われるほど顔に幼さを残した男だった。しかし、観衆は波を打ったかのように静まり、男が話し出すのを待ち構えている。民衆もこの手の出し物に慣れてきており、良き観客となる術を心得ているかのようだった。
これくらいの集会なら、暴動に発展することもないだろう。オスカルはうっすらと汗をかいた額に手の甲を当て、アンドレを振り返った。アンドレも大丈夫だろうと目で返した。兵士達も神妙な顔つきはしているものの、緊張はほぐれている様子だった。
「長き貴族からの搾取に耐え忍んできた兄弟達よ!」とその男は始めた。男は宮廷の堕落ぶりをあれこれ並べ立て、現在の財政赤字はすべて王妃の浪費によるものだと結論づけた。度重なる戦争への出費も含め、何十年もの間に積り積った莫大な赤字が、決して王妃ひとりの責任ではないことは、本来なら誰にでも分かるはずだが、民衆の感情を煽るためにターゲットを外国から嫁いだ王妃ひとり絞り込むことは非常に効果的であった。観衆は再び喚声と怒声を上げていた。
若い男は右手にたいまつを持ち、王妃を模ったワラ人形に火を点けるため壇上から降りてきた。ユラン伍長が「止めさせましょうか」と馬を一歩オスカルの方へ近づけた。オスカルが左手でそれを制した瞬間、観衆の中から「Viva la reine!(王妃万歳)」という悲鳴に近い女の叫び声が上がった。
「バカかっ!」オスカルに緊張が走り、民衆もその声の主を探し始めた。黒いマントを頭からすっぽりかぶった女が群集の中から抜け出そうともがいていた。オスカルは馬から飛び降り、アンドレもそれに続いた。演説を終えた若い男は、そんな横槍など気にもとめぬ様子で「私達に、もはや支配者はいらない!」と聴衆に訴え、ワラ人形に点火したものだから、民衆の注意はそちらに集中し、燃え上がるワラ王とワラ王妃に民衆は勝ち誇ったような歓声を上げた。
女は群集から抜け出ると、人通りの少ない裏小路に走り込んだ。「八つ裂きにでもされたいのか」と腹立ちながら、オスカルはその後を追った。女は右に左にと道を知り得ているかのように走ったが、最後は袋小路へと飛び込んだ。オスカルがこれで追い詰めたと思った瞬間、女の姿も足音も忽然と消えた。隠れるところもないはずなのに、そんな女など元から存在しなかったのだと言わんばかりの消え方だった。
帰宅の馬車の中、オスカルは昼間の女のことを思い返し、呟いた。「貴夫人には見えなかったが・・・」「昔、宮廷で仕えたことでもあるのじゃないか」とアンドレも怪訝そうな顔で言った。
いまどき「王妃万歳」など、事前に金で買収したとしても決して聞くことのできない言葉だった。2、3年前ならいざ知らず、民衆の怒りは金などでは動かしようがないほどの膨らみを持ち、はち切れんばかりとなっていた。それを、たった一人で身の危険も顧みずに叫ぶとはどういう魂胆があってのことなのだろう。
夜になるとさすがに冷え込みが厳しく、オスカルは腕を組んだまま隣に座るアンドレに身体を寄せ、頭をアンドレの肩に預けた。黄金の髪の下には閉じられた目蓋を縁取るように端整に並んだ睫毛、そして白い顔。いつもと同じ情景。しかし、一時期、それは途絶え、次にこの黄金の頭が自分の肩に返されたときには、それまでとは違う意味を持つようになっていた。アンドレは右手でそっと、その頭をなで、黄金の髪に自分の唇を軽く押し当てた。伝わってくるのは絹のような柔らかな感触とオスカルの体温と甘い香りだった。
「こんな時間で悪いのだが、帰ったら湯浴みの用意をさせてくれないか」オスカルが疲れた声で言った。「ああ、分かった。シモーヌに伝えるよ」とアンドレは答えながら、ここ連日のハードな勤務を振り返った。パリのあちこちで暴動が起き、昼食をゆっくり摂る時間さえないほどだった。明日は久しぶりの休暇なので少しは疲れを取ることができるだろう。
「オスカルさま、今日はお庭の薔薇の手入れをしましたので、花弁を浴槽に浮かべましょうか」シモーヌがオスカルの着替えを手伝いながら言った。「ああ、ありがとう」力無げに微笑んだがそういう心遣いはとても嬉しかった。
オスカルは薔薇の泉に身体を沈め、その香気を胸いっぱいに吸い込んだ。オスカルを疲れさせるのは激務だけではなかった。毎日のように見るパリの風景。貧困の中で病死もしくは衰弱死していく平民達。これから冬になれば凍死者も出るだろう。穀物の不作で小麦の値段は跳ね上がり、平民達にはますますパンが手に入りにくくなっている。今度、開かれる御前会議でどんな決議が下されようと、パリ市民の生活水準にはなんら影響を与えるものではないだろう。フランスのためでなく、王室の財政危機打開策を議論するために開かれるのだから。オスカルはもう一度深く息を吸い込み、頭を浴槽の縁にもたれかけさせた。今ひと時だけすべて忘れようと自分に言い聞かせ、全身の力を抜き浮力に身を任せた。
「オスカル!」声にわずかに遅れてドアを勢いよく開く音がした。隣の居間にアンドレが飛び込んできたらしい。「オスカルさまはお湯浴み中です」シモーヌが応対に出てくれた。「衝立(ついたて)越しならかまわん」というオスカルの言葉に二人とも戸惑っている様子だったが、「何かあったのか、アンドレ!」と叫ぶオスカルの声に、シモーヌは仕方なく続き部屋の扉を少し開けた。「かまわん」とは言ったものの、あまりに無防備な姿に思わず浴布を手に取り、身体に巻きつけ再び薔薇の海に輝く肌を隠した。
「パリ巡回中の兵士が襲われた。一人は軽症だが、一人は腕を切り付けられ深手を負ったらしい。そのうえ剣をひとふり盗られたそうだ」アンドレは要点を伝えた。「軍医には診てもらったのか!?」パン屋でもなく、商人の穀物倉庫でもなく、兵士が襲われるとはどういうことかと憤りながら尋ねた。「帰る直前の軍医に縫合してもらったそうだが、出血がひどかったのと、傷が深いので神経を損傷しているかもしれないとのことだ」アンドレが答え終わるのと同時にザバンッという音とともに薔薇の香気が舞い上がった。「見に行く!」オスカルが立ち上がったのだ。アンドレはややどぎまぎしながらも「治療はしてもらった。今からおまえが行くこともないだろう」と付け加えた。「オスカルさま、お髪がまだ濡れておりますし」シモーヌもできるなら、やっと帰宅した主人を家に引き止めたかった。オスカルに二人の言うことを聞き入れる様子はなかった。「髪は後ろでひとつに束ねてくれ」とシモーヌに言うとさっさと身支度を始め出してしまった。
結局また、兵舎に戻り負傷した兵士を見舞うことになった。突然の隊長の出現に負傷兵は戸惑いが隠せない様子だった。わざわざ、いったんは帰った貴族の隊長が自分の負傷を案じて夜中に戻ってくるなど、ふつうでは考えられないことだった。オスカルは負傷した方の手を軽く握り、「指先の感覚が分かるか?」と慈しみ深い眼差しで尋ねた。兵士の指先は凍るように冷たくなっていた。「微かに分かります。ただ、指を動かそうとすると腕の傷が痛むので」兵士は恐縮しながら答えた。「お前達を襲ったのは、どういうやつらだ?剣を奪うために襲ってきたのか?」オスカルは納得しかねるといったふうに尋ねたが、はっきりした答えは得られなかった。
まったく、今のパリでは何が起きても不思議ではない。オスカルは兵士に今夜は兵舎に泊まり、明日、軍医が出勤したら再度、診察してもらい今後の治療と安静度を確認してから帰るように指示を出した。「仕事は可能なら、傷に差し障りのないものを回してもらうよう、お前の直属の上司に伝えておく」腕がまったく動かなくなることはないだろうと確信してオスカルは再び、帰途についた。
馬車の中で「こんな時間で悪いのだが・・」とオスカルは3時間前と同じ体勢でアンドレに言った。「帰ったら私の部屋に来てほしい。少し飲みたいのだ」オスカルから薔薇の香りが立ち昇る。簡単な返答を期待していたのにアンドレは何も言わない。上目遣いでアンドレの表情を確かめると、諭すような視線で自分を見下ろしている。「だから少しだけだ!」アンドレの肩に預けていた頭をもたげ、アンドレに向き直る。アンドレは諦めと妥協の微笑みをもらし、いったん離れたオスカルの頭を自分の肩にそっと引き寄せた。そして「ああ、分かったよ」と囁くと3時間前と同じようにオスカルの黄金の髪にキスをしながら湿った髪からリボンをほどいた。低く響く声と、幼馴染から伝わる慣れ親しんだ体温が、疲れたオスカルの身体と心を徐々に解していく。外の空気はこれから来る冬の凍て付きを感じさせるものへと変わっていた。
オスカルの部屋にアンドレがワインを一本だけ持って現れたのは、屋敷に着いてから10分もたたない頃だった。オスカルの部屋には隣室から流れ込んだ薔薇の香りが残っていた。
シモーヌはまだオスカルの髪をすいており、オスカルも着替えたブラウスの袖口のホックを自分で留めている最中だった。「ああ、Merci!」とアンドレに振り返って微笑み、シモーヌに「あとは自分でやれるよ」と言ってブラシを受け取った。シモーヌを引き上げさせるとブラシはそのまま近くにあったマホガニーの小テーブルに置いてしまい、アンドレからグラスを受け取ろうとにこにこと手を差し出した。だが、その手に渡されたのはワイングラスではなく、冷たい水の入ったグラスだった。「のどを潤すために酒を飲むのは止めろ」いつになく、譲歩の余地を与えそうもないアンドレの表情と彼に握られたままのワインのボトルを交互に見ながら、あれを飲むためにはどうやら先にこの水を飲むしかなさそうだとオスカルは悟った。水をいっきに飲み干すとグラスをテーブルにコトッと置き、長椅子に両腕を広げ、ゆっさと腰を下ろしてアンドレをチラッと仰ぎ見た。
さあ、次だと言わんばかりの態度にアンドレは苦笑し、ワイングラスに持ってきた白ワインを注いだ。自分も対面の肘掛け椅子に腰を下ろし、自分のグラスにワインを注いだ。が、注ぎ終わるか終わらないうちに「今日は二度も出勤させてすまなかった」と早口で言うとオスカルは一杯目を飲み干した。そして二杯目の催促の笑みを浮かべている。呆れ顔のアンドレが「おまえは酒の味わい方を知らん」と言うと、オスカルが「何を言う!酒は3本目くらいから味わうものだ」と言い返す。このままでは四本目、五本目までも持って来いと言いかねない。
アンドレはひとつ溜め息をついて、オスカルの隣に座り直し、希望通りの二杯目を注いでやる。「疲れた身体に何本も酒をあおってはだめだ。身体の方が参ってしまう。それでなくても、最近のおまえの顔色は青白く奥様も心配している」アンドレの神妙な声に耳を傾けながらも、オスカルは注がれた杯を空けずにはいられなかった。「あいにくだが、このデュオニソスの胃袋は底なしだ」オスカルの口元に皮肉な笑みが浮かぶ。「そんな色気のない例えをするな」アンドレが嗜める。「どうしてだ?デュオニソスは美青年だぞ」「ああ、だが残念ながら俺にはその趣味はない」「ふ、それは残念だ」空になったグラスに自分でワインを注ぎ、口元へ運ぼうとするその手をアンドレが遮り、テーブルの上に戻した。オスカルの瞳には、自分の行動を抑制された苛立ちがありありと浮かび、アンドレの瞳には、相手の手を押さえ込むという威圧的な腕の持ち主とは思えないほど、静かで清らかな光が漲っていた。二人はグラスを仲介にしばらく見つめ合ったままだった。
「ふ、おまえには負けるな」オスカルの方が先に目をそらし、グラスから手を離した。「たまには、負けておけ」アンドレの笑顔がオスカルの沈んだ気持ちが浮き上がろうとするのを後押しする。
まったく、我が幼馴染殿は不思議な力を持ち始めたものだと、今さらながらに驚嘆する。こいつの放つ鮮烈な光は自分に対してだけのものだろうか?他の女性になったことがないから、確かめようがないのだが、おそらく私に対してだけのものなのだろうなと自分で結論付けておいて、思わず口元が緩んだ。
「何が可笑しい?」
「ああ、この国の貴族と僧侶のことだ・・・」
「今度の御前会議でもなにも決まらないだろうな」
「あれだけ、頑なに自分達の特権ばかり死守していては、なにも好転せん」
「事態を軽く見すぎだな」
「自分達の力を過信しすぎなのだ。この暴動が一時的なもので、武力で簡単に制圧でき続けると思っているのだからな」
「そう思っているから自分達の権利のことしか頭にないのさ」
そう言って二人は溜め息をついた。
ブルルジョワの持つ力は確実に強くなってきていた。そして知識層の王政批判の声は日に日に鋭いものとなっていった。その第三身分の台頭に比べ、僧侶はといえば、宗教革命の起きたあとのイギリスに対し、いまだ華美な生活を営み、広大な土地を所有し、農民から絞り上げる税金で特権身分の上にあぐらをかいている。また、貴族はどんなに国の財政危機が深刻なものになろうとも、自分達への課税を受け入れようとはせず、名士会や高等法院を見方にあくまでも自分達の特権を維持することを譲らなかった。ネッケル、カロンヌ、ブリエンヌという財務総監達がどんなに財政の根本改革とその解決策としての貴族・僧侶への課税を主張しても撥ねつけ続けてきた。こうしてどうしても自分達の権利のみを主張する特権階級と、徐々に力を蓄え、啓蒙思想を普及させ、またその怒りを増大させてきている非特権階級との力の緊張は、ますますその度合いを高めていっていた。
パリでは毎日のようにどこかで集会が開かれ、ビラが撒かれる。そして、パン屋が襲われ、貴族の馬車が襲われる。その陰で飢えた民衆は体力の無い者から、その生命が絶たれていく。その現実をいつも目の前に晒されながらも、自分ひとりの力ではなにも解決に向かうようなことができない。オスカルはまた、大きな溜め息をつき、アンドレに視線を移した。
二人ともこの拮抗する二つの力が、いつかぶつかり合い、なにかがはち切れるという確かな予感を胸に抱いていた。見つめ合っていた二人だったが、アンドレは突然、オスカルを引き寄せ、抱きしめた。オスカルは抱きすくめられたまま顎をアンドレの肩にのせ、その抱擁に身を任せた。
「地響きが聞こえてきそうだ」
「ああ、飲み込まれそうだな・・・」
フランスには変革が必要なのだ。フランスの現実がこの遅すぎた変革を必要としている。それがどういう形のものになるかは分からない。また、どういう犠牲が強いられるのかも想像し難い。ただ、この国の価値観が根こそぎ覆されるその前に、変わらなければならないのは自分なのだ。それができるのだろうか、私に・・・
オスカルはアンドレから身体を離し、アンドレのグラスにワインを注いだ。「おまえも飲め。私が飲みすぎないように」と言いながら自分のグラスにもなみなみとワインを満たした。
「結局、飲むんだな!」アンドレが呆れて言った。「最後の一杯だ!」アンドレは自分の眼力がまだまだ、未熟であることに苦笑しながら、ともに杯を空けた。
アンドレが私の傍らにいてくれるなら、私は変われるのかもしれない。まったく違う自分にではなく、本来あるべき自分に。
オスカルに柔和な表情が戻り、アンドレに身体をもたれかけさせたまま「眠くなってきた」と呟いた。「そうだ、今日は早く寝ろ」とアンドレも促す。「今からでは早くもあるまい。・・・寝室まで運んでくれるか」アンドレは立ち上がり、「御意に」とお辞儀をするとオスカルを抱き上げ、隣の寝室まで運んだ。寝台にそっと寝かせると靴を脱がせてやり「おやすみ、オスカル」と額にキスを贈り、扉の方に歩きだした。オスカルは低い声で「アンドレ・・」と呼び止め目で戻るよう合図する。アンドレが自分の傍らに腰を下ろすと、半身、起き上がり、その首にふわっと自分の腕を巻きつけた。
アンドレは帰宅早々、着替えも済まないうちにワインを運び、その疲れた身体を一刻でも早く休ませてやりたいという当初の計画を諦めた。オスカルの薔薇の唇を迷わず自分の唇で覆うと、オスカルは一瞬微笑んだ。なだらかな曲線に手を沿わせながら、ブラウスのリボンとコルセットの紐を解くと、露になった肩や胸の膨らみに、その薔薇の香りを吸い取るように甘い口付けを与えた。
アンドレから受ける愛撫は、ひととき苦悩を自分から遠くへ押しやってくれるようにオスカルには思えた。それは不確かな明日への不安をかき消し、「アンドレの存在と自分の存在」という否定しようのない確実な存在を確かめ合う行為だった。二人はより深く唇を重ねあい、お互いの身体を確かめ合うように手や指を滑らせ、そして抱きしめた。そして、見つめ合いまた口付けを交わす。アンドレはオスカルの細い胴を抱き寄せ、その胸に自分の顔を埋めた。オスカルは自分の掌でアンドレの背中を吸い付けるように抱き、全身でアンドレの存在を受け止めた。
二度と触れないと誓い、手に入れてはいけないものと言い聞かせてきたものを自分のものにしてしまった怖れがアンドレを包み込む。この至福の時にあってさえ、怖れの感覚が上回ることがある。アンドレはその感覚を鎮めるかのようにオスカルの手の甲に掌に何度もキスを繰り返した。
アンドレは眩しくて目が覚めた。朝日がではなく、傍らに眠る黄金の波が陽光を照り返しているのだ。いつもはこんな時間まで一緒にいることはなかった。オスカルが眠ったのを確かめて、自室に戻っていた。だが、夕べは違った。オスカルから身体を離そうとするたび、オスカルが腕をつかみ、背中に腕を回し自分が離れるのを拒んだ。
アンドレはもう一度傍らに眠る黄金の髪の女神を眺めた。顔にかかる髪の一房を耳の後ろに流してやると陽に透ける白い顔と薔薇色の唇が穏やかな寝息をたてていた。アンドレは背中にかかるシーツをそっとめくった。軍服を着ている時のオスカルは頚椎から胸椎、腰椎と不自然なほどまっすぐに伸ばし、どんな軍人よりも凛とした姿勢を保っている。だが、今、自分の傍らで豊かな胸の膨らみを隠すように眠る女神の脊椎は自然な湾曲を描き、しなやかな肢体を伸びやかに横たえている。
オスカルが温もりを求めるようにアンドレの方に身体を寄せた。「ああ、すまない」アンドレはシーツを掛け直し、オスカルを抱き寄せた。オスカルの青い目が開かれた。吸い寄せられそうな青い瞳で見据えられて、アンドレは何か言おうとしたが、その前にオスカルがアンドレの首に腕を回しそのまま朝の挨拶を交わした。アンドレはもう一度愛しい女神を抱きしめたい衝動に駆られたが、オスカルの方からすっと身体を離した。オスカルは薄い夜着を探し当てるとさっとはおり、立ち上がった。陽光が夜着を透かして美しい肢体を浮かび上がらせる。一般の貴婦人との絶対的相違点は柔らかな肌の下の鍛え抜かれた筋肉だろう。乗馬や剣術で鍛え抜かれた形の良い筋肉の上に薄い皮下組織とピンと張った皮膚がのっているので、肌自体の美しさとの相乗作用で輝くばかりの透明感を出しているのだ。
大腿の後ろの筋は膝の上でいったん終始し、その下に女性らしいくぼみを描いている。膝を見なくてもその形のよさが想像できる。下腿の筋は歩くたびに少年のそれのような隆起を示し、細い足首のうえで終始する。
オスカルは素足のまま、足底で床をつかむような足取りで衝立のところまで歩いて行くと、視線に気づいたかのように振り返ってアンドレに言った。「いつまで見とれているのだ!遠乗りに行くぞ!」そう言うと赤く染まった頬を隠すように衝立の後ろに消えてしまった。
昨晩の帰りが遅かったので、召使達が気を遣いオスカルが呼ぶまで誰も来なかった。二人はやや遅めの朝食を摂ると久しぶりの遠乗りに出かけた。子供の頃からよく行った丘まで馬を走らせると、二人は馬を下り、草の上に腰を下ろした。
風がオスカルの黄金の髪をなびかせていた。オスカルがアンドレに顔を向けると風でアンドレの隠されていた左目が露になった。アンドレは眩しかったのか額に手をかざした。オスカルは手を伸ばし、左目の傷にそっと触れた。自分が負わせた傷、自分が奪った視力。その手をアンドレは額にかざしていた手で取り、気にするなといった表情をした。
オスカルは言った。「おまえは以前、片目くらいいつでも私にくれてやると言ったな」その言葉はアンドレに負わせた怪我の事実以上にオスカルの心臓をえぐる言葉だった。「では、私を守るためならおまえは命もかけてくれるか?」アンドレは微笑を浮かべ「俺の持っているものなら、なんでもおまえに差し出すよ」と淡々と言った。
オスカルの心臓に突き刺すような痛みが走った。次の言葉が出なかった。二人に沈黙が続いた。オスカルはなにかを言おうとしているのだが、どう切り出していいか分からず、アンドレにはそれ以上言うことがなかった。 オスカルがやっと口を開いた。「前はよくここへ遠乗りに来たものだ・・」「ああ、ヴェルサイユの街が一望できる。その奥にパリも見えるしな」アンドレが眩しそうに景色を見渡しながら言った。
「昔はよかった。物事がもっと簡単で、良いものと悪いもの、美しいものと醜いものとに整然と分かれていて選びやすかった」オスカルの片方の口角が持ち上がり、寂しげな微笑を湛える。フランスの今の情勢を考えているのだろうか・・アンドレは無言でオスカルを見つめていた。オスカルはいったんその目を閉じた。
しばらく経ってオスカルがアンドレに向き直りやや怒りを含むような口調で言った。「アンドレ、おまえ自分の言っていることの矛盾に気がつかないのか!?」いきなり矛先を自分に向けられ、アンドレは戸惑いの表情が隠せない。その表情を見てオスカルの語調がより強くなる。「おまえ、私だけを一生涯愛し抜く、私をけっして一人にしないと誓ったのはうそか!?」
今更なにを言い出すのかと思ったが「どうしてうそだと思うんだ?」と、わざとおどけて見せた。確かに馬を走らせている時まではオスカルは非常に機嫌がよかった。気を悪くさせるようなことを言った覚えもないが・・・と考えているとオスカルがまだまだ本論に入ってないといった風に言葉を続ける。「おまえがそんなに易々と私のために命を投げ出してしまったら、私だけを愛しぬくおまえの生涯は非常に短いものになり、おまえを亡くし、一人になってしまった私の人生は永遠よりも長いものになってしまうではないか!!」オスカルは息継ぎもせずに、一気に言い切った。
アンドレは唖然として、その言葉を聞いていた。なにを人の言葉尻をとらえて言い出すのだと噴き出したくなるくらいだった。しかし、オスカルの険しい表情を見ると、もしかしたら「おまえのためにこの命をかけよう」という自分だけの誓いをオスカルは見透かしてでもいるのだろうか、と思い直す。
二人は、互いの思いを確かめ合うように見つめ合っていた。
前はこんなではなかった・・・
こんなにも臆病ではなかった・・・
なにかを失うかもしれないということに、これほど、身体を引きちぎられるほどの恐怖を感じるなどということなどなかった・・・
アンドレが「おまえのためなら命もくれてやる」というのは決して言葉だけのものではない。いつかフランスが変革を成し遂げるための犠牲として、自分達の命を選んだ時、アンドレは自分の変わりに易々とその命さえ投げ出してしまうだろう。そんな危うさがオスカルの胸を締め付けていた。
かつて自分は王室のため王妃様のため命をかけることができた。今は祖国のために命をかけようとも思う。しかし、アンドレを失った人生など考えることさえできない。この混沌とした世の中で自分を見失わないようにいられるのも、時には人生が薔薇色のように美しいと感じる瞬間が持てるのも、今浴びている陽光がすがすがしいと思えるのも、風と木々の囁きに耳を傾ける心の余裕が持てるのもすべてアンドレがいつも傍らにいてくれるからだ。
「アンドレ、おまえが死んでは私は生きていけない」オスカルは胸の奥から搾り出すような声で言った。
「そんなに簡単に死んだりしないさ」アンドレが低い静かな声で言う。そんな言葉に納得できないといった風のオスカルに「オスカル、この動乱がおさまったとしてもだ、いつかはどちらかが先に死ぬんだ」いつもの優しい微笑みを湛えてアンドレは言った。そんな当たり前のことを聞かされても、オスカルの苦しげな表情を和らげる効果などなかった。
アンドレは、微笑みは残したままひとつ溜め息をもらし、続けた。「では、昔、おまえが読んでくれたギリシャ神話に出てきた老夫婦のように、神様に頼んで最期は一緒に木にしてもらおう」昨晩、自分の腕の中に抱くことに怖れさえいだき、今朝はその美しさに神々しさまで感じた女神が実はやはり昔からよく知るオスカルであり、昔とは違う感情を自分に注いでくれているという実感がアンドレの心を満たしていく。アンドレは青い瞳の表情がほんの少し変わったオスカルを抱き寄せようとした。しかし、オスカルはその腕を返し、自分の感情を整理するように小さな溜め息をついた。
アンドレはそんな話を憶えていたのか・・確か、なんだったかとても良いことをした老夫婦のもとに神が現れ、褒美として何かひとつだけ願いを叶えてやろうとおっしゃった。老夫婦は今までともに長い人生を生きてきた。なので、どうか最期も一緒に神のおそばに召してほしいと、自分達の願いをつげた。そして、とうとう最期の瞬間が訪れた時、神はいつまでも長い月日の思い出を語り合う二人をともに木の姿に変えた。
若くして、この世を去ったアンドレの両親。この老夫婦のように年老いるまで添い遂げることができなかった両親への思いが、こんな話をアンドレの心の奥底に大切にしまい込ませていたのだろうか・・
オスカルに凛とした表情が戻り、いったんアンドレに視線を投げた後、前に広がる風景のさらに遠くを見るように言った。「ならば、神がその願いをお聞き届けくださるよう、私たちはこれからよほどの善行を積まねばならないということだな」やっといつものオスカルらしい言葉が返ってきた。
二人は並んで座ったまま同じ風景を見下ろし、同じことを考えていた。フランスの行く末と自分達の未来とを・・・どちらかが先に死ねば、残されたどちらかも生きてはいけない・・・だが本当に二人揃ってこの変革の時期を生き残りこのフランスの行く末を見守ることができるのだろうか・・・いや、ともに生き残ることよりも、今二人で眺めているこの景色をともに美しいと感じ、傍らに座る幼馴染みの恋人の存在を自分よりも大切に思えること、またそういう相手を神が与えてくださった奇跡にこそ感謝すべきではないだろうか・・・
1788年、11月。今から219年前、フランスはまさに革命前夜だった。
―つづくー