人間万事塞翁が馬

 

 
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このお話しは「パリ巡回」あたりのものです




                                 

                                              

 フランス衛兵隊は王宮守護が任務である。
パリ市内に留守部隊はあるが、主軸は当然宮殿のあるベルサイユだ。
オスカルはその衛兵隊のベルサイユ駐屯部の隊長職に就いているので、基本的にはパリに行く必要は無い。
だが、三部会開会が決定されてからは人の出入りが激しく、あちこちで治安を脅かす事件が起きているため、ベルサイユ部隊からも応援を出すことが増えた。
ベルサイユ宮殿警護の任務がなくなるわけではないから、必然的に休暇は減少、勤務時間は延長となり、隊員の疲労が蓄積する。
そうすると事が起きても万全の対応が困難となる。
これで本当に三部会が開会された暁には、どれほどの混乱が襲ってくるのだろうか。
貴族への課税にも、第三身分の意見を取り入れることにも心から賛成しているオスカルは、会議の開会そのものには熱烈に支持を表明しつつ、現実問題としては治安維持の観点から諸手を挙げて賛成と言うのが難しい立場にあった。

「絶対的に人手が足りない。どこかから調達できんのか」
パリ市内を巡回するオスカルは苛立ちを隠せない。
もともと12名で一班を構成していて、巡回任務も班ごとに動くべき所、人員不足のため、
二組にわけて、数を水増ししている。
手薄にはなるが、これだと数が倍増するので、やりくりすれば休暇もとれる。
オスカルは自分もアンドレと2人で1つの組とし、ローテーションに組み込んでいた。
「志願者は結構あるらしいが、誰でもというわけにもいかんだろう」
アンドレが首を左右にふりながら微笑む。
「この際、贅沢は言っておれん。志のあるものは誰でも受け入れれば良いではないか」
「食い扶持欲しさの子供が大半だぞ。銃ひとつ担げやしない」
「健康な若い者は来んのか?」
「まあ俸給を上げれば来るだろうが、財政難だからな…」
お手上げとばかりにアンドレは両手を空に向けた。

その手のひらにポツリと雫が落ちた。
「雨か…?」
天を仰ぐ。
雲一つない晴天だ。
立ち止まったアンドレに気づかず、オスカルは肩をいからせたままスタスタと歩いていく。
「オスカル、ちょっと待ってくれ」
声がかかってから二歩進んでピタリと止まると、黄金の髪を翻しながら振り返った。
「なんだ?」
「上から水滴が落ちてきた」
「雨か?」
「この天気にそれはない」
オスカルはアンドレの隣に立ち、顔を上げて周囲を見渡した。
住居と店舗が入り交じった下町だ。
パリ特有の上階ほど道路に張り出した作りの建物が隙間なく並んでいる。
「誰かが窓から水でも捨てたのだろう」
「一滴だけ?捨てるならもう少し量があってもいい気がするんだが」
「えらくこだわるな?」
「いや、そういうわけでは…」
「目の前でけんかが始まったのならともかく、雫が落ちたぐらいで時間をとられてはかなわん」
ショセ・ダンタン通りにある留守部隊までは、まだしばらくかかる。
交替の時間は厳格に決められている、というかオスカルが決めているのだから違反はできない。
もし遅刻するなら相応の理由、たとえば事件が起きたとか、事故があったとか、そういうものへの対応のためだった、というものでなければならない。
自分が決めた規律であるから、オスカル自ら背くことはできなかった。
アンドレはそれでも時々振り返りながらオスカルの後に続いた。

そして次の角を曲がるという段になって、アンドレは突然向きを変え、「オスカル、悪いが先に行っててくれ」と叫ぶと、元来た道を駆け足で戻り始めた。
四つ辻でひとり残されたオスカルは、一瞬進むべきか戻るべきか躊躇し、それからアンドレの後を追った。
アンドレは、さっき立ち止まった建物の前で2階の窓を見上げていた。
「アンドレ、何がそんなに気になるんだ?」
問い詰めるオスカルにアンドレは黙って右の手のひらを指しだした。
いぶかしげにその手を見たオスカルの顔色が変わった。
「アンドレ!ただれているじゃないか?!」
真っ赤な火傷のようにアンドレの手の皮が破れていた。
「劇薬か?」
「おそらく…」
「すぐに手当に戻ろう」
「うむ、だが、どの窓かだったかだけは確認しておきたい」
「馬鹿者!そんなことはあとだ」
オスカルはアンドレの腕をつかんだ。
「オスカル、誰かがこの劇薬を窓から捨てたのだ。もしも何かに使った残りを捨てたのだとしたら…」
オスカルはアンドレの言わんとすることがようやくわかった。
一滴、皮膚に触れただけでこの症状だ。
万一、多量を人にかけたり、あるいは服用させたとすると、間違いなく被害者の命はないだろう。
「よし、徹底的に調べる」
オスカルはアンドレの腕をつかんだまま、決然と言った。
「だが、それは本部に戻っておまえの手当をし、しかるべき人員を引き連れてのちのことだ」