La Vie en Rose
作 オンディーヌさま
三週間目に入り、やっとアンドレは帰ってきた。手術をしたという左眼は眼帯をしたままだった。これからも週に一回は診察と治療に行くという。また右眼の治療のために大量のステロイド剤というものを飲まなくてはならず、その副作用で普通の人よりも感染を受けやすくなるため、私の部屋へ入ることは禁止された。なので、毎日、11時と21時にお互いのバルコニー越しに話をすることにした。
「ロミオとジュリエットみたいだな」久しぶりに会ったアンドレが言った。
「こんな、とうのいったロミオとジュリエットがあるか!?」
「それもそうだ」私たちは再会の喜びとともに笑いあった。
「ところで、眼の調子はどうだ?アンドレ!」
「ああ、失明だけは免れた!今は左右の眼にそれぞれ4種類の目薬を一日4回さしているんだぞ。今のところ、著しく視力が回復したわけではないが、不安はなくなった」
「そうか・・・」
突拍子もなく、こちらの世界に連れてこられたわけだが、治療を開始して本当によかったと二人は顔を見合わせた。
「入院はどうだった?」
「どうだったって、退屈だったよ。なにもすることがないから、元の世界のことを思い出してばかりいた・・・衛兵隊に転属になった直後のこととか、舞踏会のこととか・・・あの舞踏会の夜、おまえ、本当は起きていたんじゃないのか?」
衛兵隊員たちとの溝がやっと、埋まりかけたある日、家へ帰ると父上とその来客が私の帰りを待っているという。その来客のものと思われる見慣れぬ豪華な馬車が、家の前に止められており私たちは顔を見合わせた。
玄関に入るやいなや、待ち構えていたばあやが、困惑の表情とともに私にしがみついてきた。「ああ、オスカルさま、オスカルさま・・・いまさら、いまさら嫌でございます。ここまでお育てしてきたオスカルさまがご結婚だなんて・・・」
「ばあや、ばあや、こんな年まで育ててもらったのは感謝しているが、結婚とは何のことだ?」崩れ落ちそうなばあやの体を抱き起こして尋ねてみたが、今度は泣きじゃくりだし会話にならない。代わりに侍女の一人が答えた。「オスカルさまに結婚を申し込みたいとおっしゃる方が旦那様をお訪ねになり、旦那様はそのお話をお進めになりたいそうです。今、応接室でオスカルさまのお帰りをお二人でお待ちになっていらっしゃいます」
「なにぃ!?」驚きの表情のオスカルと、落とした剣を拾おうともせずに絶望の表情を浮かべるアンドレは一瞬、顔を見合わせた。
(ついに来た!いつかは来ると思っていた、奈落の底に突き落とされる日がとうとうやってきてしまったのだ!)
アンドレはその場にとどまることができず、逃げるようにその場を後にした。オスカルは走り去るアンドレの後姿を見送りながら、自分の憤りの感情の上にアンドレの心の乱れが自分の胸の痛みとなって覆いかぶさるのを感じた。当の本人をよそに迎えたこの突然の事態を確かめるべく、オスカルはとにかく父の応接室に向かうことにした。「どこのどいつだ!?父上も何をお考えか分からんが、いったいどういう了見で私に求婚などしようというのだ!?」
「父上、失礼いたします」その礼儀正しい言葉とは対照的な、ほとんど蹴破ると言っていいほどの勢いで応接室のドアを開けた。そこには優雅な、たたずまいで父と対面して座る元副官の姿があった。
「これはこれは、元副官殿!いったいなんの冗談かな!?」
「お久しぶりでございます。隊長」ジェローデルはオスカルの入室とともに席を立ち、うやうやしくお辞儀をした。
「だから、どういう了見だ!?ジェローデル大尉!!」
「今は少佐でございます。この幸せを分かっていただけますでしょうか?憧れ続けたあなたの求婚者として、お父上に、この家への出入りを許されました」そう言い、ジェローデルはオスカルの片手を取った。
「昇進は結構なことだが、おまえが憧れていたのは武官としての私ではなかったのか?」
「武官としてのあなたに対しては尊敬の念を、そして初めてお会いしたときから女性としてのあなたに憧れの感情を持ち続けてまいりました」ジェローデルは取った手に口付けをした。
「女性として?・・・手を離せ!そして帰って頭を冷やせ!ジェローデル!」
「人の心に命令はできません。オスカルさま」
「私の手だ!!離せ、馬鹿者!」オスカルはジェローデルに握られていた手を引き抜いた。
「父上、いまさら、どうして私がジェローデルと結婚などしなくてはならないのですか?お考えが分かりません!」
「ジェルジェ家には跡取りが必要だ。幸い、ジェローデルは長男ではないそうだ。ジェローデルを婿に迎え、強く賢い男の子を生んで私を安心させてほしい」
(なっ、何をいまさら・・・強く賢い男の子を生め!??)
「父上、男として育てられここまで生きてきまいりました。それをいまさら、ジェローデルを引っ張り出して、男の子を生めとはあまりにも身勝手なおっしゃりようかと存じます!」
「ふむ、確かにそうだ。では、フランス全土に招待状をまき、盛大な舞踏会を開こう。ジェローデルに限らず、おまえに結婚を申し込みたいという若者をみんな集め、おまえの意に添う相手を選べ!それなら文句はなかろう」
「はっ、話にならん!失礼っ!」退室しようとするオスカルの手を再び、ジェローデルが取る。
「オスカルさま、どのようなことがあろうと、私のあなたへの思慕の念が変わることはございません。初めてお会いしてから、ずっと・・・ずっと長い間、憧れ続けてまいりました。けっして他の算段があってのことではございません」
(こいつ・・・こんなに至近距離で目を合わすのは初めてだが、こんな澄んだ目をしていたか?)
「とにかく、ジェローデル!家へ帰って頭を冷やせ!」そう、言い放つとオスカルはジェローデルの手を振り払い、出て行ってしまった。
「アンドレ!・・・」
(だめだ、今アンドレを呼んでみてもなんの解決にもならん!母上・・・母上なら、今回のいきさつをご存知かも知れん)
オスカルはそのままジャルジェ夫人の部屋を訪ねた。
「母上、母上、どういうことでございます?いままで、ずっと男として育てられそのように生きてまいりました。それをいまさら、女に戻り子を生めとは・・・あまりにも、あまりにも・・・」オスカルは声をつまらせた。
「オスカル・・・」ジャルジェ夫人は両手を広げ、我が娘をその手の中へ呼び寄せた。
「あなたをこのように育てたのは私たちの罪、いいえ、男の子が産めなかった私の罪です。そして、今あなたに結婚を勧めるのは・・・嵐の来る前に愛しい我が子を安全な巣の中へ逃したいから。あちこちでしきりに起きている暴動や反乱、このままあなたを軍隊においていたら、いつかきっと、その嵐の中へ飛び込んでいくに違いない。その前になんとか、あなたが本来持つべき平和な家庭の中へ戻してやりたい。それが私たちの本当の気持ちです。あなたは、身勝手と責めるかもしれませんが・・・」
オスカルは母の膝に顔を埋めたまま、その言葉を聞いていた。母は娘の顔を上げさせ、戸惑いの表情を見せる我が子に優しい眼差しを向けた。「一度、あなたも真剣に考えてみてはくれませんか?」
「母上、ご自分の罪などとおっしゃらないでください。私はこういう育て方をされたことに対して、一度も不満を抱いたことなどございません」
悲しげな表情を浮かべる娘の顔を見つめ、やはり我が子になんと思われようと、その幸せを、今からでも与えなおしたいという考えを変える気にはなれなかった。
「では、その母のためにあなたももう一度、自分の人生というものを考えてみてはくれませんか?」
母の顔は真剣だった。
「父上は求婚者を募るため、舞踏会を開くとおおせです・・・」
「そうですか?それもいいかもしれません」
娘の戸惑いを見て取っても、それを受け入れる様子など微塵も感じさせないほど母の口調は揺るぎ無いものだった。
「・・・分かりました。母上のために父上の命に従います。ただ、結果が父上、母上のご意向に添うものにならなかった場合はどうか、お諦めください」そう言うとオスカルは母の部屋を後にした。
(知らなかった。知らなかった・・・そんなことを父上、母上がお考えとは・・・そんなお気持ちを知らず、私はジェローデルの前で父上をなじるようなことを言ってしまった)
「アンドレにワインを持ってくるよう伝えてくれないか」
通りかかった召使いにオスカルが声をかけた。
しばらくして、ワインを何本か手にしたアンドレがオスカルの部屋に現れた。
「舞踏会を開くそうだ。聞いたか?」
「ああ、もうみんなその話で持ちきりだ」
「この家は噂が広がるのが早いな」オスカルはふたつのグラスにワイン注ぎながら言った。
「今日は一人で飲め、オスカル」
「一杯だけ付き合え」
一杯ですむとは思えなかったが、抗いがたいその誘いにアンドレはオスカルの隣に腰を下ろした。
「また、おまえのドレス姿が見られると大騒ぎだ」
「おまえも見たいか?」なぜか寂しげな笑みを浮かべてオスカルが聞いた。
その問いには答えず、アンドレが聞き返した。
「なぜ、ドレスなど着る気になった?」
「なぜだろうな・・・衛兵隊でも散々、女、女と言われてきたから、今回くらいは自分から女であることを認めてやろうと思っただけかもしれん」
アンドレはすぐに空になってしまうグラスにワインを注いでいった。
「どういう風の吹き回しか知らんが、普段は軍服姿で男どもに号令を飛ばしているおまえが、ドレスを着るとなれば大勢の男どもが集まってくる」
「ああ、物見うさんの客ばかりだろうな・・・」
「いや、おまえに恋焦がれている男もたくさんいるさ・・・」
「もてるのだな、私は!」
笑みを交わしながらも、酒の勢いのとまらない二人だった。
「ああ、ただそれを告白する勇気のある者は少なかったというだけだ」
「では、おまえとジェローデルは勇者というわけだ!」
「そういうことだ」
オスカルは隣に座るアンドレの顔を見た。
(どうして、こんな重苦しい気持ちになるのだろう?結婚話など断れば済む話だ・・・アンドレの気持ちが私に共鳴しているというのか?・・・違う、それだけではない。私の中のなにか霧に覆われた部分、つきとめようとしも、なかなかはっきりとした形を現さない何かに私は苛立ち、自分で重苦しい気持ちにさせているのだ・・・きっと・・)
「では、勇者殿、ともに杯をあけよう」
今度はオスカルが酒を注いだ。
いつしか二人は無言のまま杯を重ねていった。
オスカルは心の中を占める『なにか』について考えあぐねていた。
「なぜそこに無ではなく、何かが存在するのだろうな?」やっとオスカルが口を開いた。
「なんだ?いきなりライプニッツか?・・・それはエネルギーの話だろう」
(そうだ。私の心の中にある無形のなにか・・・今はその正体さえ分からないなにかは確かに、莫大なエネルギーをはらんでいる。そのことだけは分かる・・・)
「今日はいくら飲んでも酔えそうもないな・・・」
そう言って、オスカルは席を立ち窓辺に身を寄せた。
「なら、もう寝ることだ、オスカル・・・」
「そうだな・・・」オスカルは大きく溜め息をついた。
アンドレはテーブルを片付け始めた。オスカルはその姿を窓辺に寄りかかりながら見つめていた。見慣れたその姿が、フェルゼンへ想いを寄せていた頃の自分の気持ちを呼び起こさせる。ただ、あの頃に抱いていた切なく、重苦しい気持ちとはまた違う。なにかもっと膨らみをもった苦しさと、まだ自分が足を踏み入れたことがないところへ向かう時に感じる心許なさと、それとなにか大事なものを見落としているときに感じる焦燥がない交ぜになったような感覚だと思い至ったところで、オスカルの思考は停止した。
片付け終わり、盆を手に部屋を出て行こうとしたアンドレにオスカルが声をかけた。
「明日から、忙しくなるな・・・世話をかける」
意外な言葉にアンドレは立ち止まり、顔だけ振り返って微笑んだ。
「ああ、まかせとけ」
その笑顔が心もとなげに佇むオスカルをほんの少し安堵へと導いた。
―つづく−