※このお話は「舞踏会の奇跡の続きです。
1788年秋 ハンス・アクセル・フォン・フェルゼンに帰国命令が出た。
長くフランスの軍隊に身を置いていたが、母国がロシアと開戦したことで事情は変わったのだ。
彼は急ぎスウェーデン人部隊を率いてベルサイユを出立することになった。
母国の戦争と同じくらい、いやそれ以上にフランスの政情不安を案じていた彼は、すぐに王宮に参内しルイ16世と王妃に拝謁を願い出て、別れを告げた。
王妃が国王に深く遠慮しつつ、そっと涙ぐんでいる姿がフェルゼンの胸を貫き、できる限り速く戦功を上げ、再びフランスへ戻ることを心に誓った。
それから、すぐに出発すればよかったのだ。
だが、彼は、つい友情にほだされた。
というか好奇心に打ち勝てなかった。
ベルサイユを出るという日、あろうことか彼は宮殿の広場にスウェーデン部隊を待機させて、衛兵隊に出向いた。
親友のオスカル・フランソワ・ド・ジャルジェとその従僕アンドレ・グランディエにも一言別れの挨拶を、と思ったからである。
よせばいいのに…。
3時間後の彼が、もし自分に助言できるなら、きっとそう言ったに違いない。
だが、ある意味、彼のこれまでの人生は、この「よせばいいのに…」の連続だったといえる。
スウェーデン屈指の名門出身、しかもその跡取りだ。
他国への留学は、箔がつく程度に留めておけば良かったのだ。
だが、フランスがいたく気に入ってしまってついつい長居した。
よせばいいのに…。
その挙げ句王妃と恋に落ちた。
騎士道精神を捧げるだけにしておけばいいものを、王妃も好意を持ってくれているとなって深みにはまりこんだ。
ドロドロの三角関係である。
よせばいいのに…。
結果、宮廷どころかフランス中に不倫の噂が立つようになり、アメリカ独立戦争に逃げだす羽目になった。
宮廷の白い目より戦場のほうがマシというあたり、なかなかユニークな価値判断ではある。
冷静に考えれば、単純に帰国すればよかったわけで、どこかいつも彼の判断基準はずれている。
今回もまさしくその例に漏れない判断だった。
だいたいこの二人と関わったらろくな事がないと知り尽くしているはずなのだ。
なにせ、フェルゼンとアンドレは、ふとしたはずみで中身がいれかわってしまうのだから。
そして、突然アンドレになった彼は、全く無能な人物としてオスカルに認識されてしまっている。
毎回ひどいめに遭った中でも、最後のオスカルの結婚相手公募舞踏会は、最悪だった。
男装のオスカル相手に、女性パートを踊るという前代未聞の姿をさらし、オスカルの狙い通り舞踏会はしっちゃかめっちゃかに終わったが、フェルゼンの評判も救いがたいほど落ちたのである。
無論、このとき女性パートをうれしげに踊ったのはフェルゼンではなくアンドレである。
だが、誰も信じてはくれない。
まして王妃は、尾ひれはひれのついた噂によって、しばらく面会のお許しすら出ないほどのお怒りであった。
彼は王妃に謝罪の手紙を十指に余るほど書き連ね、いよいよ最後はオスカル本人から、あれはオスカルの依頼でしたことだと証言してもらって、ようやく誤解を解いた。
二人に近づけばそういう目に遭う。
だから二度と近づかない。
そう決心していたのに。
だが、このたびは戦場に行くのだ。
命長らえて戻ると断言できない以上、今生の別れをしておきたい。
それは人情だ。
フェルゼンはそれなりにしんみりした感情でもって、親友を訪問する理由を自分に説明した。
まったく勝手な話だ。
彼の訪問が、少なからず、いや、相当に、嫌がられていると、そろそろ気づいても良い頃だ。
ところが、生まれも育ちも、見た目も中身も、人並み以上に恵まれている彼は、自分が人から嫌われるということが想像できないのだ。
人妻である王妃ですら愛してくれたのだし、あの男装の麗人オスカル・フランソワだって…。
そう、ハンス・アクセル・フォン・フェルゼンがオスカルやアンドレから敬遠されるなど、断じて想像できなかった。
衛兵隊の建物の前に馬車が回されてきていた。
そのしつらえが相当豪華なので、乗るものの位が高いことがおのずと察せられる。
馬車の横に立っていたのはアンドレだった。
ということは、どうやらオスカルが出かけるらしい。
ちょうど良かった。
もう少し来るのが遅ければ会えないところだった。
それにしても、とフェルゼンは馬車を観察した。
もしこの馬車でベルサイユの中を移動するだけならそれほど問題ではないが、パリに出るなら危険である。
パリの治安は悪化の一途をたどっている。
フェルゼンは軍人らしく冷静な判断をし、そのことを問うためにアンドレに近づいた。
誓って善意からである。
だが、やはりここでもそうなのだ。
よせばいいのに…。
片眼を失って視界の狭いアンドレは、ごく間近に来るまでフェルゼンに気づかなかった。
ポンと背中をたたかれ、振り返り、驚愕した。
もはや声も出なかった。
疫病神…。
その言葉だけが、頭の中をぐるぐる回っていた。
どうして来るんだ。
あんなに近づかないと誓ったのに。
フェルゼン自身、もう懲りたはずだったのに。
また入れ替わるのか?
こんな時に…。
いやだ。
離れなければ…!
脱兎の如く駆け出そうとした瞬間。
まさにその瞬間に、馬が暴れた。
綱の結び方が悪かったのだ。
驚いたフェルゼンがよろめき、アンドレに倒れかかった。
既定路線のように、頭と頭がぶつかった。
万事休す!
さすがにフェルゼンも絶望的にそう感じた。
アンドレと入れ替わっている場合ではないのだ。
これから帰国してロシアと闘わなければならないのだ。
ああ、どうして暇乞いなどしようと思ったのか。
よせばよかった…
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