La Vie en Rose
作 オンディーヌさま
「三軒目のお店でやっとありましたよ!」オードリーがDVDを手に息を切らせて部屋に入ってきた。
先に帰宅していた4人は、押入れに隠していたテレビをアンドレに頼んで、リビングに運び出してもらい、あらかじめ用意しておいたシャトー・ブリオンをテーブルに用意してオードリーを待ち構えていた。
借りてきたのがビデオではなく、DVDだとなると勝手な早送りは不可能となった。
「政治・歴史絡みの場面はオスカルさまにしゃべりかけて、なんとか気をそらせるように」という無茶な命令がサ・ワラビー夫人から出た。だが、なんといっても原語はドイツ語である。字幕を参考にするにしても限界がある。しかし、他に手立てがあるわけでもなく、3人は困惑した面持ちで、遠い昔に見たきりのDVD鑑賞の準備に取り掛かった。
「ウィーン会議のなかでも、このグラーブ産のシャトー・ブリオンというお酒は活躍したそうですよ」サ・ワラビー夫人が作り笑いでそう説明した。
「とにかく、飲もう!映画の方はすぐにでも始めてくれ!」オスカルは上機嫌だった。
アンドレがコルク栓を抜き、5人のグラスが満たされた。
「では、見るぞ!」また、三婦人が妙な盛り上がりを見せないうちにオスカルはさっさと一杯目を飲み干し、目で映画はまだかと合図を送ってくる。
スタートボタンが押され、三人は妙に真剣な表情に変わった。
「娯楽性が強い映画ではなかったのか?」オスカルが可笑しそうに聞いた。
「ええ、そうです。ただ、あまりにも久しぶりに見るので詳しい内容は覚えてないんですよ」と言い訳ともなんともつかない説明をオードリーがしていると、映画の中でメッテルニヒがなにやらしゃべりだした。
「さっきの娘さんはどういう感じの人だったんですか?」いきなり、オンディーヌが映画とは無関係のことを聞いてきた。
「ああ、大学生で英語を勉強しているそうだ。20歳とは、まだ若いな・・・」そう答えながらも、オスカルが画面から目を離すことはなく、しっかりドイツ語の台詞は聞き取っているようである。仕方なく、オードリーが消音ボタンを間違って押したフリをした。
「音を戻せ、オードリー」オスカルはいたって落ち着いていた。仕方なく、オードリーは音量を元に戻したが、メッテルニヒも大したことはしゃべっていないようである。
やがて、場面は手袋屋へと移った。
「なんだ?この格好は?まるで寝巻きではないか!しかも、あんなにスカートをたくし上げて、下着が丸見えではないか!」オスカルは肘掛に肘をつき額を押さえながら言った。
手袋屋の娘やその友達が、若さがはち切れんばかりに高い声で身体を寄せ合って、おしゃべりに興じている場面が映し出されていた。この時代のドレスはハイウェストで切り替えられ、パニエは廃止となりスカートも膨らんではいなかった。
「これだけ、たくさんのレースが足元までつけてあるということは、見せてもいい下着という感覚なんじゃないでしょうか?」
「見せてもいい下着?そんなものがあるか!」険しい顔つきのままオスカルが言った。
(あってもいいわよねぇ〜)という意味合いの視線をオンディーヌがアンドレに投げると、アンドレは軽いウィンクで返した。
「ニタニタするな!アンドレ!」オスカルもアンドレの表情を見逃さなかった。
手袋屋の娘、クリステルの元へロシア皇帝の迎えの馬車がやってくる。娘は友達を尻目に嬉々として馬車に乗り込む。そして、有頂天の娘が皇帝の用意した別荘に向かう間、この映画の主題曲ともいえる「Das Gibt’s Nar Einmal」が流れる。
この世に生まれて ただ一度
このすばらしき まさに夢
軌跡のように降りそそぐ
まばゆい黄金の光
この世に生まれて ただ一度
きっとこれは夢 まぼろし
人の一生にただ一度
二度とかえらぬ 美しい思い出
春のつぼみ ほころび 花ひらくとき
うるわしき日々よ 人生よ・・・
三人は、あらためてこの歌詞をかみしめ、自分達が奇跡的な出会いをし、そして別れがすぐそこに来ていることを実感していた。そして、これから帰っていく二人にこの歌詞のような「うるわしき日々よ、人生よ・・・」と思える日々が訪れるのだろうかと、それぞれが思いをはせていた。
明るいメロディーが逆に三人をよりしんみりとさせた。
「会議はいったいどうなったのだ?」
手袋屋の娘の淡い恋を中心に物語が進行しているのに、オスカルは段々、じれてきたらしい。
「会議はご覧のとおりですよ」
サ・ワラビー夫人がそう言ったとき、空の議会席の椅子がワルツに合わせて前後に揺れている映像が流れていた。
「ヨーロッパを巻き込んだフランスの変革は失敗に終わったということか?」
「いいえ、オスカルさま。フランスの変革が世界を前進させたのです」サ・ワラビー夫人は続けた。
「オスカルさま、私達は繋がっているのです。時空の扉でではなく、歴史という繋がりでです。フランスの変革がなかったら、この国の現在も違っていただろうと言う人もいます」
オスカルはその説明を受けても表情を変えなかった。
いよいよ、映画は終盤に差し掛かっていた。ナポレオンのエルバ島脱出を告げる伝令が、舞踏会が行われている広間をメッテルニヒ目掛けて、人ごみを掻き分けていた。
オードリーは急いで、テレビの前に立ちふさがるようにして、ワインのボトルを傾けた。
「フランスはタレイランという男が政権を握るのだな」オスカルがぽつりと言った。
三人は顔を見合わせたが、オスカルのつぶやきには答えようとしなかった。
映画の中では、それぞれの国の代表が、ナポレオンの復活に恐れおののき、自国へと足早に帰って行った。酒場でクリステルとともに過ごしていたロシア皇帝のもとにも報告が入り、本当の理由は告げないまま、皇帝は馬車で去っていった。急な別れに涙で見送るクリステルの後ろで、酒場の楽師達が前出の主題歌を励ますように、演奏していた。その曲は同じ曲であるのに、とても哀愁のある、人生の悲哀さえ感じさせると言っていいほど切なくラストシーンを飾っていた。
オスカルはそれ以上の質問はしてはこなかった。
映画が終わると、オードリーがピアノの前に座り、軽い曲を演奏し始めた。
「そうだ!アンドレがお礼に歌を歌ってくれるんですって!」
しんみりとした雰囲気を吹き飛ばすようにオンディーヌが言った。
「俺の歌などお礼になるかどうか・・・なにせ、衛兵隊の連中と酒場でだみ声で流行り歌を歌ってるくらいの程度だからな」
「何を言う!?おまえはもともと豊かなテノールの声の持ち主のはずだ!」
「そんなもの、十代の頃の話だ。おまえの歌の練習に付き合わされていた頃のことだ」
「声質はそんなに変わるものじゃない。私が歌い方を思い出させてやるから、歌ってみろ」
オスカルはオードリーからピアノの席を譲ってもらい、アンドレの発声練習に取り掛かった。
「足を軽く開いて、顎を引き、腹式呼吸でだぞ」
オスカルはアルペジオで低音から、徐々に高音に向かってアンドレの声を導いた。
「もっと、身体に響かせろ」
アンドレは自分の声を一音、一音確かめるように丁寧になぞっていった。
その声は想像以上に伸びやかで、くせがなく、だみ声などとはほど遠いものだった。
オードリーとオンディーヌは顔を見合わせた。
こんなに間近で、男性の豊かな歌声を聴くのは初めての二人に思わず鳥肌が立つような感動が押し寄せた。
「驚きだわね!」
「しゃべってる時の声とはまた、全然、違う!」
アンドレの声は高音に向かうほど、繊細に切なく響いた。それは豊かな声量をアピールするような歌い方とはまた違い、けれど、そこにいる聴衆を魅了するには充分すぎる響きだった。いっそのこと、窓を開け放って、他の人にも聞かせてあげたくなるような、そんな幸せな気分にさせてくれる声だった。
二人はうっとりと聞き惚れていたが、何かに気づいたように、はたと目を合わせ、次の瞬間、その視線を後方に立つサ・ワラビー夫人に同時に移した。
そこには、目から意志の力を失くし、意識さえもが彼女を見放そうとしている寸前の彼女が棒立ちになっていた。
二人は慌てて駆け寄り、サ・ワラビー夫人の後ろに椅子を持ってきて座るよう促した。夫人はか細い声を上げたかと思うと、そのまま目を伏せ、椅子にすとんと腰を下ろした。
オンディーヌが脈をとり、オードリーが水を運んできた。オンディーヌは脈を確かめると、足置き椅子を運んできて彼女の両足を乗せた。また、オードリーは竹細工の扇で夫人を扇ぎ始めた。
突然、ばたばたと動き出した二人を見て、オスカルとアンドレはあっけに取られていた。
「どこかお悪いのか?サ・ワラビー夫人は?」オスカルが心配げに聞いた。
「ええ」とオードリーがぱたぱた扇であおぎながら答えた。
「ご病気があるのか?」
今度は、サ・ワラビー夫人の顔色と脈が元に戻ってきたのを確認し、ほっとしたオンディーヌが軽いウィンクとともに答えた。
「ええ、不治の病ですの。一生物です!」
オスカルはオンディーヌの表情と、彼女の視線の先にあるアンドレを見て、すべてを理解した。
ニマニマとした笑みを湛えながら、アンドレに近づくと片肘をアンドレの肩にかけ耳元で
囁いた。
「どうやら、ここへきて形勢逆転のようだ!アンドレ・グランディエ君!」
「なっ、何を言う!?」アンドレが慌てて自分の肩に載せられたオスカルの肘を振り払った。
オスカルは振り払われた腕をアンドレの肘にかけ、さらに続けた。
「私はおまえの魅力を再認識する必要があるようだな」
オスカルにはアンドレの照れた顔が、可笑しくてしょうがなかった。
だが、彼女はここにいたってもまだ、自分の恋人のさらなる魅力を理解してはいなかった。
「さあ、発声練習がすんだのなら始めましょう!せっかくだから、オスカルさまも歌ってね!オードリーが伴奏してくれるから自分が知っている曲の前奏が流れたら、交替でどんどん歌いましょうね!」
オンディーヌが迫り来る別れの予感を吹き消すかのように言い、オードリーがピアノの前に座った。
最初は軽いジャズの曲が流れ、オードリーがオスカルに視線を送った。
オスカルはピアノに肘をつきながら、物憂げにその曲を歌い始めた。
‘S
wonderful, ’s marvelous, なんて素敵なことだろう なんて素晴らしいことだろう
You
should care for me おまえが私を想ってくれるなんて
‘S
awful nice, ‘s paradise 最高の気分だ まるで天国にいるみたいな
‘S
what I love to see 私はこうなることをずっと夢見ていた
You’ve
made my life so glamorous おまえのおかげで私の日々は輝いている
You
can’t blame me for feeling amorous
こんなにも思いのたけを込めて愛する時が来るなんて
Oh,’s wonderful, ’s marvelous なんて素敵なことだろう なんて素晴らしいことだろう
That you should care for me おまえが私を想ってくれるなんて
(歌詞:アイラ・ガーシュウィン、訳:オンディーヌ)
オスカルの声は少しハスキーでしゃべる声に近く、しかしこの歌にはその歌い方がとても合っていた。
オードリーの伴奏が次の曲に変わった。
とてもロマンティックで甘いメロディーを左手のアルペジオが彩っていた。
アンドレが大きく息を吸い込んだのを見て、それぞれが期待でいっぱいになった。
アンドレはとても抑えた声で、しかし情感たっぷりにその曲を歌い始めた。
A
heart full of love 愛で心は満ち
A
heart full of song 歌で心はあふれる
I’m
doing everything all wrong だが、なにもかもうまくいかない
Oh
God, for shame おお、神よ 何ということだ
I
do not even know your name 私はあなたの名前すら知らないなんて
Dear
Mad’moiselle 愛しいマドモアゼル
ここでオンディーヌが加わった。
A
heart full of love (オンディーヌ)
A
heart full of song (アンドレ)
My
name is Ondine! (オンディーヌ)
Oh
Ondine, Ondine!
(アンドレ)
ここに至って、サ・ワラビー夫人とオードリーの顔つきが非常に険しいものに一変したが、オンディーヌは気付かない。そこでオードリーはいきなり伴奏を24小説とばし、ラストへ持ち込んだ。
(アンドレとオンディーヌ)
And
it isn’t a dream 夢ではなく
Not
a dream after all 本当のことなのですね
(ミュージカル 「レ・ミゼラブル」より 元詩はHeabeat Kretzmer)
オンディーヌはアンドレにもたれ掛るようにして、その曲を終えたかったが、曲が省略されたことでサ・ワラビー夫人の厳しい眼差しに気付き、アンドレの方に倒した身体を自分の足だけで支えるはめとなり、伴奏が終わるとともに自力で体勢を整えた。
オードリーは次に女性の曲を選んだ。その曲を演奏し始めると、サ・ワラビー夫人がおもむろに立ち上がった。
I
dreamed a dream in time go by 夢を見ていたのね
When
hope was high and life worth living 望み高く、生は生きるに値すると
I
dreamed that love would never die 愛は永遠だと
I
dreamed that God would be forgiving 神は許したもうと
(ミュージカル 「レ・ミゼラブル」より 詩:Heabeat Kretzmer)
その曲は美しいソプラノを持つサ・ワラビー夫人にとっては、やや低音域の曲だった。
なにかに挫折した女性の歌らしかったが、豊かな声量を抑え気味に歌うサ・ワラビー夫人の歌声は、よけいに聴いている者の心に染み渡った。
オスカルとアンドレは、ドーフィヌ広場で聴いた彼女の歌声を思い出していた。
飢えと怒りの民衆の中で突然、響きだしたソプラノ。彼女は歌いだした時、どんなに心細かっただろう。それでも、彼女はひるむことなく豊かな歌声を天高く響かせ、自分達を導いた。今、歌っている彼女の瞳を見ると、何かを成し遂げる人というのはこんなにも、力強い光をその瞳の中から放っているのだと二人はあらためて、彼女の瞳の美しさに見入った。
彼女が歌い終わり、席に戻ろうとアンドレの横を通ったとき、アンドレはサ・ワラビー夫人に声をかけた。
「あなたにはもっと高音域の歌がふさわしい・・・」
夫人はやや頬を赤らめ、微笑んだがそのまま自分の席に着き、次の曲を待った。
オードリーは、次は何にするか迷っているように、即興で場つなぎの曲を弾いていたが、オンディーヌの目配せとともに、破壊的な音量で和音を叩き始めた。
それに促されるようにアンドレが立ち上がり、両手を差し出してオスカルを立たせるとその両腕をがっしりと自分の手で掴んだ。
「何を歌う気だ?」オスカルは驚いて聞いた。
その曲はジャズでもクラッシックでもボサノバでもカンツォーネでもない、今まで聴いたことのないジャンルの曲であることは確かだった。
戸惑うオスカルを前に、アンドレは大きく息を吸うと、先ほどの発声法など遠く彼方へ忘れ去ってしまったかのように、叫びに近い声でその曲を歌い始めた。
I
was born to love you 〜♪ おまえを愛するために俺は生まれてきた
「なっ、なにを・・・!」いきなりの愛の告白にオスカルは抗議の声を上げた。だが、アンドレはひるまなかった。
When every single beat of my heart 俺の鼓動が刻む一瞬、一瞬
Yes,
I was born to take care of you おまえを守るために俺は生ま れてきた
Every
single day of my life 来る日も来る日もずっと
「ひっ、人前だぞ!」オスカルは照れと怒りの表情を露にし、アンドレに掴まれている両腕を振り払った。今度は、アンドレはオスカルの両手を自分の両手でそっと包み込み、そんなに怒るなという表情を湛えて、続きを歌った。
So
take a chance with me 賭けてみないか
Let
me romance with you おれとのロマンスに
I’m
caught in a dream 夢の中に囚われて
And
my dream’s come true そして、その夢が叶えられた
It’s
so hard to believe 信じられない
This
is happening to me これが現実だなんて
An
amazing feeling かつてない感動が
Comin’
through 〜♪ 今訪れる
(QUEENの「I was born to love you」より抜粋)
オスカルは終始、険しい顔のままアンドレの瞳をじっと見据えたままだった。曲が一区切りついたところで、オスカルは右手をアンドレの両手から引き抜くと、その腕は大きく空を切った。アンドレは慌てて、今日、治療を終えたばかりの左目をきつく閉じ、歯を食いしばって平手打ちに備えた。
しかし、いつまでたっても頬に衝撃は走らず、代わりに柔らかい腕が自分の首に巻きつき、さらに柔らかなものが自分の唇を覆った。
4ヶ月ぶりの恋人同士のキス・・・
アンドレの開いたままだった右眼からオスカルの薔薇色に上気した頬が見えた。
4ヶ月前に口付けを交わした時のオスカルの頬は透けるように青白かった。
それが今、二度目の愛の告白に応えるがごとく口付けで返す恋人の頬は、全身で恋しているとでも言わんばかりの色を湛えている。
アンドレは両目を閉じ、オスカルの唇を覆い返すように自分の想いを伝えた。
オスカルはそれでは、まだまだ足りぬとでも言いたげに、さらに深い口付けを求める。
いつまでも、続く貪欲なとでも言える恋人同士の唇での応答に、サ・ワラビー夫人は思わず、口元を押さえ、オードリーのピアノを弾いていた指は自分の眼を隠すために使われ、オンディーヌもさすがに近距離のラブシーンに火照った自分の頬に手を当てた。
こうして、東照宮の彫り物のような風体となった三婦人はしばし、息を殺して二人のキスシーンに見とれていた。
二人にとっては、いつまで続けても足りないキス・・・
しかし、三人にとっては少々、長いと感じてきたキス・・・
オードリーが次の場面の展開を促すように、再びピアノを弾き始めた。
曲は、5人で見た映画の主題歌「Das Gibt’s Nar Einmal」!
オードリーは日本語でその歌を歌い始めた。
オスカルとアンドレはやっと、唇を離すと顔を見合わせ微笑んだ後、オードリーを挟むようにピアノのところまで来た。
アンドレは座っていたサ・ワラビー夫人に、オスカルはオンディーヌに手を差し伸べた。
そのまま4人は手をつないで、オスカルとアンドレはドイツ語で、三人は日本語でこの曲を歌った。
この世に生まれて ただ一度
このすばらしき まさに夢
軌跡のように降りそそぐ
まばゆい黄金の光
この世に生まれて ただ一度
きっとこれは夢 まぼろし
人の一生にただ一度
二度とかえらぬ 美しい思い出・・・
曲の途中でオンディーヌが声をつまらせた。
「またうそ泣きか?オンディーヌ!」
オスカルが隣のオンディーヌに目をやったが、オンディーヌは答えなかった。
「オスカルさま、この頃、扉がきしむのです。そろそろお別れした方がよいようです」
サ・ワラビー夫人が別れを促した。
三人はピアノを離れ、パタパタと最終の帰り支度を始めた。
「なんだ?その荷物は?」
「お土産です」
サ・ワラビー夫人はそう答えたが、もともとジャルジェ家出の物を売り払って作った予算の残金で用意したものなので、この表現が適切かどうかは非常にあいまいである。
アンドレにその荷物を持たせると、「オスカルさま、どうぞ右手首をお貸し下さい」と扉を前にサ・ワラビー夫人が言った。
「どうやら、私の弱点は手首らしいな」とシニカルな笑みを湛えながら、アンドレを振り返り二人は手を握り合った。
「では、お別れです。どうぞ、お元気で」オードリーも声をつまらせていた。
オンディーヌは何も言わず、これから扉をくぐる三人を見守っていた。
オスカルは握り合った手をいったん解き、こちらに残る二人のところまで戻るとそれぞれの頬にキスを送り「11月の午後のまどろみに見せてくれた美しい夢をありがとう。いつまでもあなた方の幸せを祈ります」と言った。
「オスカルさまとアンドレも・・・」二人はそれ以上、声にならなかった。
「さあ!」とサ・ワラビー夫人が促し、三人は手を取り合うと順に扉をくぐっていった。
最後にアンドレが扉に足を踏み入れた時、それまで黙っていたオンディーヌが叫んだ。
「アンドレ!パリでなにかが起これば、それはすぐに地方にまで波及するわ!」
アンドレはハッとして振り返ったが、軽いウィンクで返すとそのまま扉の奥へ消えていった。
三人は来た時の浮遊感に加えて上下の揺れのような衝撃まで感じながら、暗闇の中を進んでいった。
気がつくとオスカルとアンドレはサン・ジェルマン・デ・プレ教会の祈祷室に倒れていた。
アンドレの方が先に気づき、オスカルを起こした。
「大丈夫か?」
「ああ・・・おまえ、夢を見なかったか?」
オスカルは頭を押さえながら聞いた。
「見た・・・おそろく、おまえと一緒の夢を・・・」
アンドレは癖で閉じてしまっていた左目を開けた。
「見えるのだな?」
「ああ」
「だが、彼女はどこだ?」
二人は祈祷室の中を見渡したが、サ・ワラビー夫人の姿はどこにもなかった。
祈祷室の扉を開け、教会の中も見渡したがそれでも彼女を見つけることはできなかった。
消えたのか?それとも、もう戻ったのか?
二人が顔を見合わせていると、わずかに教会の扉が開き、黒いマントに身を包んだ女性が息を切らせて入ってきた。
「辻馬車をひろって、ジャルジェ邸までお土産を運んできました。以前、オスカルさまに書いてもらった『この手紙を持参するものを私の部屋へ通すように』という書面をみせたら、すんなり入れてもらえました」
サ・ワラビー夫人の瞳は彼女の黒髪同様、輝いていた。
「あなたにはなんとお礼を言っていいか・・・」今度はオスカルが声をつまらせた。
「オスカルさま、これは一生に一度だけ見ることができた夢です・・・今生のお別れでございます」そう言うサ・ワラビー夫人を二人は交互に抱きしめた。
抱擁を交わしていた3人だったが、サ・ワラビー夫人はなにかに気づいたように祈祷室に目をやった。
「また、扉がきしんでいます。もう二度と開かないかもしれません。では・・・」
そう言うと夫人は身を翻して祈祷室の中へ入っていった。
二人は顔を見合わせると急いで、夫人に続き扉の前まで見送った。
扉の中に消えようとするサ・ワラビー夫人の手をアンドレが取った。
「あなたの人生が薔薇色の時で彩られますように・・・」
「アンドレ、あなたの瞳がいつまでもオスカルさまを映し続けますように・・・」
二人はしばし、見つめ合っていたが夫人が名残惜しそうにアンドレの手を離した。
そうして、サ・ワラビー夫人は扉の奥へ消えていった。
パタンと閉まった扉を二人はしばらく見つめていた。
奇跡の扉を前に二人は別の世界で過ごした4ヶ月と、これから戻る歴史の胎動を感じる祖国へと想いをはせていた。
「さあ、馬車に戻るぞ!」
「ああ!」
オスカルとアンドレは祈祷室を出ると教会の扉を開いた。
外からは眩しい11月の午後の陽光が差し込んできた。
1788年11月、フランスはまさに革命前夜だった。
―おめでタイ作 おしまいー
オンディーヌさまより頂きましたこのお話、
あまりの意外さに目が点になりつつ、大変
楽しませていただきました。もちろん別人
であるとはわかっておりますが、サ・ワラビ
ー夫人が美味しいところをもらっていると、
嬉しくなってニマニマしました。オンディーヌ
さま、ありがとうございました。心から御礼
申し上げます。 さわらび