La Vie en Rose
作 オンディーヌさま
私の最後の診察の次の日から、アンドレはまた入院した。一週間で帰ってくる予定だという。その間、三人はまた交代で毎日、アンドレの見舞いに行き、見舞いの当番でない二人は私達の帰り支度にあたふたし始めた。
私はといえば、隔離は解かれたはずなのに、外出は禁止されたままで、読むことができるのは五線譜のみと相変わらずの生活を強いられたままだった。本来なら死に直結していた病を、奇跡的な状況を提供され克服したのだから、あと一週間くらいの隔離生活はありがたく我慢すべきなのだろうが、治ったと聞いたら、なおのこと様々な欲求が私を支配し始めた。この人達は、私をこの時代の様々な情報から隔離することを望んでいるだけなのだが。
「いい加減に、活字が恋しくてしょうがない」とつい愚痴を言う私に、サ・ワラビー夫人が話し相手になってくれた。
「アンドレはまだ、オスカルさまに言ってないでしょうけど、今でも左目はうっすら見えるところまできているんですよ。オスカルさまを、ぬか喜びさせたくないから、黙っているのでしょうけど」といきなりびっくりするようなことを言ってくれる。
そういえば、まだアンドレの左目は髪で隠されたままで、傷痕もきれいに手術で直したと聞いていたのに、それさえまだこの目で確かめられずにいた。
見えなくなってきていることも言わなければ、諦めていた眼が見えるようになってきていることさえ、はっきりするまで心の中へふせてしまうところがアンドレらしいと言えばアンドレらしいのだが・・・
「一度だけ、みんなで外で食事をするというのはだめか?」とうてい『Yes』という返事は得られそうもないと思ったが、聞いてみた。
「アンドレが帰ってきたらそうしましょうか。4ヶ月も辛抱なさったのですものね。おいしい料理とワインの品数を揃えた店を予約しておきましょう。ただ、飲みすぎは困ります。早ければ、その日の夜にお帰りいただくことになるかもしれませんから」
思いもかけない返事に、気分がいっぺんに軽くなった。
一週間後が果てしなく遠い未来に感じられたていたのが、一日をあとたった7回数えただけで必ずやってくる確実な近未来として意識され、アンドレとの再開と楽しい晩餐の様子が目にありありと浮かんだ。
アンドレの入院している病院は、50床ほどのベッド数と手術室を持つ眼科専門医で、総合病院と比べれば全体の規模は小さいが、三人のドクターが一日に診察する外来患者数とオペの数は並々ならぬものだった。地域でもその技術が高く評価されており、病院の収益もその評価に比例していた。手術機材も次々に最新の物に買い換えられていき、へたをすると総合病院の眼科で受ける治療よりも高度な医療が受けられる可能性があった。
入院して2日目の午後、サ・ワラビー夫人がアンドレを見舞いに訪れた。二人は小さな中庭の木陰で柔らかな木漏れ日を浴びながら、ベンチに腰掛けて眼の調子や、残りわずかとなったこちらでの生活や最後にともにする晩餐について話していた。
「本当にあなた方にはなんとお礼を言っていいのか分かりません。できることなら、なにかお礼をしたいのですが・・・」
「お礼などととんでもないことです。突然、しかもなかば強引に連れてきてしまって、さぞ驚かれたでしょう。でも、やはり、こうしてよかったと思います」
サ・ワラビー夫人の声はいつものように落ち着いていた。
「ええ、ほんとうに。だが、貴女はなんという無茶をする人だろうとつくづく思います。今、思い出してもあの状況はぞっとする。まかり間違えば、命さえ危険に晒していたのですよ」
アンドレは拳二つ分、離れて隣に座るサ・ワラビー夫人に労わりと感謝の眼差しを注ぎながら言った。
「オスカルさまがどの道を通るのかは調べてありましたし、必ず何かあれば、助けてくださると信じていましたから」サ・ワラビー夫人はくすりと笑って答えた。
「確かに、オスカルの判断力や行動力は抜きんでたものがありますが、絶対という保障はないわけですから」アンドレは今さらながら呆れた。だが、このご婦人の行動力のおかげで失いかけていた自分の視力は取り戻されたのだ。アンドレは膝の上で揃えられた彼女の白い手の上に、木漏れ日や木の葉の影が動く模様を作り出しているのを眺めていた。できることなら、その小さな白い手を握り締め、自分の感謝の気持ちを伝えたかった。だが、そういう行動は彼女にとっては親しみを越えた、度が過ぎた振る舞いと取られかねないと判断して取りやめた。
「では、もう戻ります。退院の日はオンディーヌが迎えにきます」
サ・ワラビー夫人がそう言うと、アンドレの方が先に立ち、手を差し出した。サ・ワラビー夫人は少し驚いた表情をしたが、差し出された手に自分の片手を預け、立ち上がった。
「揃って食事ができる日を楽しみにしています」アンドレは夫人の手を取ったまま言った。左目は眼帯で覆われてはいるものの、アンドレもまた、木漏れ日を浴び、その表情は眩しいほど穏やかで、サ・ワラビー夫人は思わず我を忘れて見とれてしまいそうになった。この黒髪、黒い瞳の、この人を包み込むような笑顔の持ち主のために自分の奮闘はあったのだ。そして、今、その人に手を取られ、その瞳で見つめられていると思うと、思わず自制心が遠のき恍惚として見とれてしまうしかなかった。しばらく、無言で見つめ合っていた二人だったが、彼女が遠く彼方へ追いやってしまった自制心をなんとか手繰り寄せると、夫人はマイワールドからの脱出を図り、またサ・ワラビー夫人然として振舞った。
「ええ、私達も。ではお大事に」そう言うと夫人は預けていた手を引き取り、早足でその場を去った。
アンドレは去っていく夫人の後ろ姿をしばらく見送っていた。夫人の上半身はコルセットで締め上げなくても充分に美しく慎ましやかで、腰から下もパニエなどで膨らませるよりもよほど自然で女性らしい曲線を描いて優美に見えた。
そんなアンドレの視線を感じてか知らずか、夫人の胸は歩調の数倍の早鐘を打ち鳴らしていた。そして、さきほどアンドレの手に委ねられていた自分の手は、自然と胸の前で固く握られガッツポーズを作っていた。
翌日はオンディーヌが見舞いにやってきた。昨日、サ・ワラビー夫人と座った同じベンチに座り、話し出したオンディーヌは「疲れた」を連発した後、肩を揉むよう催促した。アンドレは苦笑しつつもそれに従った。「特に左ね」と注文をつけながら、暗がりや直射日光の下では読み物をしないようにと帰ってからの注意を説明した。
「なにかお礼ができればと昨日も話したのだが・・・」とアンドレが言った。
「お礼!?・・してっ!」背を向けて話していたオンディーヌはとたんに目を輝かせて振り返った。
「俺にできることに限られるが・・・」
「もちろんよ!」
そう言うと自分のバックからなにか小型の器械を取り出し、アンドレの両耳にはめ込んだ。
とたんに大音量の音楽がアンドレの耳から脳天にぶち抜けた。アンドレは驚いて両耳からイヤホンを引っこ抜いた。
「音量は調整できるから。退屈だろうと思って持ってきたんだけど。ここに入っている音楽を覚えてみて!詩がついてるものは詩も覚えてね!」とたんに疲れがふっとんだかのようにオンディーヌは話を続けた。
「退院の日はついでに、髪も切りましょうか?だいぶ伸びたし、後ろは伸ばすにしても前髪がじゃまだし、目にもよくないから」一方的にしゃべり続けたオンディーヌだが、なにかに気づいたように話を変えた。
「オスカルさまはね、退屈してます」と言って笑った。「でも、食事をとても楽しみにしているみたいだから。ああ、飲むのをと言った方が適切かもね」そう言うと腰を上げ、退院の日は早めに迎えに来ると言って帰っていった。
そして、やっと迎えた退院当日。
午前中に最後の診察が終わった。左眼はやはり治療にかかるのが遅すぎたため、今以上には視力は回復しないとのことだった。とはいえ、左目だけでも人の顔くらいは判別でき、右眼では細かな字も読めるほどの回復ぶりだった。午後になると早々にオンディーヌがやってきて、退院の手続きをてきぱきと済ませるとアンドレを車に乗せ、美容院に直行した。
シャンプー台でも、カットの時もアンドレの隣に座り、あれこれ美容師に注文をつけた。要は、前髪は目に入らないような長さにカットし、サイドと後ろはこれから伸ばしていくのに不自然にならないようにという注文だった。
あとは、雑誌を眺めながらどんな服がオスカルさまに似合うか、またどんな服なら着てくれそうかという談義に二人して没頭した。
「この巻き髪、似合うでしょ?」
玄関を前に、そう問うオンディーヌに「ああ、とても似合うよ」とアンドレは答えたが、その視界と思考の中にオンディーヌはなく、ただ一週間ぶりのオスカルとの再会のみがアンドレの頭の中を締めていた。
「ただいま〜!」
玄関へ入っても出迎えはなく、そのままリビングへ二人が入っていくとオスカル、サ・ワラビー夫人、オードリーの三人がカップを手に振り返った。
「オスカルさま、この巻き髪、似合うでしょ?」
オンディーヌは再度、同じ質問を別の人間に投げかけた。
「ああ、とてもお似合いだ、オンディーヌ」
そう答えるオスカルの視線の先にはもちろんアンドレしかなく、カップをテーブルに戻すが早いか立ち上がり、その手でアンドレの両腕を抱いた。
「髪を切ったのか?」
「ああ、前髪が目に入らないようにな」
「眼帯は取ってもいいのか?」
「ああ、いいそうだ」
オスカルは恐る恐る、アンドレの眼帯をはずした。眼帯の下でアンドレの左目は閉じられたままだったが、その目蓋からは傷の痕跡は跡形もなく消えていた。
「目を開けてみろ」
ゆっくりと開かれるアンドレの左目。完全に開かれると、オスカルの前には黒い瞳がふたつ、左右対称で輝きも同じ目が並んだ。昔と同じ目、幼い頃から自分に注がれてきたのと同じ眼差しだった。
「これでまた、おまえにウィンクできる」無言で見つめるオスカルにアンドレはわざとおどけて言った。
「ああ、バシバシ飛ばしてくれ」
オスカルは震える心を隠すようにそう言うと、アンドレの右眼を自分の片手で覆った。
「見えるのか?」
「ぼんやりとだ」
そう答えるアンドレの左眼の前に指を立ててさらに聞いた。
「何本か分かるか?」
「三本だ」アンドレは微笑んで答えた。
オスカルは、今度は左眼を手で覆った。
「右眼はどうだ?」
「おまえの睫毛の数が数えられそうだ」
「では、右眼の睫毛は何本だ?」
「う〜ん、124・・・いや、128本だ」
「正解だ!」
そう言うとオスカルは両頬の筋肉を思い切り引き上げ、拳をアンドレのみぞおちに軽く打ちつけた。
これで、元に戻った・・・そう思うのはやはり間違いだろう。自分の不注意でアンドレの片目を奪い、自分を助けるために無理をさせ、右眼の視力さえ失わせるところだった。その事実を変えることなどできないが、こんな奇跡的な状況のおかげで最悪の事態を免れたことにオスカルは心から神に感謝した。
アンドレはオスカルの鉄拳に両手を上げて降参のポーズをして、微笑んだ。
ここへきて、ようやくオスカルの視界に他の人物が入りだした。一番、近くにいたオンディーヌを抱きしめ、そして、座っていたサ・ワラビー夫人とオードリーを抱きしめて、その髪にキスを送った。
「あなた方にはなんとお礼を言っていいか・・・」
珍しく言葉をつまらせるオスカルの肩をアンドレが後ろから、そっと抱いた。
三人は顔を見合わせたが、サ・ワラビー夫人が言葉を添えた。
「私達ができるのはここまでです」
「それとも、ずっとこちらにいます?」オンディーヌが確実な別れを前に悪あがきを見せる。
「オスカルさまにはやはり、18世紀がお似合いですもの」オードリーが名残惜しげに、そう言った。
「では、その前にみなさんと祝杯を!」肩に置かれたアンドレの手に自分の手を添えながらオスカルが言った。
5人は6時にレストランで待ち合わせることになった。自分も髪を切りたいというオスカルをサ・ワラビー夫人とオードリーが美容室に連れていくこととなった。ただでさえ、人目を引くオスカルに二人がぴったりと寄り添いながら、美容室の中を移動するものだから美容師のみならず、他の客の視線までが三人の後を追った。
いったん、家に帰って出直すというオードリーを途中で降ろし、サ・ワラビー夫人とオスカルが先に店に着いた。閑静な住宅街を越えたところにあるその「ラ・メゾン・ブランシュ」という店は17世紀のフランスの建造物を真似て造られているとのことだったが、調度品は淡い色の女性好みのもので揃えられていた。席まで案内され、二人が腰を下ろすとすぐにフロントに預けておいたサ・ワラビー夫人の携帯に電話が入ったらしく「すぐに戻りますから、ここから動かないでくださいね」と言い置き、席を立った。
「まったく、子供でもあるまいに、私が少々、勝手に動いたからといって、どうだというのだ?」オスカルが独り言を言っていると自分の席の後ろでコトッという小さな音がした。振り返ると椅子の足元に小さな小箱のようなものが落ちており、今、柱を曲がろうとしている男性が通りかかった時に落としたものらしいと思われた。オスカルは呼び止めようとしたが、すでに姿は離れたところにあり、仕方なく近くを通りかかった店員にその旨を告げた。店員はその小箱を拾い上げると微笑んで、オスカルのテーブルの上に置いた。どうも言葉が通じなかったらしく、店員は微笑むとそのままテーブルを離れてしまった。
その小箱は金属製で洒落たデザインをしており、何に使うものかは分からなかったが、とりあえず男性の座った席を確かめると直接、届けてやることにした。その男性は40代後半くらいで口ひげを生やしており、おそらく娘であろう20歳くらいの女性と座っていた。そして、もう一人分、グラスの用意がしてあるところを見ると、もう一人連れの客を待っているらしかった。
「ムッシュウ、これを落とされたようです」オスカルがそのテーブルに小箱をコトリと置いた。その男性と同席の娘は、そろって驚き、暗めの照明の中でも鮮やかに輝く黄金の髪と深い青い目を持つ長身の女性を見上げ、しばらくポカンとした顔をしていた。男性は彼女の落ち着いた低めの声で語られた言葉を反芻すると、やっと意味を理解したように急いで立ち上がった。
「わざわざお届けいただいたのですか。それは申し訳ない」「店員に託したのですが、私の言葉が足りなかったのでしょう」「失礼ですが、イギリスの方ですか?実にきれいな英語でいらっしゃる」「いいえ、残念ながら」オスカルは立ち去ろうとしていた。娘の方は自分の父が戻ってきた道筋を目でたどりオスカルが座っていただろう、ひと際、豪華な花の飾られたテーブルを見つけた。「あの・・・もし、よろしければお待ちになっている方がみえるまで、ご一緒していただけませんか?」ぶしつけな申し出をする娘を父は嗜めるように見て「娘の英語はアメリカなまりがきつくて・・・」と言った。オスカルは『アメリカ』という言葉にことのほか反応した。あの国は独立以来、200年以上たっても健在なのだ。そう思うとこのまま自分の席へ帰るよりも少しだけ、この親子との会話を楽しむのもいいかもしれないと思えた。
「実は妻の誕生祝の席なのですが、肝心の妻が仕事の都合で1時間も遅れると連絡が入ったところなのです」結局のところ、父の方もオスカルに留まってほしいらしい。オスカルは微笑み、その親子の席に着いた。「食前酒を頼みましょうか?」という申し出に「いえ、私も祝いの席ですので、最初の杯は友人達とあげたいと思います」としおらしく断り、短時間に許された、事情を知らないこの親子との会話をどのように進めるかに思考を巡らせた。
「娘は英語を勉強したいと言い出しまして、地元にもいい大学はあるのですが東京に進学してしまったものですから、こうやって親子三人揃うのも久しぶりなのです」と父親は話し出した。この父親の話しぶりだとTokyoというのはこの国の大都市もしくは主要都市なのだろう。オスカルは『それはそれは』という賛辞の視線を娘に投げ、「大学では英語以外にどんな科目に興味をお持ちですか?」と興味深げに聞いた。娘はこの外国からの女性が、自分に投げかける視線や言葉がどうしてこうも自分の鼓動を加速させるのか分からなかったが、自分のことを話すよりもこの人がどういう人なのか知りたくてしょうがなかった。
オスカルが会話を楽しもうとしていたその頃、電話が終わったサ・ワラビー夫人と家で用事を済ませたオードリーと、アンドレを乗せてきたオンディーヌがテーブルで顔を合わせた。
「オスカルさまは?」と聞くオンディーヌに「電話で10分ほど席を離れただけなのだけど」とサ・ワラビー夫人が不思議そうな顔で答えた。
「はははははっ・・・」
怪訝そうな顔を見合わせる4人に突然、聞きなれた笑い声が飛び込んできた。ぎょっとして、声の方を振り向くと、斜め後方のテーブルにグラスを傾けながら談笑するオスカルの姿があった。
「なんなの?あれ?」
「席を離れたの10分ほどなんですよね?」
突っ込みを入れる二人にサ・ワラビー夫人の方こそ、不思議でしょうがないといった風体であった。
「あれがオスカルの特性ですよ」アンドレが言った。「王族を含む100人を超える晩餐会で、気の利いたことを言って場を沸かせることもできれば、初めて招かれる小さな家庭での会話の中でも良きムードメーカーとなりえる。ずば抜けた社交性なんです」
確かにそうなのかもしれないが・・・と3人は思う。しかし、ここは言葉も分からない異国である。しかも与えられた時間はわずか10分程度。3人が顔を見合わせているとまたしても、オスカルの笑い声が聞こえてきた。それは、浮かれた貴婦人の嬌声のような笑い声とはほど遠く、ともすれば格式ばって硬くなりがちなこの店の雰囲気をとても和やかなものにする効果さえ持っていた。
とにかく、誰か迎えに行かなくてはということになり、自然と視線はサ・ワラビー夫人に注がれた。夫人は2人の視線に押されながら、オスカルのいるテーブルへと足を運んだ。紳士に微笑んで会釈をすると、会話に夢中になっていた紳士は驚いて立ち上がった。
「これは、落し物をわざわざ届けてくださったお連れの方をお引止めしてしまって。お席にみえなかったので、ご心配されたのでは?」と恐縮している様子で紳士は言った。「こちらこそ、私どもが遅れたせいでお邪魔をしてしまって」とサ・ワラビー夫人が保護者のように言うと、髪をきりっとポニーテールにまとめた娘の方が「今度はぜひ、フランス語の勉強をしてオスカルさまの国を訪ねてみたいです」と頬を赤らめて、席を立とうとするオスカルに言った。「ええ、ぜひ。お待ちしています。マドモアゼル」社交的な笑みで返すオスカルの手を引くようにしてサ・ワラビー夫人はその場を去った。
「会話は楽しかったですか?」サ・ワラビー夫人は小さな声で聞いた。
オスカルはくすっと笑った。何を話してきたのかと直接的に聞かないのがこの人らしいと思った。「ただの世間話をしてきただけですよ」オスカルが答える頃には二人は自分達のテーブルに到着していた。
ようやく、5人が揃い、食事が始まろうとしていた。オスカルが食前酒を選び、それぞれが好みの料理を注文した。シャンパーニュがグラスに注がれるとオスカルが「私達に健康を与えなおしてくださったみなさんに感謝します」と言いグラスを掲げた。他の4人もグラスを挙げたので、ためらいもなくそのまま口へ運ぼうとしたオスカルだったが、それを遮るかのように、この日を楽しみにしていた他の者も次々に乾杯の文句を唱え始めた。
「オスカルさまの金髪にかんぱ〜い!」
「アンドレの黒い瞳にかんぱ〜い!」
「アンドレの身長にかんぱ〜い!」とそれぞれ好き勝手なことを言い出し、笑いあった。
「オードリーのピアノに乾杯!」アンドレまでそれに加わると4ヶ月も禁酒状態にあったオスカルはだんだんイライラしてきた。
「いい加減に飲むぞ!」そう言い放つとオスカルはぐいっと一気にシャンパーニュを飲み干した。
一瞬、あっけにとられた3人だったが、この4ヶ月というもの、家事や仕事と二人の世話で非常に過酷なスケジュールを余儀なくされてきた3人はここへきて、弾け始めていた。
「時空の扉に乾杯〜!」
「素直なアンドレに乾杯〜!」と小さな声で続きをやっている3人にアンドレが「サ・ワラビー夫人の俊足に乾杯!」とグラスを傾けた。それに答えて夫人が「アンドレの優しい声に乾杯!」と返す。酒好きは自分以外にはいないと判断したオスカルはワインリストの中から次の酒を注文していた。オスカルの注文したワインに対し、ソムリエが「大変、よい状態で保存しておりますので、きっと気に入っていただけると存じます」と満足げに言った。その言葉に反応したサ・ワラビー夫人がオスカルの指差したワインの銘柄とさらにその右に書かれた値段を見てぎょっとした。その反応を見た2人もワインリストをこちらにも回せと目で合図を送った。そこには『シャトー・マルゴー』という聞いたことはある名前と思わず目をむくような値段が記されてあった。目が点になる3人をよそにオスカルが話題を変えた。
「あなた方はどんな映画が好きなのだ?」
3人の目はさらに点になった。おそらくさっきの親子の会話の中で『映画』という言葉を覚えてきたのだ。誰も答えないのでオスカルは的を絞った。
「オードリー、あなたはどんな映画が好きだ?」
「映画は・・・最近、見てませんので・・・」と口ごもるオードリーにオスカルはさらに切り込んだ。
「昔の映画ではどんなものが好きなのだ?」
「昔のものだと『会議は踊る』とか・・・かなり昔の映画ですけど」
今度は残り2人がぎょっとした。2人の顔を見てオードリーもはっとした。
「会議とはなんの会議のことなのだ?」笑顔で聞き返すオスカルにサ・ワラビー夫人は諦めた。
これは当てずっぽうに聞いているのではなく、なんらかの知識を得たうえで聞き出そうとしているのだと判断したのだった。
「ウィーンで開かれた平和を考える国際会議です」一呼吸おいて、オードリーの代わりにサ・ワラビー夫人が答えた。
「それはいつ、開かれた会議なのです?」
「1814年です」
「原因となったのはフランスか?」
「そうです」
どこまで話す気か、はらはらしながら2人は会話を見守っていた。
「帰ったら、一緒に見ますか?歴史や政治の色合いよりも娯楽性の高い映画ですよ」
オスカルはサ・ワラビー夫人の提案にすぐに乗った。
「オスカル、このオマール海老はうまいぞ!うちの味付けよりは薄めだがソースもいい味だ!」
アンドレの助け舟に3人はほっとし、すぐに話題を料理に切り替えた。
「オスカルさま、シャトー・マルゴーの前にイタリア産のアスティ・スプマンティというワインを頼んでください。絶対、おいしいですから」
オスカルは再度、ソムリエを呼び、オンディーヌの希望を伝えた。
3人は他のことで、多少の意見の食い違いはあっても金銭感覚においては完全といっていいほど一致していた。オスカルに任せておいたら、たとえ予算が余っているからといってもとても楽しく食事ができる金額では済まなくなってしまうことは間違いなかった。
オンディーヌの頼んだワインは魚料理によく合い、オスカルの注文したお城のラベルのついたボルドーワインはフィレ肉によく合った。ただ、一杯の値段を考えるととても素直に3人の喉元を通過する代物ではなかった。
その後はオスカルが3人をぎょっとさせるようなことを口走ることもなく、軽い話題とここでの生活や治療についての話などで会話が弾んだ。
帰るときになって、オードリーが「会議は踊る」のDVDかビデオを借りてくるからと、一足先に店を出ようとした。
オスカルは笑顔で「イッテラッシャイ!」と声をかけた。
3人は心の中でこけそうになったが、オスカルが覚えたばかりのこの国の言葉で「イッテラッシャイ」とオードリーを送り出し、帰途についた。
―つづく−