La Vie en Rose
作 オンディーヌさま
朝早いパリの街をぼろ布に包んだわが子の遺体を抱き、痩せた若い父親が歩いていく。
その後には、その子の母親だろう女の遺体が荷馬車に乗せられ続く。
赤ん坊は死産か、それとも生後まもなく十分な栄養を与えてやることさえできず息絶えたのか。
母親も出産と産褥期を乗り越えられるだけの予備力を持ち合わせていなかったのだろう。
食べていくだけの力を持たない家庭に葬儀を出す金があろうはずもなく、おそらくどこかの共同墓地に母子で放り投げられるしかないのだ。
こんなことはパリでは見慣れた、珍しくもない光景である。
現体制がもたらす飢えが、力弱き身分のさらに力弱い者達の生命から奪っていく。
その日はパリの留守部隊へ立ち寄ってから出勤することになっていた。
馬車の中から、オスカルとアンドレはその光景を見ていた。
(あれも私達と同じ人間だ、アンドレ!)と言葉に出してしまえば、よけい胸を締めつけられることが分かっていたオスカルは言葉には出さず、ただ瞳を閉じた。
アンドレは遠ざかっていく、父親の姿をずっと眺めていた。
あの父親の胸の中の思いは悲しみだけなのだろうか。この不条理を嘆き、この運命を強いる者に対する憎しみを持つ力さえもう残ってはいないのだろうか。
馬車がパン屋の前を通り過ぎようとしていた。黒いマントをかぶった女が店の前で身じろぎもせず、硝子一枚隔てた店の中の商品に見入っていた。
馬車がその前を通り過ぎた瞬間、オスカルが叫んだ。「いつかの女だ!」
馬車を止めさせ、立ち尽くしている女に駆け寄ろうとすると、それに気づいたかのように女は店の中に駆け込んだ。
オスカルとアンドレも店の中へ入る。
しかし、そこには店の者さえ見当たらない。
「誰かいないのか!」
オスカルが叫ぶと、奥からこの店の主人と思われる男が出てきた。
「今、女が入っていったが店の者か?」
オスカルの問いにきょとんとした顔の主人は「売り子が雇えるほどの余裕もございませんので、私ひとりきりですが」と答える。
「では、客か?」店内を見回しながら、オスカルが訝しそうに聞く。
「今日はまだ誰も来ておりません。パンを値上げしてからお客は減りまして」
何かを隠している風でもない主人との問答はやめ、オスカルは外へ出た。
女の立っていた位置に自分も立ち、同じように硝子の中の商品を眺めてみた。
すると、自分のまん前に、店の棚のちょうど中央に位置する場所にパンとパンはさまるように王妃の肖像画が飾られていた。
「これを見ていたのか!?」
「おおかた、パンを買う金がなかったので主人に見つからないよう裏口からそっと逃げたんだろうよ」アンドレはそう言いオスカルを馬車へと促した。
オスカルの執務室に夕日が差し込んできた。
「ショコラでも煎れてくるよ」アンドレが立ち上がり、カーテンを閉めた。
最近、アンドレはちょっとした陽射しに眩しそうな表情をする。
「書棚の右の引き出しに、武器庫の在庫を記した書類があるはずだが」オスカルが探して手渡すよう指示を出す。
書類を捜すアンドレの指先に焦りが見える。
前はそんなに手間取りはしなかった。
何も言わないというのは隠しているということなのか?
「ああ、これだな」アンドレが笑顔で書類を手渡す。
その右眼をオスカルの青い瞳が見据えるが、これといった反応はない。
アンドレがパタンとドアを閉めて出て行くと同時にオスカルは急に咳き込んだ。
この咳も最近続いている。
それに、毎日、夕方になると熱っぽい。
風邪だと思っていたが、咽喉が痛くなるわけでもなく、高熱が出ることもない。
この倦怠感も疲れだと思っていた。違うのか??
なにより、酒のまわりが早くなった。これはどう考えてもおかしい!!
朝の女といい、なにか不吉な・・・
そうだ、あの女・・・
あの女は飢えているような女じゃない。
飢えている人間があのように走れるものじゃない。
だが、あのマントもさほど上等のものではないし、田舎から出てきたブルジョワの女なのだろうか。
生活するのになんの苦もないが、どんなに金があっても手に入らない貴族の身分というものに焦がれてでもいるのだろうか。
それが高じて狂信的な王室崇拝者にでもなったとでもいうのか。
そういうタイプの人間はなにをやらかすか分からん。
平気でテロでもやってのけるのだ。
今のパリにはいろんな人間が流れ込む。
注意せねば、どんな流血沙汰が起こるか分かったものじゃない。
考え事をしていたオスカルはノックの音にはっとした。
甘い香りとともにショコラを持ったアンドレが入ってきた。
その飲み物は疲れを取ってくれるような甘さだった。
「今日は早く帰ろう。おまえも今日の御前会議の結果が早く聞きたいだろう」
「うまい誘い方だな。アンドレ!」オスカルがにっと笑う。
きっと、父上からなにかお話があるだろう。
今日は切り上げた方がよさそうだ。
アンドレはオスカルの前の書類を整理し、筆記具をいつもの所定の場所に整頓し始めた。
その指先にはなんの迷いもなかった。
私の思い過ごしか・・・
この咳も、きっと疲れで風邪が長引いているだけなのだ・・・
―つづくー