La Vie en Rose
作 オンディーヌさま
治療が始まってから4ヶ月が経とうとしていた。安静、規則的な生活、栄養のある食事、音楽での気分転換、そして確実な服薬。それがここでの仕事だった。咳と痰がほとんど出なくなり、息苦しさも微熱さえもなくなってきた。もしかしたら、もう治ったのではないかと思うときもあったが、厳しい顔つきで薬包紙をチェックするオンディーヌを見ていたら、そんな楽観的な見解など口にできなかった。
また、いつもどおりバルコニーへ出た。今日は私の方が早かったらしい。からりと晴れた日で遠くの景色までよく見渡せた。ヴェルサイユやパリの風景とはまったく違う景色だが、それにも段々、違和感がなくなってきた。気分がよかったのか私は、知らず知らずに歌を口ずさんでいた。
The sky is blue〜♪
The night is cold〜♪
The moon is new〜♪,but love is old〜♪
And while I’m waiting here〜♪
This heart of mine is singing〜♪
Lover come back to me〜♪
「なんだ?機嫌がいいな!」
アンドレがいつの間にか隣のバルコニーから顔を出した。
「ふっ、オードリーが置いていってくれた楽譜だ。変わったメロディーだろ!」
オスカルが微笑みとともにアンドレの方に顔を向けた。
「ああ・・・」
アンドレの眩しい笑顔が返ってきたが、それはいつものとは少し違う、なにか意味を含んだような泣き笑いに近いと言ってもいいようなものだった。
「どうした?」
「おまえの顔色がずいぶんと変わった。あんなに青白かった顔が、薔薇色に輝いている」
「もしかしたら、治ったのかもしれん!」
「ドクターはなんと言っているのだ?」
「なにも言わん!いつもの通りだ。きちんと服薬しろだの、外出はだめだだの・・・」
「では、まだ治ってないのだ。ここまで、辛抱したのだ、もう少し我慢しろ」
アンドレは憎らしいほど淡々と言った。バルコニー越しでは手を取り合うことさえできないというのに、それを『我慢しろ』だと?
ああ、辛抱だの我慢だのというのは、おまえの専売特許だ!
私は前を向いたまま、歌の続きを歌ってやった。
「Lover come back,Lover come back,Lover come back to me〜♪」
アンドレは声をたてて笑い出した。
「なんだ!?」
「いや、ここへ来て本当によかった。おまえの病気はよくなるし、おまえの素直な一面までみることまでできた」
「歌だ!歌っ!!」
私はアンドレを睨み返したが、あいつの能天気とも言える満面の笑顔をみたら、一緒になって噴き出してしまった。
噴き出しながら私は思った。これだけの距離をおいても私の顔色の変化が見てとれるほど、アンドレの視力もまた回復しているのだ。本当にここに留まってよかったと。
あのまま、元の世界で生活を続けていたら・・・私は私であり、アンドレはアンドレに違いないのだが、私とアンドレの未来は・・・と思うと恐ろしくなる。
すべての覚悟はできている。ただ、アンドレとの決別ということ以外でのだった。
かちゃりという音がして、オードリーが合鍵を使って、部屋に入ってきた。
「ああ、今ちょうどアンドレにジャズを歌って聴かせてやっていたところだ」
珍しくマスクなしで部屋に入ってきたオードリーに向かってオスカルが言った。
「どの曲ですか?」くるくるとした目を輝かせ、オードリーが聞いた。
「これだ」ピアノの前に置いてある楽譜をめくり、オスカルが言った。
「ああ!失恋の歌なのにリズムが楽しげでいいでしょう!」
そう言うと、バルコニーへ出て、アンドレもこちらに来るよう誘った。
「いいのか?」アンドレは怪訝そうな顔でオードリーを見返した。
「今はステロイド剤を飲んでないし、オスカルさまの咳も出てないから大丈夫でしょう」
あれだけ、厳戒態勢で隔離状態を徹底していたのに、急にどうしたことか得心しかねたが、アンドレがこちら側へやってくることについては、反対のしようがなかった。
オスカルは久々にこの部屋へ長身の人間が入ってくるのが微笑ましかった。ずっと自分より身長の低い三人を相手にしていた。こうして目線を上げてしゃべることに懐かしさと可笑しささえ感じた。
「目はどうなのだ?」オスカルが自分に寄り添うように立つアンドレに聞いた。
「今度、もう一度、左目の手術を受けることになっている。見えるようにはならんだろうが、なにかしら可能性があるらしい」
「そうか・・・」
この距離感もオスカルには嬉しくて仕方がなかった。触れていなくても、後ろからふんわりと自分を包んでくれているようなアンドレのたたずまいが愛おしかった。4ヶ月もこの距離感から隔絶されていた寂しさが今、埋められようとしていた。今さらながら、なんと自然に自分に寄り添ってくれる存在だろうと思う。
それはアンドレにとっても同じことだった。オスカルの病が治るならどんなことでも耐えられた。だが、今こうしてオスカルの香りに包まれながら言葉を交わす喜びを隠し切れるわけがなかった。
いつもオスカルにすぐ手を差し伸べられる位置に控え、なにかあればすぐに自分が盾となり守れる、そういう距離感は限りない安堵と幸福感を与えた。
「あの・・・席をはずしましょうか?」二人の様子を見ていたオードリーが聞いた。
「いや、いい!それよりもさっきの曲を弾いてみてくれ!」
オスカルは照れを隠しているのか、満面の笑顔で言った。
オードリーはおもむろにピアノの前に座ると曲を弾き始めた。楽譜通りではなく、わざと前奏を長めにアレンジして弾き、歌いだした。横を見ると、オスカルの口元が緩んで、好奇心の眼差しが注がれているのが分かった。間奏も長めにし、間の取り方も自分流だった。散々、気を持たせた間の取り方をしておきながら、最後はいたって軽めに「Lover, come back to me!」と弱く歌って鍵盤の上から手を下ろした。
「それでは、楽譜は必要ないだろう!それに、どうしてそんなに不協和音を入れたがる?」肩をすくめて見せるオードリーにオスカルが言った。
「ふふっ、自由でいいんです。こういう曲は」
「自由か・・・」
「音楽の話ですよ!音楽!」
「そうだ、もちろん音楽の話だ・・・」
オスカルは笑った。ここにいる間は祖国の心配は忘れろということだろうな・・・
アンドレを見るとアンドレも目配せしてきた。
「お茶の用意をしてきますね」と言って部屋を出て行ったオードリーに「俺も手伝うよ!」とアンドレが声をかけた。「大丈夫ですよ」と扉の向こうで声が聞こえたが、アンドレはオスカルの片手を握りながら、その頬に軽くキスをするとオードリーの後につづくように部屋を出て行った。
「まったく・・・」と溜め息をつきながらオスカルはピアノの前に座り、今度は別の曲のアレンジに挑戦し始めた。
キッチンでは、ポットの湯で紅茶を入れようとするオードリーを制し、アンドレがお湯を沸かし始めた。
「あちらでオスカルさまと待っていればいいのに」
「いや、お茶を煎れるなら俺の方がうまい!」アンドレが微笑んだ。
「それはそうかもしれないけれど・・・」
お湯の沸く間、二人は他愛のない話をして過ごした。アンドレはこちらの世界の服装にだいぶ戸惑ったらしい。男性よりも女性の服や髪形の変化がすさまじく、最初は驚いたと言った。オスカルと違い、入院や通院の回数が多いアンドレは外界へ出る機会が多かったからだろう。
「もとの世界でもドレスを着るのを嫌がっていたのに、こちらの世界の女性の服は絶対、着ないだろうな、オスカルは」
「あとで聞いてみましょうか?私達が用意したお洋服でも、スカートは一回もはいてみえませんものね」オードリーは笑った。
お茶の用意ができると二人は談笑しながら、リビングへ戻った。
「三人分のお茶を二人がかりとは・・・これからはどちらかが残ってもらいたいものだ」
ピアノを弾く手を止めて、さっそくオスカルが文句をいった。
「おまえとは向こうの世界へ戻ってからいくらでも共に過ごせるが、この人達と過ごせる時間は残りわずかだ、オスカル」
アンドレの言葉に二人ははっとし、顔を見合わせた。
テーブルにつくと、オードリーが話し出した。
「実は今夜、定期受診の日にちを早めて、病院へ行っていただきたいのです。また、サ・ワラビー夫人が迎えにきますから」
「いい話なのか?」オスカルが聞いた。
「病状の説明はドクターから聞いてください」
「そうオンディーヌが言っているのだな」
「普通はそうですから」
「まったく、あのオンディーヌは!初めての診察のとき、検査結果を前にして患者そっちのけで号泣するのだぞ!いつもああなのか?」
「泣いたのですか?」
「いつもは違うのか?」
「いつもは怒ってるか、笑ってるかのどちらかですが・・・」
「なんだ?平常心というものはないのか?」
「・・・・・・」
「まあ、いい。で、あのTAKABAYASHIというドクターはオンディーヌのなんなのだ?」
「弟ですが」
「弟〜!!?なっ、なんだ!なにが男性にはいろんな欲望が・・・などと、もったいつけたことを言いおって!けしからん!」
「そのドクターはいい男なのか?」アンドレは可笑しそうに口をはさんだ。
「おまえには適わん!」
「だろうな」
「おまえ、この国へ来て謙虚さを忘れたか!?」
「おまえに言われたくないな」アンドレはくっくっと笑って答えた。
「アンドレ、おまえは知っていたのか?弟だということを」
「ああ、本人から聞いた」
「いつだ?」
「退院して間もなくだったと思うが、夜勤明けだから仮眠させてくれと言って来た、その時だ」
「おまえの部屋で寝ていったのか?」
「どうせ、夜には隣のおまえの世話をしに行かなくてはいけないから、ここで寝ていくと言っていた」
「私の部屋で眠ればいいではないか?部屋はいくつでもあるぞ!」
「おまえの部屋では落ち着かないそうだ」アンドレはあくまで可笑しそうに言った。
「どうして黙っていた?」
「俺の部屋で仮眠していったことか?・・・オンディーヌが言わない方がいいと。自分の人格は疑われないだろうが、俺の行動を疑われる可能性があるからとか言っていたな・・・」アンドレはここまで言うと爆笑した。
「まったく、年下好みなのか?あのオンディーヌは?」
「いや、今は俺達よりも年上だが、10歳の頃から俺達のことは知っているそうだ」
「ルルーくらいの歳から私達を見ていて、そして歳の上では追い抜いたということか?」
「そうらしい・・・それに、あの部屋はもともとオンディーヌの部屋で俺達を招くために一時的に職場の寮に引っ越しているらしい」
「では、私の部屋は?」
「こちらの住まいはマリーさまとおっしゃる方が購入されて、そしてあの隠し扉を発見されたのです。正確に言えば、発見したから購入されたのですが」オードリーが説明した。
「あなた方のパワーをもってすれば、自分達の力で時空の扉などぶち抜いてしまいかねないように思えるが、偶然だったのか?」
「人の力でできるものではないと思います・・・それに、いつまで通じているかもはっきり分からないのです」
「それは困る!」
「ですからサ・ワラビー夫人が毎日、点検してくれています。今のところ大丈夫です」
「では、もし病が治れば、その時点で、即刻、もとの世界へ戻った方がよいな!」
「そういうことです」
三人は、あたかもその時が近いと想定して話しているようだった。
夜になると、またオードリーと入れ違いにサ・ワラビー夫人がオスカルを迎えに来た。
「今日はアンドレも診察に同席してください」
「俺もか?」と聞いてはみたが、断りたいわけがなかった。
「いいお話だといいですね」馬のない馬車の中でサ・ワラビー夫人が言った。
「ぜひともそう願いたい」神妙な面持ちでオスカルが答えた。
病院へ着くとオンディーヌが待ち構えており、オスカルをいつもの検査室へ連れて行った。
サ・ワラビー夫人とアンドレは暗い待合室に取り残されたが、ほどなくオンディーヌがパタパタと茶色い封筒を片手に自分達の前を通り過ぎ、診察室へと入って行った。その後から、オスカルが憮然とした面持ちで大股で歩いてきた。
「まったく、せせこましい動きをするナースだ」
オスカルがそういい終わらないうちに、診察室の扉からオンディーヌが顔だけ出した。
「どうぞ〜」
三人は揃って、診察室へ入って行った。
「ご家族の方ですね?」
ドクターは患者以外の二人の顔を見て聞いた。
「はい」
「そうです」サ・ワラビー夫人とアンドレは同時に答えた。
その答えになんの疑問も抱かず、というか故意にそれ以上の質問はせずにドクターは病状説明に入った。
「実はですね。8週間前に採った喀痰を今まで培養していたのですが、菌が見つかりません。4週間前のものからも出ていません。で、これが今日の画像なのですが、初めて来ていただいたときのこの病巣がほとんどなくなっているのが分かりますか?ここに白い影が残っていますが、これは瘢痕のようなもので一生とれることはないでしょう。あと1週間分、薬があると思いますので、それを飲みきったら治療は終了ということにしましょう。幸い、副作用もでなかったようですし」
オスカルの頬はとたんに上気し、アンドレを仰ぎ見た。
それと同時にゴンという音がした。オンディーヌがドクターの椅子を蹴ったのだ。
それに押されるようにドクターが補足説明を始めた。
「この病気はですね。完全に消え去るように治るのではないんです。病巣を封じ込めるようにして治るので、いつか年取った時や大きな怪我などで免疫力が低下すれば、封じ込められていた菌が殻を食い破るようにして、病気が再燃する恐れがあります。まあ、その時は今回と同じ治療をすればいいわけですが、薬がない場合は服薬以外の治療をまた心がけていただくしかないです」
さらにゴンという音がした。
「病気を再燃させない為にも、日頃から規則正しい生活とバランスのとれた食事、そして運動、休息、睡眠のバランスも大切に生活されるといいと思います。最初、来ていただいた時は培養しなくても結核菌が発見されましたので、これだけ急速に治癒するケースは珍しいくらいです」
次はゴンという音の代わりにオンディーヌが直接、口をはさんだ。
「職業柄、万が一にも怪我をされたら絶対、化膿させては駄目です!傷口はきれいな水で毎日、洗ってください。もし膿がでるようなら日に何回か洗い、その度に新しいガーゼや包帯に交換してください。とにかく、落ち着いた場所で安静にしないと怪我はよくならないばかりか、他の病気まで引き起こしかねないのでお願いします!けっして、今回のご自分の治癒力を過信なさいませんように」
「よく分かりました」アンドレが神妙な顔で答えた。「必ず、そうします」アンドレの落ち着いた笑顔は誰のどんな誓いの言葉よりも、そこにいた者達を納得させ、ほっと安心させた。
「本当に、早くにかかっていただいたのでよかった。ではお大事に」
そう言うと、ドクターはそそくさと出て行った。
ドクターが出て行った後も、オンディーヌはまだ、なにか言いたげだったが、それを遮るようにサ・ワラビー夫人が帰途へと誘った。
「いいお話でよかったですね。やっと、ここまでたどり着きました。さあ、帰りましょう!」
その柔らかな声音に、オンディーヌは言いかけた言葉を呑み込み、またいつか切り返してやろうとタイミングを待っていたオスカルも素直にサ・ワラビー夫人の言葉に従った。
オンディーヌは助手席に、二人は後部座席へ乗り込んだ。自分達の仕事にやっとめどがついてきた前の二人は久々の脱力感に襲われ、後ろの二人はこの車の座席の座り心地とジャルジェ家の馬車のそれとを比べているようだった。シートを撫でてみたり、腰を浮かしてみたりして二人してあれやこれやとフランス語で話し出した。これから帰る元の世界へ思いをはせてでもいるのだろうか。
その微笑ましい光景に前の二人は顔を見合わせ微笑んだ。それと同時にここまでくるまでに、自分達が費やした数ヶ月間の努力あるいは執念、情熱というものに、なにかしら愛着のようなものを感じ思わず笑いをもらしそうになる二人だった。
―つづく−