La Vie en Rose
作 オンディーヌさま
次の日からジャルジェ家は沸き立っていた。ジャルジェ家では何十年ぶりかの盛大な舞踏会である。召使いの中でもその段取りを心得ているものは少なかった。
段取りは両親と古手の召使いに任せて、オスカルはローズ・ベルタン嬢を屋敷に招いた。ローズ・ベルタンはいくつかの布地と見本のローブと何人ものお針子を連れてやってきた。
「やはり、夜会の目的からいたしましても、出来る限り、華やかな装いにされたほうがよろしいかと存じます。まず、布地は上等のものをお選びいただき、レースはふんだんに使い、パニエは横に張り出した大きな形のものといたしましょう。そうすれば、ローブも映えますし。また華やかな装いにふさわしく御髪も、うんとボリュームを持たせましょう」
オスカルは聞いているだけで、うんざりしてきた。舞踏会そのものを取り止めようかとさえ思えてきた。「申し訳ないが、私にも好みがあり、普段はそういう格好をしない私としては受け入れられる限度いうものがある」
「しかし、ご婚約者を募る夜会となりますと、豪華さを欠くことはできません・・・」話を続けるベルタン嬢の後ろにオスカルは見覚えのある二人のお針子を見つけた。「おまえ達二人には、いつか世話になっているな」二人のお針子は輝かせた顔を見合わせた。「ベルタン嬢、お話はごもっともだが、一度この若いお針子達の意見も聞いてみたいと思う」「なにをおっしゃいます!この者達はまだ、デザインなどしたこともございません!」「いや、若い者というのは思いもかけない素晴らしい発想を持っているものだ!この二人を貸してくれないか?」
長年、王妃の信頼を保ち続け、ヴェルサイユのファッションをリードし続けてきた自分の意見よりも、若いお針子の感性の可能性に賭けたいという本日の依頼主の意見にベルタン嬢は唖然とした。「分かりました。私の店には直接、お訪ねくださるお客様もみえますので、私はこれにて失礼いたします」ベルタン嬢はややむくれた様子で他のお針子を連れて帰っていった。
「いいか、私の出す絶対条件はこうだ!胸の谷間は絶対に見せない!パニエははかない!あと、ごちゃごちゃとした装飾はいっさい止めてもらいたい!分かったか?」お針子二人は顔を見合わせた。
「襟元を上げるとなると、代わりに両肩を出すデザインというのはどうでしょう?」ずけずけ物言うお針子1がそう言うと、手先の器用なお針子2がそのデザイン画を描いていった。
「だめだ、だめだ!それでは、どうぞ、肩より下の裸体をご想像くださいと言っているようなものだ」二人のお針子は顔を見合わせ微笑んだ。
「オスカルさま、殿方は女性がどんな格好をしていようとその中の裸体は思い描いているものだそうですよ」
「おまえ、若いのによくそんなこと言えるな!そうなのか?アンドレ!?」壁にもたれかかり、様子を眺めていたアンドレがくすっと笑いをもらす。「男の習性だ。しょうがない」「なんということだ!そんなことは誰も教えてくれなかったぞ!では、次の案を出せ!」ここで怒っていてはドレスが舞踏会までに間に合わない。
「オスカルさま、この布地をご覧ください。暗い紫色をしておりますが、光によりワインレッドにも変わります。そして胸を強調させるのがお嫌でしたら、袖にうんとボリュームをもたせます。大きく膨らませた袖の続きは細く、腕に沿ったものとし手の甲まで覆います。ちょうちん袖との境目には秋らしい素材で黒のリボンをつけます。また、胸元を少し上げる分、背中は大胆に開けさせていただきます。両方スクエアカットがよろしいかと。このローブに合ったコルセットも特別に必要になります。また、スカートと上のお洋服部分は別に仕立て、たっぷりとひだを取ったスカートを押さえ込むように上衣のウエストラインは中央に向かって斜めのデザインとします。ただ、このスカートを膨らませるのにパニエなしだとすると・・・」お針子1は口ごもった。「分かりました。では、布地だけでこのスカートの重みに負けず、膨らみを持たせられるよういろいろな素材で試してみます。あと、髪型ですが、前髪を少しお切りください。前髪の額に沿った部分のみ内巻きにカールし下ろします。ドレスがシンプルな分、かわいらしさを出しましょう。髪飾りは紫の小さめの薔薇を少しだけ付けさせてください。アクセサリーは大きなルビーの首飾りをご用意ください。靴はドレスと友布で作りましょう。ヒールも低く動きやすくしておきます」お針子1が言ったままを、お針子2がどんどんデザイン画にしていった。その出来ばえにオスカルは大いに納得した。
「そら、見ろ!やはり、若い者の感性は違う!既成の概念に捕らわれず、自由だ!このデザインも一見、クラシカルに見えて実は非常に斬新だ!」ゴテゴテとしたロココ調のドレスを着せられなくてもすむことになり、オスカルは胸をなでおろした。
そして迎えた舞踏会当日。前日から妹の晴れ舞台のため、遠路駆けつけた5人の姉君達は主役のオスカルよりも落ち着かない様子だった。「ああ、オスカル、あなた大丈夫なの?着たこともないドレスを着てダンスを踊るなんて?」「まだ、起きたばかりなのにもう夜会の心配ですか?姉君達のように優雅に踊ればよろしいのでしょう?」あくびをしながらオスカルが答える。「では、この扇を使ってごらんなさい」長女のマリー・アンヌが扇を手渡す。「こうでございますか?」バタバタバタバタッ!「ああ、それでは更年期のご婦人がヒステリーを起こしているときの扇ぎ方だわ!手首だけで扇いではだめです!肩はやや広げて肘も手首も柔らかく!」ジョゼフィーヌ姉君が見本を見せる。「口調も動作もゆったりと、いい?『まあ、ジェローデル少佐、今晩はよくお越しくださいました』こういう感じよ!」「バカらしい!できますか!?そんなこと!」オスカルはそっぽを向いてしまった。「とにかく、新しいドレスは着てみて動いて、そして初めて気づく不備な点などが見つかるものですから、着付けは早めに始めたほうがいいわ!」オルタンス姉君も心配でしょうがない。「分かりました。そのようにいたしますが、この年まで男として生きてきて、今日のたった一夜で今後の人生を左右する伴侶を決めろなどと言うほうが無理なのです。ですから、姉君達もあまり期待しないでいただきたい!」「オスカル、今晩、決めなくてもいいのですよ。今夜は絞り込むだけ。心に残った何人かの中から、あとでゆっくり一人に決めればいいのです」マリー・アンヌ姉君が締めくくった。
(まったく、髪を結い上げる前から頭痛がしてきそうだ。心に残った何人かの中からと言っても、一人も心に残らない可能性の方が大きいではないですか!マリー・アンヌ姉上!だいたい私が嫌いなドレスを着てみようと思ったのは、本人の自覚をよそに、周りが女、女と騒ぐものですから、それなら自分の方から一度、それに相応しい格好をしてみてやろうと思っただけで、ドレスを着るからといって私自身が変わるわけではありません!アンドレとは話がしたくても、夜会の準備に追われていて、私の相手などしていられないだろうし、まったく早く終わってもらいたいものだ!)
夕方になると大広間の準備も整い、楽師達も音あわせを始め出した。ベルタン嬢のところのお針子達も彼女達の輝かしいデビュー作を持ってやってきた。
「おお、来たか!仮縫い以来だな!どうだ?布製のパニエはできたか?スースーするのはかなわんから、下着はきっちり着けるからな!」「心得ております」こうして、オスカルの着付けは始まった。背中の大きく開いたコルセットが着けられ、布製パニエが差し出された。「一番下は肌触りのよい素材になっております。中の何枚かは裾にいくほど膨らみがでるよう何段かに切り替えてギャザーが寄せてございます。少し重みはありますが」その布製パニエを穿き、その上に光沢のある紫のスカートを穿いた。そして、今まで見たこともないほど、大きく袖の膨らんだ上衣を着て背中のフックが止められた。胸の膨らみこそ、露になっていないものの、白い肌の下から両鎖骨が美しく浮かび上がり、背中は肩甲骨が全部、露出する大胆さで開けられていた。大理石のようにつややかな肌の上にもはや、宝石など必要ないとさえ思われた。お針子二人がスカートのひだのより具合を直し、上衣を整えた。その様子を5人の姉とばあやをはじめとする召使い達が、声も溜め息も漏らすことなく見守っていた。
「いかがでございます?」お針子が聞いた。「うん、上出来だ。デザイン画のままだ。背中の露出度は大きいが胸の刺繍も邪魔にはならんし・・・」オスカルは身体をよじって背中の開き具合を確かめた。「袖のデザインに特徴がございますので、肩は少し動かしにくいかと存じます」「まあ、いい。一日着ているわけでもなし、立ち回りはせんから、心配ない」
「まあ、オスカル・・・」ここにきて初めて、マリー・アンヌ姉君が口を開いた。「あなた、素晴らしいわ!こんなデザインのドレスを誰が着こなせるものですか?私達も鼻が高いというものです」「ああ、お嬢様、お嬢様〜!」ばあやがドレスの裾にしがみついた。それ以上は言葉にならないらしい。次に結髪師が呼ばれた。髪にこてが当てられ、カールを作っていく。お針子のイメージどおりに額に沿って薄く残された前髪が内巻きにカールされて額に下ろされる。あとはすべて結い上げられ、そして整えすぎない程度にカールされた髪の房が首の後ろに垂らされる。
お針子が差し出した靴にはドレスの生地をバイアスに切って伸縮を持たせた紐が足首部分に二本、渡してあり、簡単には脱げないようになっていた。
「ばあや、アンドレを呼んでくれ!いや、いい!自分で行く!」そう言うと賛辞の言葉をかけ終わってないみんなを残して部屋を出ていってしまった。「アンドレ!アンドレーッ!」屋敷中、響き渡るその声に誰もが作業の手を止めた。「なんだ?」手に何かの箱を持ったアンドレが現れた。「どうだ?男の中でおまえに一番、最初に見せたぞ」「ああ、綺麗だよ」「後ろも見てみろ!」オスカルは背中を向けた。「どこから見ても綺麗だ!」「そうか。では母上のところへ行ってくる」オスカルはドレスの裾を両手でたくし上げ、母の部屋の方向へ歩き出した。
(オスカル、おまえがどんなに着飾ろうと、その格好でダンスの相手をし、求婚の機会を与えられるのは貴族の男だ。俺とは隔たった世界だ。おまえが無意識か故意かに見せるその親しみは、今の俺にはかえって酷だ・・・解るか?オスカル・・・おまえは俺の気持ちを知ってから、その強引な告白を責めることもなく、それどころか俺の気持ちをいたわるような気遣いを見せる。この湧き上がっては、収まるところを知らない思慕の念が、やがて狂気へと向かわぬよう、おまえはわざとそれを言の葉に載せて軽口で俺の心を解きほぐそうとでもしているかのように振舞う。俺の片恋が今までの二人の関係の隔たりとならないようにでもしているかのように・・・だが、そんな芝居も今日で終わりかも知れんな・・・おまえが誰かを選べば、俺達は別々の人生を歩むことになる。・・・別々の人生・・・そんなことができるのだろうか?おまえは俺の気持ちに応えることができなくても、俺を放そうとはしなかった。俺も、望んでもけっして得られない存在と分かっていながら、おまえから離れることができなかった。それが、今夜一晩で変わるというのか!?)
アンドレはオスカルの豪奢な後姿を見送りながら、いままでかろうじて保ってきた心の均衡を崩しそうになっていた。これまでの関係を維持することが、今の自分にとっては最善だと言い聞かせて振舞ってきた。しかし、心の奥底ではオスカルを欲して止まない狂おしいほどの恋情が、自分を支配していることをここにきてまた、認めざるを得なかった。
オスカルは、着慣れていない、肌を晒した艶やかなドレスの裾が、歩くたびに紡ぎだす耳に馴染まぬ衣擦れの音が、実は本来の自分を認め、心の奥深く封印されたままの迸るような情熱を解き放つためのプレリュードとなっていることにまだ、気づきさえもしていなかった。
オスカルは母の部屋に向かう足を止め、何かに気づいたかのように引き返してきた。「アンドレ!その箱を置け!男性パートは自信があるが、女性パートはだめだ!練習台になれ!」なかなか箱を下ろそうとしないアンドレから箱を取り上げ、廊下の隅に置くと左手をアンドレの肩に置いた。「もっと俺の右手に体重を預けろ」「こうか?」オスカルは少し、身体をそらせてみた。「そうだ」二人はステップを踏み始めた。二階の廊下で踊りだした二人を見て、楽師達がそれに合わせて三拍子の曲を演奏しだした。オスカルは階下の指揮者に合図を送った。「もう少し、テンポを上げてくれ!」二人は視線を合わせた。「おまえとの身長差は踊るのにちょうどいい!」「そうだな」
(ああ、アンドレ、アンドレ・・・頼むから、そんな悲しい顔はするな。こんな茶番はすぐに終わる。)
しばらく優雅にステップを踏んでいた二人だったが、オスカルはその歩みを止めた。そしてまた、指揮者に向かって叫んだ。「宮廷舞踊は退屈だ!なにか民族舞踊の曲を演奏してくれないか?」
楽師達は指揮者と少し相談をした後、明るい農村を思い起こさせる、牧歌的な2拍子の軽快な曲を演奏し始めた。「向こうの廊下の突き当たりまで、シャッセだ!」おそらくは円になって踊られるこの曲を、二人は組んだまま弾むように廊下を駆けていった。途中、アンドレがオスカルの右手を頭上に掲げ、回転を促した。手首のひねられる方向へ体を一回転すると、オスカルのスカートは広がりアンドレの脚に当たって衣擦れの音を作った。微笑むオスカルにもう一回転を促す。オスカルは声を立てて笑った。20年以上も、ともに過ごしながら、重心をひとつにし、ダンスをするなどというのは初めてのことだった。二人は息を弾ませ、オスカルの頬は上気していた。
曲が変わった。「今度はスコティッシュだぞ!」オスカルがアンドレの顔を覗き込む。二人は来た反対方向を向き、内側の手を取り合った。取り合った手を前に差し出し、空いた手をアンドレは自分の背中に回し、オスカルはスカートを持った。そのまま、顔を見合わせながら、ツーステップで滑るように前進した。廊下の中央まで行くとアンドレがオスカルを対面させ、両手を交差して握り合うと、お互いを引っ張るように力を入れ、ステップを踏みながら180度回転した。「どこで、こんな踊りを覚えた?」オスカルが弾む声で聞いた。「パリの酒場には少し前まで、外国からの楽師やダンサーが出入りしていた。その時に見たのさ」アンドレの声も弾んでいた。「本当は4カップルで踊るんだ」アンドレの額にはうっすら汗がにじんでいた。
また、曲が変わった。物悲しいヴァイオリンの音色が二人を包む。「今度はチャールダッシュだぞ!!ハンガリーだ!」オスカルは楽師達の巧みさに驚くとともに、大丈夫かという顔でアンドレを覗き込んだ。「ここでは狭い!下へ行こう!」アンドレが階下へと誘った。「なら上着を脱げ!」オスカルはアンドレから上着を剥ぎ取った。
オスカルの手を取り階段を駆け下りる二人の足音はぴったりと合い、タッタッタッタッタという歯切れの良い音は、あたかもそれも音楽の一部であるかのように屋敷に響き渡った。
二人は広間の中央で向かい合って両手を取った。ヴァイオリンが物憂げな、ゆったりとしたメロディーを奏でる。「俺のステップの真似をしろ」アンドレの言葉にオスカルは挑戦的な笑みで返した。アンドレは進行方向とは逆の足をスウィングし、その足をステップ、そして爪先立って逆足の踵をその踵に打ちつける。同じことを逆回転にも繰り返す。オスカルも同じステップを繰り返す。アンドレの踵を打ち鳴らす音が小気味よく響いた。「たいしたものだ!」オスカルがそういい終えるが早いか、アンドレは右脇にオスカルを抱きかかえ、オスカルの右手を左手で引っ張ると自分の目の前で回転させるようにして、左脇に受け取った。オスカルは後ろへ投げ飛ばされそうになるのを左足を後ろで踏ん張って体勢を整えた。かと思うとまた逆方向に引っ張られ、またアンドレの目の前を通過して右脇に抱え込まれた。アンドレは驚きの笑顔を見せるオスカルを見て微笑んだ。「アンドレ!こんな踊り、見ただけでは絶対、覚えられんぞ!いつ、誰と練習した?」「内緒だ!」そう言うとアンドレはオスカルを自分の前方へ投げるように手放した。
曲が急激に速くなり、フリスカという部分に差し掛かった。物悲しいその速いテンポの曲は踊りを次の展開へと誘っていた。アンドレは手を一回打って、自分の右足の膝を曲げて上げ、左手でその踵の内側を打った。そして今度は後ろ側に蹴り上げると、右手でその踵の外側を打つ。そして脚を振り上げ、太腿やふくらはぎも打つ。パンパンパンパンという手や踵や脚を打つ軽快な音が広間に響く。「もっと、上体を起こせ!」ハンガリーの踊りに、器用にも興じるアンドレに見入っていたオスカルが言った。「おまえは回れ!」アンドレが時計回りに指で合図した。「両手は腰だ」オスカルは言われるままに、アンドレの前で両手を腰にあてがい、右足を軸にターンを始めた。回りながらも、常にオスカルはアンドレへの目線を外さない。四小節過ぎたところで「次は逆回りだ!」とアンドレが言う。オスカルは体をいったん止め、逆に回ろうとすると、いままでふんわりと宙に浮いていたスカートが一挙に脚に絡みつく。それに逆らって逆回転を始めた。アンドレは自分の踊りを止め、くるくると自分の目の前で回るオスカルを見つめた。(どうだ!?)と言わんばかりの相変わらずの負けん気の強さでアンドレを見返してくるオスカルが微笑ましかった。
おそらく、今日の舞踏会でどんな貴公子と踊ってもオスカルは今、自分に見せているような挑戦的な微笑みも、素直な笑顔も見せないだろう。ともすれば、ずっと、ふてくされたような顔でやり過ごすのかもしれない。そんな考えが沈んでいた自分の気持ちを引き上げた。
「アンドレ!もうだめだ!」オスカルが息を切らせ、手を差し出した。その手を取り、自分の胸に抱きとめた。オスカルのはあはあという息遣いが続く。「おまえは知らないだろうが、おまえが来る前には私も姉上達と一緒にバレエを習っていたのだぞ。一番幼い私がいつも誉められた。筋がいいそうだ」息を切らせながらオスカルがそう言った。「ああ、おまえの身体はしなやかだ」その言葉をオスカルは不思議な感覚で受け止めた。アンドレは普通に言った。いつもと変わりない口調で。しかし、その言葉はオスカルの胸の中の何かを弾き、落ち着かない気持ちにさせた。
アンドレは息の落ち着いたオスカルの身体を離した。「次はメヌエットを!」アンドレが楽師達に向かって言った。控え目なアンドレがリクエストをするなどというのは、とても珍しいことだった。「おまえ、そんな曲が踊りたいのか?」「宮廷で何百回も見てきた」「それで、ずっと貴婦人方と踊りたいと思い続けていたわけか」「おまえとだ。オスカル!」アンドレはオスカルを見据え、淡々と言った。またしてもオスカルの心の中にざわめきが起こる。普段の軽口で言い返せばいい。それだけのことが、そうは出来なかった。
二人は手を取って同じ方向を向いた。メヌエットの前奏が流れる。二人は顔を見合わせ、右足からステップを踏み、左足を揃える。そのステップにアップ、ダウンという動きが組み合わさる。4小節使って前進すると、今度は向かい合い、片手を合わせて位置を交代した。そして、広間の端と端に分かれるようにステップを進め、振り返った。見つめ合う二人。アンドレは静かに微笑んでいた。オスカルは眉に少し困惑の色を見せたが、表情は静かな湖面のように抑えられていた。『おまえと踊りたかった』というアンドレの言葉がずっと脳裏から離れない。二人はSの字を書くように弧を描きながら接近する。二人が近づくにつれ、オスカルの胸のざわつきは、よりはっきりしたものとして自覚される。その理由を自ら問うてでもいるかのように、オスカルの表情は静かなままだった。二人は向かい合うところまで来ても、まだ手を取らず、見つめ合ったまま背中越しに回旋した。元の位置に戻ると、今度は交差して掌を合わせ、お互い、右斜め前にステップを踏み、戻り、また合わせる手を交換して、左斜め前にステップを踏み戻った。片手だけを合わせ、まるですれ違うようなステップを踏む二人。そして、やっとオスカルが両手をなだらかな曲線を描いて広げたところを、アンドレが受けた。それは長い長い軌跡をたどった恋人同士がやっと巡り合い、愛を確かめ合ったかのような振り付けだった。微笑みも哀しみも湛えない面(おもて)で見つめ合う青い瞳と漆黒の瞳。その奥底で、求め合い、通じ合うものは、いまだ、意識の表面には現れていなかった。アンドレは右手をオスカルの腰に回し、ゆっくりとターンを始めた。窓から差込始めた夕日が二人を照らし、ターンを繰り返すその姿をひとつに溶かしていった。
二階の廊下の欄干から身を乗り出すように、5人の姉がその階下の舞踏会の様子を見守っていた。少し離れたところから、召使い達も溜め息をつきながら美しい二人の踊りに見入っていた。その美しい幼馴染同士が踊る姿は、唯一無二のものであり、なにかしら不変的なもの、永遠のものというような感慨を見ているものに与えた。この踊りを見たら、これからの舞踏会でどんな典雅な貴公子が現れ、どんなに優雅にリードしたとしても、それは形だけの美しさ、実を伴わない振り付けをなぞるだけの踊りとしかなりえないという虚しさを予感させた。
オスカルはアンドレの右手に預けていた体重を戻し、アンドレの肩に置いている自分の左手の上に自分の顔を重ねた。「やはり、いつもの礼服で舞踏会に挑むか・・・」「そうはいくまい」「ふ、そうだな」オスカルの肩越しに白い背中が見える。この豪華な装いで何人かの貴族と踊り、何人かの男からプロポーズを受ける。その行事が終わるまで自分はオスカルを見守る。それが、自分の立場であり、自分の役割なのだと自分に再認識させる。そして、その中からオスカルが誰かを選んだとしたら・・・そうしたら、今までの自分の役割は終わる。それだけのことだ。
オスカルが顔を上げた。「終わったら、また私の部屋で飲もう」「ああ、最初から10本持っていくよ」「そうしてくれ!」アンドレの表情に微笑みが戻っているのにほっとした。舞踏会など早く終わって、アンドレと二人になりたかった。今は、無性にそう思えた。
―つづく−