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このお話しは「パリ巡回」あたりのものです
給料日前に加えて、明日も仕事となれば、夜の過ごし方は食堂での雑談ぐらいしかない。
明日の任務に備えて定刻に就寝、などと新入りみたいなことをアランたちがするはずもなく、誰かがこっそり隠し持っていた酒瓶を囲んで一班は賑やかに盛り上がっていた。
その嬌声が廊下まで聞こえていて、予想通りだなと含み笑いをしつつ、アンドレは食堂の扉を開けた。
一斉に視線が集まる。
「珍しいね!アンドレも仲間に入る?」
フランソワが手近な椅子を引き寄せてくれる。
アンドレを隊長の手先として忌み嫌い、こんな場に顔を出せば、告げ口されるとばかりに慌てて卓上のものを片付け始めていた頃が嘘のようだ。
フランソワに軽く礼を言ってから、本題を告げた。
「隊長がアランに用があるそうだ」
「こんな時間にか?」
アランが訝しそうに一瞥する。
「急用らしい。悪いが一緒に来てくれ」
「なんだよ、まったく…!」
渋々腰を上げたアランを連れて司令官室に向かった。
「今日は泊まりじゃねーんだろ?なんで帰ってないんだよ?ていうか、おまえ夕方馬車の用意してたよな。あれで一旦帰ったんじゃねーのか?」
無関心を装っている割には、オスカルの動きを完全に理解している。
そのことに気づいてすらいないようだが。
この屈強な男のケツの青さを、アンドレは心から微笑ましく思う。
「だから急用ができたんだよ」
「勤務時間外だぞ。仕事言いつけるなら手当出してもらうぜ」
憎まれ口の天才だ。
アンドレはある意味感心した。
素直になれないデカい男に情けは無用か。
だが、司令官室が近づいた時、一応心の準備をさせてやろうと、来客がいることを教えてやった。
「客?誰だよ?」
「名前は知らん」
「そんな奴に、なんで会わなきゃいけないんだよ」
「会えばわかる」
そう言いながら司令官室の扉をノックした。
「入れ」
オスカルの返事を待って、扉を開けた。
「アラン・ド・ソワソンを連れてきました」
丁寧に報告する。
この名前に怯える奴がそこにいるとわかっているからだ。
そいつは、オスカルの隣でブルブルと震えながら立っているはずだ。
「アラン、呼び出してすまなかった」
低姿勢のオスカルの第一声に、「いえ、かまいません」とアランは即答した。
そう答えたのなら、時間外手当の請求はなさそうだとアンドレは判断した。
なら、はじめから言わなければいい。
だが、アンドレに対してはどうしてもななめに構えてしまうようだ。
いったいいくつだ。
あまりにガキだ。
アンドレが内心ブツブツ言っていると、オスカルが部屋の隅に立つ男を手で指し示した。
「おまえに会いたい、会ってぜひとも謝罪したいという御仁がいてな…、お連れしたというわけだ」
一瞬キョトンとしたアランの目が、男を認めるや、瞬時に険しいものに変貌した。
「おまえ…」
そう言ったきり絶句した。
アランの全身を火のような熱いものが駆け巡った。
同時に、脳内を様々な光景がよぎる。
恥じらった花のようなディアンヌと、自分の全てに自身を持っているかのような若い貴族の男。
「ディアンヌの兄上ですか?」
「きっと彼女を幸せにします」
歯の浮くような台詞。
そして差し出された白い苦労知らずの手。
こんな男がいいのか、と思いつつ、ディアンヌが良しとするならそれでいいと納得した。
弱小とはいえ、貴族に成り立ての自分たちとは違う代々の家柄だ。
母も手放しで喜んでいた。
良縁のはずだった。
それが一瞬で打ち砕かれた。
「今さら、何の用だ?」
地獄の底から聞こえてくるような低い声。
アンドレですら息をのむほどの形相だ。
「こちらはな、おまえに殺されると思い込んで、新婚の奥方を一歩も外に出せないそうだ。だが、そんな馬鹿げた話はないからな。勝手に怯えて世捨て人になるくらいなら、潔く対面して、思うことを伝えたらどうかと助言したのだ」
オスカルの紹介は明快だ。
アランは、頭が良い。
オスカルは常々そう評価している。
だから、くだくだと説明する必要は無い。
あの二階の窓辺の女…
こいつの女房だったのか…
アランが男の正面に向きを変えた。
その後方に、そっとアンドレが立つ。
もしも、アランが激情に走ったらすぐに止められるように。
同時に男は一歩退いた。
そして心なしか、オスカルに近づいている。
無意識に身を守っているのだ。
こんな男…
我が身だけがかわいい男…
そうだ、こんな男にディアンヌを嫁がせなくて正解だった。
アランは心底思った。
「あ…あの…も、申し訳…ありませんでした!」
唇がワナワナと震えているため、聞き取りにくい。
「何を謝っているのか全然わからんぞ」
オスカルの叱責が飛ぶ。
「こ、婚約…破棄、破棄した…ことです」
うつむいたまま、両手を握りしめている。
「なぜ、ちゃんと使者を立てなかったんだ?婚約の時に間に入ってくれた人がいたんだろう?」
「す、すみません」
「もしかして、そっちにも無断で破棄したのか?」
アンドレが声を荒げた。
「すみません」
深々と男が頭を下げた。
どうしようもなく意気地のない奴だ。
こういう男に限って、平時はとても女に優しいのだろう。
そしていざというとき、いの一番に逃げ出すのだ。
アランが大きく息を吸う音が聞こえた。
もしも一発殴るなら、止めないぞ。
アンドレはその意思表示のため両手を背中に回して組んだ。
武官は感情で行動するものじゃないが、武官だって人間だ。
冷静でいられない時もある。
そして今がまさにその時だ。
アランは射るような眼差しで男をにらみつけた。
けれど一歩も動かなかった。
ただポツリと言った。
「よかったよ」
「え…?」
間の抜けた男の反応に、アランは再び言った。
「よかったって言ってんだよ」
「な、なに…が?」
「おまえなんぞと結婚させなくて、ってことだ」
アランの凄みがにじみでていた。
「おまえなんかにディアンヌを幸せにできるわけなかったんだからよ。式上げる前にやめて正解だ」
「あ…あの…」
「礼を言わなきゃなんねえほどだぜ。よくぞ断ってくれましたってな!」
そうだ。
断られて、死にたいほど苦しんで、だけどディアンヌはそこから前に歩き始めている。
もしもあのままこいつと結婚していたら、こんな奴だ。
いつどんなことでディアンヌを捨てるかわからない。
そんなことになるよりは、ずっとよかった。
見ていればわかる。
今、ディアンヌは胸を張って生きている。
ディアンヌはこいつと結婚しなくてよかったのだ。
こいつが他の女と結婚してくれてよかったのだ。
「さすがだ、アラン!」
突然オスカルが割って入った。
「わたしもそう思うぞ」
アランが驚いて隊長の顔を見ると、神々しいほどの笑顔である。
「ディアンヌは、こんな奴にはもったいない娘だ」
まぶしさに目を細めてしまいたいくらいキラキラと輝いている。
「まったく同感だ」
アンドレも力強く口添えする。
ディアンヌが命を捨てる価値など全くない。
ラソンヌ邸にいるほうがよほど有意義な日々だ。
だが、それでも、とアンドレは思った。
「一発殴らなくていいか?」
心のケリをつけていいんだぞ。
青いアランが、もしもそれですっきりするなら。
だがアランはケッと横を向き「手が汚れるわ」と吐き捨てた。
「そのとおりだ。おまえの腕はもっと崇高な目的のために使われるべきだ」
オスカルはさらに上機嫌になった。
アランが感情に走らなかったことも、アランから見たディアンヌが幸せだと断言したことも、すべてが心地よかった。
男の心変わりと婚約破棄を、良かったと言えるアランを心から褒めてやりたいと思う。
人生はそういうものだ。
もうだめだと思った所から始まる別の形がある。
失恋は痛い。
確かにつらい。
だが、そのつらい恋が終わった時、何か違うものが始まるのだ。
オスカル自身そうだった。
フェルゼンに失恋が露呈した日、アンドレに告白された。
青天の霹靂だったが、今では夫婦だ。
そういう意味ではディアンヌと同類だ。
人生、何が幸いするか想像もつかない。
この男も、どうしようもない奴だが、せめてここから心を入れ替えれば、また浮かぶ瀬もあろう。
「奥さんを幸せにしてやれ。三ヶ月も隠れて暮らすなんて正気の沙汰とは思えん」
がっくりと首を垂れている男を諭してやる。
「罪悪感もあっだんだろう。言い訳しなかったことだけは、認めてやるべきだと思うぞ」
アンドレが本来のアンドレらしく男の弁護にまわっている。
「それもそうだな。今さら言い訳を聞いたところでどうにもならんのだからな」
オスカルとアンドレの会話が暖かい雰囲気を醸し出す。
「用ってのはこれだけですか?」
その雰囲気から逃れるようにアランが素っ気なく尋ねた。
「そうだ」
「では戻らせてもらいます」
長居は無用と言わんばかりだ。
「ああ、呼び出して悪かった」
「いえ、色々配慮してもらったと思ってます」
アランがペコリと頭を下げた。
そのあまりに素直な姿勢に驚いて、アンドレが口をぽかんとあけている。
こんな台詞をアランの口から聞くなんて。
だが、ディアンヌの存在がアランにとってそれほど大きかったということだ。
ディアンヌを本当に守りたかったのだ。
いい兄妹だ。
一人っ子のアンドレにはうらやましい姿だった。
アランが退室すると、オスカルが男に言った。
「これで安心したか?」
男は放心状態でコクリとうなずいた。
「そうか。アンドレ、辻馬車を呼んでやれ」
「わかった。では行こうか」
アンドレに促され、男はアンドレの後に続いて部屋を出た。
「シュザンヌを泣かせるなよ」
締まりかけた扉に向かって言った。
これで一件落着だ。
オスカルはホッと息をつき、長椅子にどっかりと座り込んだ。
疲れたな。
心地よい疲れではあるが、疲れた。
一連のことを思い返す。
不幸が幸福の始まりになった。
それはいい。
だが、逆に言えば、幸福は不幸の始まりでもある。
アントワネットは、王妃という栄光の座を手にしたが、それゆえ最愛の男性と結ばれることはできない。
とすれば、アンドレとの結婚という幸福が、不幸の源になる場合もないとはいえない。
薄ら寒いものが背中に忍び寄ってくるようだ。
「アンドレ」
無意識にその名を呼んでいた。
そばにいてくれ…
ひとりにするな…
どこへも行くな…
すると、まるで聞こえたかのように、扉が開き、アンドレが息を切らして戻ってきた。
「オスカル、うちの馬車も回してきた。さあ、急いで帰ろう」
オスカルは、跳ねるように立ち上がった。
そして驚くアンドレの胸に勢いよく飛び込んでいった。
おわり
デジタル大辞泉の解説
「人間万事塞翁が馬」
《「淮南子(えなんじ)」人間訓から》
人生の禍福は転々として予測できないことのたとえ。
[補説]昔、中国の北辺の塞(とりで)のそばに住んでいた老人の馬が胡(こ)の地に逃げたが、数か月後、胡の駿馬(しゅんめ)を連れて帰ってきた。その老人の子がその馬に乗り落馬して足を折ったが、おかげで兵役を免れて命が助かったという故事から。