La Vie en Rose

10 回想 〜アラン・ド・ソワソン〜

作 オンディーヌさま

アンドレは2週間も帰ってこなかった。左眼はかろうじて眼球摘出を免れたとのことだった。瞼の上の傷跡は眼科医がきれいに手術で取り去ってくれるので、男ぶりがよけいに上がるとオードリーが話してくれた。三人が交代で見舞いに行ってくれ、毎日、報告してくれるのでアンドレと切り離されているという寂しさはなかった。しかし、2週間もお互いの姿を見ずに過ごすというのはこの26年の中で初めてのことだった。アンドレはどういう思いで、私と離れての入院生活を送っているのだろう・・・何人かの相部屋だと聞いた。おまえのことだ、控え目で人の気持ちがよく分かる人柄ですぐに異国の人とも馴染めているのだろうな・・・

 三人は毎日、私を訪ねてくれて主に食事の世話をしてくれた。だが、三人ともマスクをしたままで、長くは滞在しなかった。オンディーヌは部屋のごみをすべて集めて、ビニール袋とやらに詰めて封をし、持ち帰ってくれた。感染源になるからと、どこかで焼却処分にしてくれているという。

 ここでの生活で、私はすべての情報からシャットアウトされていた。新聞もだが、おそらくこの時代ではもっと進んだ情報伝達技術があるだろうに、私の目にも耳にも触れないよう配慮されていた。理由をサ・ワラビー夫人に聞くと「元の世界にお持ち帰りいただくのは、治療結果と音楽だけにしていただきたいと思います」とのことだった。ヴォルテール以降も有名な思想家が出ただろうと聞くと「それはそうですが、それもこれから起こるフランスでの変革以降のこと。本来なら。知る由もないことをわざわざ知る必要もないでしょう」と言う。私を混乱させないためなのか・・・とにかく、オードリーとの連弾の楽しみも断たれ、安静だけが自分の仕事となっている今、私の思考はどうしても回想へと向かってしまう。

 

 そう、あれは衛兵隊へ転属になってしばらくのこと、ことごとく自分に反発する兵士達の夜勤の勤務状態を視察に行った夜だった・・・

 

 

 「アンドレ、フェルゼンに追いついて西の門から出るよう伝えてくれ」そうアンドレに言伝を託した直後、オスカルは後ろから何者かに口をふさがれ、抗いがたい力でどこかへ連れていかれようとしていた。その何者かが自分の部下達であることはすぐに分かった。自分を捉えている者の制服が衛兵隊のものであること、聞き覚えのある部下の声が背後ですること。ピエールもフランソワ・アルマンも、そしてもちろん、アランもいた。彼らはオスカルの口をふさいだまま、中庭から兵舎の薄暗い食堂まで、ほとんど引きずるようにして連れ去った。食堂に着くと、今度は椅子に座らせ後ろ手にロープで縛った。

 いつもの嫌がらせだろうが、今夜はやけに趣向が凝っている。「ご苦労なことだな。たいした夜勤だぞ。どうするつもりだ?」

 「へへっ、なあに・・命をいただこうなんてぶっそうなことは考えてはいないさ。ただちょっと、おまえさんに自分が女だってことを体で思い知らせてやって、早々に衛兵隊をご退散願おうって寸法でさ」アランの言葉に、後ろで兵士達の薄ら笑いが見える。この兵士達との溝を埋めることは並大抵のことではないことを、あらためて思い知らされる。

 「年下の男なぞ私の趣味ではない!」

 「おい!聞いたか!?たいした余裕だぜ!!年下だの年上だの言っている場合かねー!」アランは振り返り、兵士達を煽る。兵士達の興味は軍服の下の自分の女性としての身体に集中しており、またこの状況の中でその身体の持ち主にふさわしい言動が出ることを期待しているのだ。沸き立つ笑い声の中、アランはそのぎらぎらした顔をオスカルに近づける。

 「ジャルジェ准将!こんなところで、軍服なんぞ着せておくには実にもったいない・・・ドレスを着せて化粧させたらさぞや美しい貴婦人になると思うんだが・・」

 

 オスカルは今まで、何度もパリの街中で目にしてきた風刺画を思い出す。あるときはその女性は王妃であり、またあるときは一般の貴婦人として描かれた露骨な卑猥画。その作者にはよほどの貴族への憎しみと悪意があるのだろう。そうでなければ、これほど下劣なものは描けないだろうと想像してきたその感情が、今、この自分の部下から感じ取られる。「軍服を着た女を縄で縛る。たいした趣味だな!アラン・ド・ソワソン!!」

 

 挑発的な言葉が短気な男をカッとさせる。「なんだとーっ!ただの脅しでこんなことやっていると思ってやがるのかっ!?」見開いた眼で自分の隊長を見据えたまま、その右手が軍服の襟にかかる。その怒りの感情のまま、襟にかけた手を下方に振り下ろす。オスカルの軍服のボタンのいくつかが飛び散り、中に着ていた服の襟元が裂け、白い胸元が兵士達の前に晒される。いままで、アランに煽られ浮かれ顔だった兵士達の顔色が一変する。女だ、女だと嘲笑していた上官が、実は本当に女性であるという事実を目の前に突き付けられ、またその女性の上官に対して、自分達が到底許されないだろう侮辱と反逆の罪を犯してしまったという認識が明確になってくる。青ざめる兵士達をよそに、当のアランはいまだ自分の怒りの感情を鎮めることができなかった。悲鳴のひとつも上げるかと思っていた女隊長が、表情ひとつ変えることなく、それどころかうっすら笑みさえ浮かべている。「さてさて、どうするかね?アラン・ド・ソワソン!」「なにぃ!」さらに逆上するアランに兵士のひとりが声を出した。「やめろ!アラン!・・・取り返しのつかないことになる」「おまえら、今さらなんだ!?」

 

 その声にかぶさるように、ドアを蹴破る音、アンドレの怒鳴り声、床に放たれた銃声、すべてが同時に起こったかのように聞こえた。

 あっ気にとられる兵士達のもとへ、ダグー大佐と数人の兵士が駆けつける。食堂に足を踏み入れるやいなやその異常な光景にすべてを察知する。「おまえ達、どういうことだ!!?」

 「ああ、ダグー大佐、すまないが先にロープを解いてくれないか」オスカルが微笑みを向ける。慌てて、両手を縛るロープを解くが、結び目は固く、容易ならざる事態であることを再認識する。両手が自由になると軍服の残っているボタンを留め、胸元を直した。そして手首に残るロープの痕を隠すように軍服の袖を伸ばした。

 「ダグー大佐、兵士達のたるんだ夜の勤務ぶりを見て、捕虜になったときを想定しての訓練を思いついたのだ。驚かせてすまなかった」

 「なんだとー!処分するならしやがれ!!」

 「いいか、アラン・ド・ソワソン!捕虜となり、どんな苦痛を強いられようと、けっして自分の軍の不利になることは口走るな!分かったか!夜勤帯の怠慢は今回のみ大目にみて処分はせん!いいか!人員配置の手薄な夜勤帯は不祥事が起こりやすい!すぐに持ち場に戻れ!」

 

 他の兵士に促されるように、アランは出て行った。「心配かけてすまなかった、ダグー大佐。すべて私の至らないせいだ」「しかし、処分すべきことはきちんと処分いたしませんと今後に関わります」「いや、本当になにもなかったのだ。戻ってくれたまえ」そう言うと、オスカルはその場を足早に去った。

 

 廊下に出て、人の声が遠のけば遠のくほど、今まで抑えていた感情と涙が堰を切ったように溢れ出した。完全に人気のなくなった場所で足を止め、出窓に両手をつくと、そのとめどなく流れ落ちる涙と感情の乱れが、やがて止み、落ち着きを取り戻すのを、肩を震わせながら待った。

 自分に与えられた本来の性が、こんなにも易々と侮辱と暴力に曝されるのだということを思い知らされた。親の庇護のもと、普通に女として育ち、結婚でもしていれば、こんな思いをすることもなかったのだろう。恋した人の前でさえ女性でいることを許されず、普段は自分の性を意識する暇さえないのに、こんな形でそれを再認識させられるとは・・・

 

 その姿に声をかけることもできず、肩に触れることもできず、ただ胸の痛みを共有しながらアンドレは立ち尽くしていた。

 

 

 

 

 

 

 アランは持ち場に戻っても自分の感情のコントロールを失っていた。最初から貴族社会に属する女が自分の上官となり、命令を下すということ自体に、払拭しきれない生理的な嫌悪感を抱いていた。だから、あれだけのことをすれば必ず、逃げ出すと高をくくっていた。だが、違った。あの女は「捕虜になったときの訓練」と口から出まかせを言っていたが、仮に本当の戦地で捕虜になったとしても、けして口は割らないだろう。それどころか、自分の命を絶つ術さえ心得ているのだ、きっと。生活のために軍に籍をおいている自分達とは違う、生粋の軍人なのだ。

 なんとか、怒りの感情がおさまると、今度は鉛の塊のような物が自分の胸を塞ぎ、息苦しくさせた。なぜあの女は自分をかっとさせるようなことを言った?自分の形勢を不利にさせる様なことを。いや、あの女は自分が不利にはならないことを知っていたのだ。兵士達の心の動きも、やがて自分の従僕が駆けつけるだろうことも。俺に敗北を認めさせるために煽ったのか?それなら完全な敗北だ。剣で負けた時よりも確実な敗北感を感じる・・・

 それより、俺は何をした?あの女が本来、持っている弱い部分につけこんで脅してやろうと思った。自分の妹が恐ろしい思いをしたのと同じ思いをさせてやろうとした。なんということを・・・

 アランは石段に座り込み、頭をかかえ込んだ。胸を覆うのは、もはや敗北感ではなく、自責の念と惨めさだけだった。流れ落ちる涙は、心の中の鉛の塊の表面をつたい落ちるだけで、けっしてその鉛の塊を溶かしてはくれなかった。

 

 次の日、隊長は従僕とともに何事もなかったように帰っていった。軍服も新しいものと着替えられていた。その様子をアランは遠目に見守っていた。自分のした行為が隊長の表情に暗い影を落としていなかったことに多少の安堵は覚えたものの、その日以来、アランはオスカルとけっして目を合わそうとはしなかった。

 

 

 

 

 屋敷に着くとオスカルは湯浴みの用意をさせた。浴槽に身を沈めても、できるだけ昨夜の出来事は思い浮かべないようにし、さっき馬車に乗り込み、アンドレの肩にもたれかかったときに得られた安堵感を噛み締めた。殺伐とした兵舎から、自分の慣れ親しんだ空間への隔絶は一気にオスカルに脱力感を与えた。浴槽に長い手足を伸ばし、それを眺めた。確かに、軍服の下には似つかわしくない身体だな・・・それでも、自分で望んだ転属先だ。また、あそこへ帰っていかなくてはならん・・・

 

「シモーヌ!」オスカルは着替えのために侍女を呼んだ。着替えを手伝ってもらいながら、聞いてみた。「私の身体をどう思う?」「はい?・・・どう思うって、それはいつもこうしてお世話をさせていただく度に、非の打ち所がないお美しいお体だとうっとりさせていただいております」オスカルは笑った。「女が女の身体を見てうっとりするものか?」シモーヌは頬を少し赤らめた。「それは女性だろうと美しいものには憧れは抱きます」「では、この身体に女らしさを封じ込めるようにしてコルセットで身を整え、軍服を着て号令をとばしている私はどうなのだ?」「それが、オスカルさまですもの!お仕事をなさっているお姿は拝見したことがありませんが、その凛々しいお姿が眼に浮かびます。こんな素敵な方にお仕えしているのは、本当に誇らしくてしょうがありません」自分の気持ちとはよそに、興奮気味に話してくれる侍女にオスカルは微笑んだ。

しばらくして、シモーヌはなにかに気づいたようにこう言った。「オスカルさま、オスカルさまもきっといつか女性に生まれてよかったと思われるときがきます」「それはどんなときだ?」「それはもちろん、オスカルさまが選んだ素敵な男性と添われるときですよ」「あくまで、私が選ぶんだな?」オスカルはまた笑った。「そりゃあ、旦那様がお選びになったお相手とやすやすご結婚などされませんでしょう?オスカルさまは」

いまさら、結婚もなにもないのだが、この侍女との間に作り出される温かな空間にオスカルは心から感謝した。心が柔らかく癒されていくのが分かる。

 

ほんとうにいつか、自分の本来の性を喜びと誇らしさをもって、受け入れる、そんなときがくるのだろうか・・・さきほどの曲線美を包み隠してしまった、いつもの部屋着姿を映す鏡に向かい、オスカルは問いかけた・・・

 

 

 

 

―つづく










            


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