La Vie en Rose

13 回想 〜舞踏会 3〜

作 オンディーヌさま


 おそらくは茶番で終わるだろうこの舞踏会を少しでも意味のあるものにしようとオスカルは衛兵隊員達にも招待の声をかけた。そして、もちろんあの男にも。「アラン、おまえが憎む貴族社会の夜会を実際、自分の目で確かめに来い」アランは目を合わそうともせず、返事もしなかった。だが、きっと他の隊員達に促されてやって来るだろう。

 とうとう、客が集まりだした。父と母がその応対に出る。姉君達の何人かは父母に付き添い、残りの何人かはこれから晒し者にされようとしている妹に付き添っている。楽師達が舞踏会の序曲を演奏し始めた。
やはり、舞踏会など止めておけばよかったという思いがよぎる。いつもの軍服姿と今の姿では違いが大きすぎる。今の姿が奇異というわけではないが、その姿を衆目に晒すということに対して、いまだ完全に抵抗感が拭いきれてはいなかった。まったく忌々しい儀式だ!ますます自分の選択が間違っていたものと思えてきた。しかし、母上のためとはいえ、自分で選んだことだ。気持ちを取り直し、眉間に皺をよせた表情をやめ、面を上げ、軍服を着ている時と同じ凛とした表情で目前の広間へと繋がる重厚な扉を見据えた。
「マドモアゼル、オスカル・フランソワ・ド・ジャルジェ!」言上が響き渡る。(いまさら、マドモアゼルは止めていただきたい!)目の前の広間につながる扉が厳かに開かれた。いっせいに客の視線が集中する。驚嘆の声があちこちで上がる。それは、普段との服装の差に対するものではなく、この紫のドレスを纏った貴婦人が作り出している凛とした空気の張り、そしてどこまで目を凝らしても類似を許さない完璧な美しさそのものへ対してだった。その驚嘆はやがて、溜め息と感動へと変わって、見ている者の心の中に沁みこんでいく。オスカルはゆっくりと、広間に歩みを進める。(まったく、どの客もなんの遠慮もなく好奇心むき出しの顔で覗き込んでくれるものだ!)居並ぶ客に会釈をしながら、氷のような表情を変えることなく、その前を通り過ぎる。何人かの客に挨拶を済ませると、その中に元部下の姿を見つける。(こいつ、フォントネーとかいったな。)要領だけはやたらよく、誠実な仕事ができないばかりかお調子者ときていた。今日もその着飾りようには余念がない。「ああ、君!」「はい、隊長!覚えていていただいて光栄でございます。今日は一段と・・・」「おまえ、私が再度、報告しなおせといった件をうやむやにしたままだったな!その罰として、今日は私にダンスを申し込むことを禁止する。分かったな!元上官の命令だ!」フォントネーはたじろぎ、周りの客に照れ隠しの表情を作ると、おとなしく引き下がった。

そのとき、新しい客の到着を告げる声が聞こえた。入り口に目をやるとダグー大佐を先頭に衛兵隊員達がきょろきょろと物珍しそうに、あたりを見回している姿が目に入る。「まるで、引率される学生だな!」オスカルの表情はとたんに輝きを取り戻した。近くの客に「失礼!」と挨拶すると、ドレスの裾を両手でガバッとたくし上げ、その客の方へ大股で歩き出した。「よく来てくれた!アランがいないようだが・・・」誰一人として返事をしない。「どうした?そんなに珍しいか?」どうも誰だか分かっていないらしい。「ジャン!隊長だ!言ってみろ!た・い・ちょ・う!」「たっ、た・い・ちょ・う・・・え〜!?隊長〜!?」一同、いっせいに気づいたらしい。「アランの姿がないがどうした?」「すぐに来ます!・・・え〜?隊長〜!?」「まだ言うか!」しばらく、ざわざわと驚きの声が消えない。「ダグー大佐、みなが気兼ねしないように奥に部屋が用意してある。広間にも出で来てもらって構わないが、お客様に失礼のないようにしてくれ」「はっ!かしこまりました。今夜はお招きいただきありがとうございます」衛兵隊員達はダグー大佐について移動しはじめた。それに追いつくかのようにアランが走って入って来た。「アラン・ド・ソワソン!」紫色の貴婦人に一瞬、きょとんとした表情を見せたが、その声の持ち主を認識すると目をそむけた。「よく来てくれた」紫色の貴婦人が言葉を続けた。「これが私で、おまえには不本意かも知れんが、おまえの上官だ」オスカルは微笑んだが、アランには、またしてもあの夜のことが思い出された。自分の罪と愚かさを照らし出すかのようにその白い胸元は輝いていた。とても凝視などできなかった。アランは一礼してオスカルの前を走り去った。遠ざかりつつある衛兵隊から「あれが〜?」「隊長〜?」という声がまだ聞こえてきた。すると、ジャンとピエールが走って戻ってきた。「どうした?」「隊長!後ろを向いてください!」「こうか?」オスカルが背を向けると今度は「うわ〜!」という声を上げている。「だから、なんだ?」またしても「うわ〜!!」と二人揃って、驚きの声を上げる。「だから、うわ〜に続く形容詞はなんなのだ?」「いや、お綺麗です!」「当たり前だ!!」

衛兵隊員を見送っている間に父上の挨拶が済んでいた。オスカルは溜め息をつき、ジェローデルのもとへと足を運んだ。「最初のメヌエットはおまえとのはずだ」オスカルは右手を差し出した。ジェローデルはその手を左手で受け、微笑んだ。「ダンスは男性から誘うものです。私が参るまでお待ちになればよろしいのに」「どっちからでも同じことだ」二人は広間の中央に進み出た。客の視線のすべてがこの今日の主役二人に注がれる。ソフトで自信に満ちた物腰の貴公子と、その美しい姿を今宵初めて披露する姫君に。

ゆったりとした三拍子の曲が流れ始める。二人は手を取り合ったまま、同じ方向を向き、ステップを踏み始めた。客の中から溜め息が漏れる。誰の目から見てもお似合いな姿は、今日の王子探しの舞踏会の結果が最初から提示されたも同然のように見えた。二人はいったん離れ、別のパートナーとターンをし、また元のパートーナーに戻り、向かい合ったところで、背中越しに回旋し、また向かい合う。オスカルの広げられた両手をジェローデルが受ける。見つめ合う体勢になった二人に集まった客から、またしても溜め息が漏れる。

「恐ろしく、退屈な踊りだ。ジェローデル」仏頂面のオスカルが言う。「あなたにはもっと、軽快なダンスがお似合いかと。しかもリードする側の方が」視線を上げたオスカルが言う。「おまえ、やけに嬉しそうだな!」ジェローデルは噴き出した。「それはそうです。長年、貴女をこの腕に抱いて踊るのが夢でした。それが、今、こうしてかなっています」確かに、自分にも恋焦がれた腕があった。その思いを今、ジェローデルが味わっているということか・・・
二人は位置を交代し、また同じステップを踏んだ。その間、ずっとジェローデルの視線はオスカルに微笑みとともに注がれていた。曲が最初のテーマに戻り、メヌエットは終わった。二人はお辞儀をし、オスカルはジェローデルから離れた。
すたすたと歩いてアンドレを探し、持っていた盆から飲み物を受け取った。「一曲、踊っただけでも疲れる!一日働いた以上だ!」「それが、今日のおまえの仕事だろう」「ああ、あと数時間で終わる」

その後も○○侯爵、○○伯爵と名乗る貴族が次々にダンスに誘いに来た。そして、みな容姿をほめ、あるものは以前に恋文を送ったという。「それは、失礼をした!その頃はきっと軍の仕事が忙しくてお返事を差し上げる暇とてなかったのだと思う」口から出まかせを言うしかなかった。ダンスが終わると話す機会さえ与えず、すぐに離れてしまうオスカルの様子を見て、踊りながら求婚してくる者もいた。切々と自分の恋心を伝え、自分の家柄、財産ゆえに幸せにできる自信があるそうだ。どれもこれも、退屈な響きだけしか与えなかった。

舞踏会も半ばを過ぎた頃、セギュ―ル侯爵という男が誘いにきた。舞踏会もあと少しで終わるという油断がオスカルにもあった。その男は他の男同様、甘く退屈な言葉を囁いた。しかし、あまり関心を示さないオスカルに業を煮やしたのか、腰に回していた手に力が入り、オスカルを引き寄せた。「今度、ぜひあなたを遠出にお誘いしたい。新しく購入した城をあなたにぜひともお見せしたいのです。それに・・あなたはまだ、女性としての悦び知らないようでいらっしゃる」腰に回された手でますます引き寄せられ、しかもオスカルの両足の間に自分の足を踏み込んできた。(くそっ!!この野郎!)つり上がる眉を隠すように、オスカルは口元だけで不敵な微笑みをみせた。その作り笑顔に誤解をし、相手の腕の力が緩んだところで、自分の左手で相手の肩をぐっと押し、的確な位置まで身体を離すと、右膝を相手の股間目がけて思い切り蹴り上げた。男はもちろん、直立などしておれず、前かがみになったまま床にうつ伏せてしまった。その様子を5人の姉君達はぽかんと口を開いたまま眺めていた。が、オスカルと目が合うと慌ててその口を扇で隠した。(そうか!こういう時に使うのか!)オスカルは近くの貴婦人から扇を借り、姉君に教わったとおり優雅に揺らし「セギュール侯爵、あいにくその女の悦びとやらも男特有の痛みも幸いにして知らぬことゆえ!!失礼したっ!!」そう言い捨てると腹立たしげにその場を立ち去った。客の間からは笑い声が漏れていた。ジャルジェ准将に迫り、そして返り討ちにあったのは誰の目にも明らかだった。

オスカルはバルコニーへ逃れた。(あーっ、もう、誰も誘いにくるな!誘いに来たらその場で蹴り跳ばしてやる!)夜の風もオスカルの怒りを鎮めることは出来なかった。「どうぞ」飲み物が差し出された。持ってきたのはジェローデルだった。「おまえか。まったくろくな男がおらん!」「いえ、素敵な貴公子もたくさんおいでかと。ただ、貴女にその気がないだけです」「・・・」「散歩に行きましょう」「ああ、こんなところから、早く逃れたい!」
ジェローデルはオスカルの腰に腕を回し、庭へと誘った。その姿を誰もが、当然で自然なことだと見送った。

「やっと終わる」「私には始まってさえおりません」「メヌエットを踊ったではないか」「踊り終わったら、貴女はすぐにアンドレ・グランディエのもとへ行ってしまわれた」「のどが渇いたからだ」「オスカルさま、環境が変われば自分を癒す術もまた、見つけることができます」「そういうものか」自分の言葉がすべて、彼女の中を素通りしてしまっているのが分かる。
ジェローデルは跪き、オスカルの手を取った。「どうか、私に貴女を守る役目をお与えください。これから迫るかもしれない危険から貴女を守り、そして今までの苦しみを私に分け与えてください。10年以上も貴女を見てまいりました。愛しています、心から。これからの私の人生をあなたに仕えるものとお定めください」ジェローデルのプロポーズをオスカルは黙って聞いた。だが、なにも答えなかった。
ジェローデルは立ち上がり、オスカルの腕を後ろから抱いた。満月に金髪が照らされ、その巻いた房が白い首にかかっていた。背中はおしげもなく晒され、月の光を照り返しいるかのようだった。以前、見たときとは違う。その後姿は女性としての尊厳と誇りに輝いているかのようだった。しかし、その美しさの変化がどこからもたらされたものかは分からなかった。「背中にでも見とれているのか?」「はい」「おまえは素直だな」オスカルはくすっと笑った。「以前、私の屋敷にお招きしたときは背中に羽を隠しておいでかと本気で思いました。それが、今はないことがわかりました。天使以上の美しさで私を魅惑しておいでです。愛しています、オスカルさま」月夜に浮かび上がる紫のドレスと白く輝く背中。このままこの白いうなじに口付けしたら、この方は身を翻しこの腕からすり抜けていってしまうのだろうか?心の震える選択だった。だが、そんなリスクを背負いながらもそうせずにはいられなかった。ジェローデルの唇がオスカルのうなじにふれる。オスカルの脊髄に今まで覚えたことのないような感覚が走る。しかし、それはけして心にまで響くものではなかった。

彼女は自分の腕から逃げなかった。ジェローデルは恋の勝算への高まりを確信する。そして、オスカルをそっと自分の方へ向かせた。夜の帳の中で衣擦れの音が響く。そこには自分達しかいないことをいやがうえにも気づかせられる。ジェローデルは自分の唇を女神の唇に近づけた。それと同時に彼女の目蓋もまた伏せられた。これでやっと、女神を得られたと胸が高鳴った瞬間、勝算は敗北へと一変した。自分が口付けた女神の唇は堅く閉じられ、自分を拒んでいた。そして再び、開けられた瞳にはたとえようのない哀しみの色が宿っていた。

「おまえではないのだ。すまない、ジェローデル」「誰か、お心に思われる方がおありですか?」「分からない。だが、おまえではない。どれだけ待ってもらってもそれは変わることがない」「アンドレ・グランディエですか?」オスカルの表情がより、哀しみと困惑に満ちたものになる。「分からない。だが、おまえの気持ちに応えることはできない・・・すまない」

もう、なにも言うべきことがなかった。「分かりました。身を引きましょう。それが私のただひとつの愛の証です」オスカルの手をとり、口付けるとジェローデルは去っていった。その後姿を見送ると、一瞬、脱力がオスカルを襲った。しかし、次の瞬間、今度は困惑と衝動にいたたまれなくなった。どうして、今こんなに胸が騒ぐのか分からなかった。

アンドレのところへ!オスカルは夜の庭を走り抜けて屋敷に戻った。屋敷ではもう、客のほとんどが帰ってしまったあとだった。衛兵隊員達もその重い腰を上げるところだった。「隊長、ごちそうさまでした」「ああ、楽しめたか?」「はい、隊長、ちゃんと見ましたから!」ピエールが言うと、「何を見たんだ?」ジャンが聞いた。「ああ、みんなに教えてやれ、ピエール。ところで、アランはどうした?」オスカルがあたりを見回すと、ふらついた足取りで、アランが奥の部屋から出てきた。「大丈夫か?」アランは顔を上げた。「隊長の毒気に当てられたよ!」「なんだ、酔っているのか?気をつけて帰れよ」アランを支えるようにして、衛兵隊員達は帰っていった。

衛兵隊員達を見送るとまた、いてもたってもいられない衝動に駆られる。「アンドレ!アンドレーッ!」広間を探し、廊下を見渡し、そしてやっと厨房で後片付けをしているアンドレを捕まえた。「アンドレ、今から飲むぞ!」「だめだ!まだ片づけが終わらない!」「そんなもの外の者にやらせろ!」片手でアンドレの腕を、もう片方の手でドレスを掴み、広間を通って自分の部屋へアンドレを引っ張って行った。途中の広間でまだ片付けてないグラスと酒瓶を何本かアンドレに持たせて。

オスカルは部屋へ着くと、大きな溜め息をついた。胸のざわめきが、部屋の扉が閉められると同時にやっと落ち着きを取り戻したような気がした。「やっと終わったぞ。衛兵隊のやつらも楽しんでいったようだ」「料理がたくさん余ったので、あいつらの馬車に載せてやったよ」「それはありがとう」「今日は素直だな」「いつもだ」二人は顔を見合わせると並んで椅子に腰掛け、酒瓶を開けた。

「あの侯爵、かわいそうだったな」
「なにが、かわいそうだ!私の方がよっぽど気の毒な目に会ったぞ!」
「誰もそうは思ってないと思うがな」
「みんな、どういう了見をしているのだ!?私の方が被害者だ!思い出しても気色の悪い!」
「まあ、飲め!」
「ああ、注げ!」
「おまえ、少し黙れ!」
「しゃべりながらでも飲める!」
「そうではなくて、少し落ち着け!」
「・・・では、膝を貸せ!疲れた!」
オスカルはアンドレの膝枕で少しの間、目を閉じた。
「ジェローデルは断ったぞ!」
「・・・そうか」
「安心しろ!」
「なにをだ?」
「心配していたのではないのか?」
「なるようにしかならんさ・・・」
「諦めがいいな!」
「そうではないが・・・とにかく黙れ!!」
「分かった」
そういうとオスカルは首をもたげ、ワインを一杯飲むと頭をアンドレの膝に戻した。しばらくすると、すーっという寝息が聞こえた。
(よっぽど、疲れたんだな・・・)
アンドレは、オスカルの寝ている間に髪を解きにかかった。(どういう思いでドレスなど着た?)答えの出ぬ疑問を抱いたまま、束ねられたすべての房を解くと曲のついた髪に手櫛を入れた。
「痛っ!」
「すまん!」
「ああ、解いてくれたのか。メルシ!」
オスカルは起き上がり、また酒を注ぎ始めた。いつものように脚を大股に開き、その脚の上に頬杖をついた。少し前のめりになったその体勢のおかげで、コルセットの下縁が太ももにあたり、コルセットを押し上げ、当然のことながら両の胸の膨らみまで押し上げた。
「おい、オスカル!」
「なんだ?」
その目つきは据わっていた。
(まったく自覚がないな!こいつ!)
仕方なく、アンドレは隣の肘掛け椅子に腰掛けなおした。
「オスカル、そのドレスの着心地はどうだ?」
「ああ、少しは慣れた。もう着ることもないだろうからな。よく拝んどけ!」
「おまえ、今日の舞踏会もそういうしゃべり方だったのか?」
「まあ、大差ないな。気取ってみても始まらん!」
「なら、どうしてドレスなど着た?」
「・・・まあ、一生に一度くらいいいだろう」
「三度目だ!」
「そうだったか?だが、二度目は不本意ながらだ!」
「しかも2回目は俺は見てない!」
「いなかったおまえが悪い!」
「・・・」
「悔しかったら片時も私から離れるな!」
「・・・」
二人はしばしの沈黙のあと、顔を見合わせ噴き出した。

「今日のおまえは綺麗だ」
「さもあらん!」酒を注ぐ手が止まることはない。
「おまえ、謙虚になれ!」
「心の中はいたって謙虚だ」
「ああ、そう願うよ!」
「他に願いはないのか?」
「・・・これといってないな」
「無欲なやつだな・・・」
「そうならざるを得ん」
「さっきのもう一度、言ってみろ!」
「今日のおまえは綺麗だ!か?」
「そうだ!おまえが言うと素直に響く。今日の中で一番、多かったフレーズだ!」
「おまえも苦労したな」アンドレが笑った。
「やっと、分かったか!?」オスカルは今日の緊張からやっと解き放たれていることをあらためて実感する。
「この格好にも少し慣れてきた。おまえも見慣れたか?」
「あらためて、見とれるよ」
「だろうな・・・」
「ジャンとピエールも喜んでいた。ドレスで出勤してほしいそうだ」
「馬鹿め・・・」

会話が途切れると、オスカルはまた長いすに横になり寝息をたて始めた。
「もう寝ろ!オスカル!」
返事がないので、アンドレはオスカルをその格好のまま抱きかかえ、寝室まで運ぼうとした。揺り動かされて、オスカルの意識は目覚めた。アンドレの腕が心地よかった。このままこの腕の中で眠りたかった。

ベッドに下ろす前にアンドレは軽く口付けた。「おやすみ、オスカル」
(それだけか?アンドレ?)アンドレが立ち去る予感がコルセットの中の胸を苦しく締め付けた。
アンドレはベッドにオスカルの身体を横たえた。広いベッドの端から端まで紫のドレスの裾が扇型に広がった。薄暗い部屋のなかでも、その布の持つ光沢が薄れることはなかった。そして黄金の髪も同じ形に広がりをみせた。しかし、いつもより巻き髪の曲がついているため、印象がずいぶん違って見えた。
(まるで、眠り姫だな・・・)
(行ってしまうのか?アンドレ?)
オスカルの眉間に皺がより、口元が軽く開かれた。
(どうして、そんな誘うような表情をする?俺の勘違いか?)
アンドレはオスカルの傍らに跪き、右手を取った。
(もし、勘違いでないなら、これで目を開けてくれ!眠り姫!)
アンドレは唇をオスカルの唇に優しく押し当てた。そして、わずかに動いたかのように思えたオスカルの唇の奥深くにその吐息を求めた。
オスカルはアンドレの唇の柔らかさを温かさを、心が震える思いで受け止めた。
アンドレを探して庭から駆け戻ってきた時の得体の知れぬ焦燥と胸の高鳴りが、今度ははっきりとした形となってうねりを作り、押し寄せてきて、オスカルを呑み込んだ。

(なんということだ!・・・ああ、アンドレ!アンドレ!・・・私は・・・私は・・・こんなにもおまえの口付けを待っていた。恋焦がれるほどにおまえの口付けを待っていた!それに自分で気づきもせずに!・・・なんということだ!)

アンドレは唇を離した。しかし、眠り姫は目を開けなかった。薄暗い部屋で、その右目から溢れる涙にアンドレは気づかなかった。
(やはり、勘違いだ・・・)
アンドレは立ち、部屋を出て行った。隣の部屋で酒瓶を片付ける音がする。

(アンドレ!気づかなかった!私は・・・私は・・・こんなにもおまえを愛している!!アンドレ!私はおまえを愛している!!)

オスカルは両の手で顔を覆った。感情とともに両方の目から涙が溢れ、零れ落ちる。こんなにも、溢れ出るほどに感情が、愛情が満ちていたにもかかわらず、いったい何がそれを今まで、封印していたのだろう。自分は何を恐れ、何を躊躇っていたのだろう。この高ぶる胸を抑えることさえできずにいるのに、そんな答えは到底、今、見つけられそうもなかった。ただ、さっき抱いていてくれていたアンドレの腕が恋しく、さっき、自分の唇を覆ったアンドレの口付けの感触が忘れられず、よけいに胸を苦しく締め付けていた。


やがて、隣の部屋の物音は消え、パタンという扉の閉まる音がした。それは今日の喜劇の終幕を告げる合図のようにオスカルの胸に響いた。

(今、告げるべきではない。今になってようやく気づいたこの想いを、今、おまえを追いかけて告げるべきではない。だが、アンドレ・・・アンドレ・・・)

オスカルは満ちては溢れる泉のような感情を抱きかかえたまま、自分の体温と   は対照的な夜の空気にその身体を抱かれ、まんじりともせず時間の経過の中に身を置いていた

 

 

       

―つづく










            


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