人間万事塞翁が馬

 

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このお話しは「パリ巡回」あたりのものです




                                 

                                              


「さて、婚約者殿は訪ねてくるかな?」
衛兵隊から屋敷に戻ったオスカルは、着替えを済ませると、簡単に食事をとった。
そして客間に移動し、ディアンヌの元婚約者にしてシュザンヌの現夫の来訪を待った。
「来なければ、いつまでも隠れて暮らさねばならん。だが来れば、自分の不実を追求される。つらいところだろう」
アンドレは一応、男の身になってやる。
「自業自得だ。何がつらいものか」
オスカルはあくまで正論だ。
もちろんアンドレも同感だから、反論はしない。
色々事情はあったのかもしれないが、ディアンヌに一切の説明無く婚約破棄し、さらには別の女とすでに結婚したと、家人を通して告げるなど、言語道断だと思っている。
わずかでも人の心があれば、絶対できない所業だ。
せめて自分の口から伝えるべきだろう。

考えだすと、怒りが沸々とわいてきた。
実はオスカル以上に腹が立っているのではないか。
そんな自分に気づいて、アンドレは少し驚いた。
「門まで行って様子を見てこよう。案外、そこまで来ていて気後れしているかもしれん」
適当に理由をつけてアンドレが部屋を出ようとした時、執事が来客だと告げに来た。
「よし、通せ」
オスカルは完全に戦闘態勢である。
頼もしい限りだ。
5分もすると、執事に連れられて、いかにも優男という若者がやってきた。
確かに顔立ちは良い。
若い女なら、惹かれるのもわかる。
それが、こざっぱりとした貴族の衣装に身を包んでいる。
これもシュザンヌの実家が援助したのだろう。
アランと同じ貧乏貴族なら、こうはいかない。
だが、怯えた様子が全身から見て取れる。

「よく来たな。良い度胸だ。わたしがディアンヌの兄、アランの上司だ」
そう言ってオスカルはニヤリと笑った。
「シュザンヌには名乗ったが、君にはあえて私の名前を告げることはしない。したがって君も名乗らなくていい」
ピシャリと言い切った。
不実な男に礼を尽くす必要は無い。
男は、馬鹿にしてと怒るかと思いきや、かえってホッとしているようだった。
この期に及んで家名が大事になったのか。
それとも恐ろしくて声が出ないだけか。
拍子抜けするほど頼りない感じだ。
こんな男に、ディアンヌもシュザンヌも惚れたのか。

「アランに殺されるとシュザンヌに言ったそうだが…。殺される理由があるということか?」
男は真っ青な顔で唇を噛んでいる。
「ここでわたしの質問に正直に答えれば、アランに命令してやろう。君やシュザンヌの命を狙うなとな。仮にも司令官の命令だ。効果は保証する」
「本当ですか?」
初めて男が声を出した。
少し甲高い。
緊張のあまりひっくり返っただけかもしれないが、男らしい声とはほど遠い。
オスカルはしっかりとうなずいた。
「本当だ」
「では、答えます。なんでも聞いて下さい」
目が血走っている。
助かりたい一心で必死なのだろう。
「少し落ち着け。すでに先程質問はしている」
「え?」
「アランに殺される理由があるのか、とな」
男の唇がワナワナと震えた。
「どうなんだ?」
「もし、婚約破棄が死刑だというなら…」
意外にしっかりとした声を出した。
開き直ったのか。
「ほう、なるほど。だがそんな法律はないだろう」
「そうだ、そんな法律はない。婚約を破棄してはいけない、という法律もない」
男は上ずった声で話した。
「それはどうかな。婚約とは結婚の約束だ。勝手に破棄するのはどうかと思うが」
「…」
簡単に論破されている。
あまり賢い男ではないようだ。

「次の質問だ。なぜアランが君やシュザンヌを殺すと思ったのか。衛兵隊におけるアランと上司のもめ事については、婚約前に聞いてなかったのか?」
これは、大事なことだった。
もし、この事件について知らずにいて、あとから聞いたとすれば、ソワソン家が重要事項説明義務を怠ったと言われても仕方のない側面はある。
だが、ディアンヌもアランも、そういうことを隠蔽するようなタイプではない。
「聞いてはいました。もともと紹介してくれた親戚が、ディアンヌの父上の親友だったから、初めて会う前に聞いていました」
やはり…。
オスカルは首をかしげた。
「ではなぜ?婚約破棄すれば殺されるとわかっていて、したことになる」
そう。
それが最大の疑問だった。
結婚後、アランから隠れて逃亡するつもりだった、だが母親が病気になってできなくなった、とシュザンヌは言っていたが、それはおかしい。
なぜなら、シュザンヌの実家はパリで有数の薬種問屋だからだ。
一人娘のシュザンヌと結婚して、この商売を継承することで、潤沢な収入を得る算段だったはず。
だとしたら、パリを離れる想定があったとは思えない。
パリ以上に薬が売れる場所などないからだ。
つまり、最初は逃げたり隠れたりするつもりはなかったことになる。

「なぜ,結婚してから、突然花嫁を隠したりする気になったのか、それがどうもわからない」
「話が違ったから…」
「話が違った?」
「最初に聞いた時、兄上が上司に暴行したのは、上司がディアンヌに狼藉を働こうとしたからだ、ということでした。そして脅しで銃を構えただけだったと」
それは事実だ。
アランは、荒んでいた頃、箔を付けるため、上官の顎を砕いたと自分で言っていたが、実は大した傷ではなく、上官が大騒ぎしたために話がどんどん膨らんでいっただけだということは、長く隊員達と過ごす内に自然とオスカルの耳にも入ってきていた。
「だけど、シュザンヌと結婚式をあげて、薬種問屋の仕事を覚えようと店に行ってみた時に、たまたま衛兵隊の軍医が薬を買いに来ていて…」
軍医?!
オスカルとアンドレは思わず顔を見合わせた。
まさかここで軍医が出てくるとは…。
「軍医は何と言ったのだ?」
先が気になる。

「さんざん職場の悪口を言っていた。どんなに兵士達が荒くれで、危険かと。その流れで、特にひどいのがと名前が挙がったのがディアンヌの兄上だった。この男は本当に凶暴で、勝手な思い込みで上官に銃をぶっ放し、上官は危うく死ぬかという所を、自分が大手術をして助けてやったのだと」
「!!」
もはや言葉も出ない。
男は続けた。
「確かに妹は可愛い顔をしているが、あの兄は異常だ。妹のこととなると常軌を逸するのだ。自分が上官の命を救ってやったおかげで、降格処分だけですんだのに、感謝するどころか自分にまで反抗してくる。自分が上官を救ったことを恨んでいるのだ。だから自分もかかわらないようにしている。殺されてはかなわないから、と」

奇想天外な話だった。
軍医の脳内では、あの事件がこうなっていたのだ。
やはり信用できない奴だった。
思わぬところで、自分の観察眼を確信するオスカルである。
「アンドレ、おまえ、どう思う?」
アンドレもただ一つの瞳をパチクリさせている。
「それで、自分たちも殺されると思ったのか?」
アンドレは初めて口を開いた。
「当然だろう!所属先の軍医が言うのだ。よほど信用できる情報じゃないか」
常識的にはそうだ。
嘘つき軍医とは誰も思うまい。
「それで、あわててシュザンヌを隠したわけか」
「ディアンヌにはいつか謝りに行こうとは思っていたんだ…。だけど、怖くなって…」
男はうつむいた。

「よくわかった。どうも不幸な偶然というか、悪意の虚言が誤解を招いているようだ」
「悪意の虚言?」
「そうだ。軍医の話はでたらめだ」
「え?」
「アランは、上官を殺そうとしたわけではない。妹を助けるために銃を向け、顎をかするように撃った。アランの腕前なら、それは可能だ。ところが、軍医が手当に失敗した。それを隠すために、自分に有利な話しを作り上げたのだ」
「そんな…」
「もちろん、アランは君の裏切りを聞いて、本当に殺したいほど怒った。ディアンヌは、死のうとすらした。だが、アランもディアンヌも、誠実に、一所懸命に生きている。君や、まして君の奥方を殺そうなど、絶対にない」
オスカルの口調は厳しく強いものだった。

そう、殺したりはしない。
それは確かだ。
だが、一発や二発は殴られたっていいではないか。
事実それだけのことはしているのだから。
それくらいの覚悟もなく、人を裏切る心根がアンドレには許せない。
間近で見た、ディアンヌの絶望。
花のように美しいディアンヌが、亡霊のようになっていた。
そして魂の慟哭。
ソワソン家の屋根裏部屋にいた兵士の誰もが涙したあの時。
アンドレは思い出していた。
全身を怒りが包む。
「謝りに行けよ」
アンドレは男に迫った。
「本当に悪いと思ってるんなら、今すぐにでも謝りに行けよ」
男の腕をつかんだ。
長身の男に詰め寄られ、完全におびえている。
「さっき言っただろう?ディアンヌに謝りに行こうと思ってたって。あれはでまかせか?」
「ほ、本当です…」
「それならディアンヌに謝ってこいよ!行けよ!!」
アンドレの怒声が響いた。
めったにないことだった。
オスカルがアンドレの腕を取った。
「アンドレ、その辺にしておけ」
ポンとアンドレの肩をたたいた。
「ディアンヌは、こんな男に会いたくはないだろう。そして謝ってほしくなどないだろう」
「オスカル…」
「ディアンヌは、今、幸せだと言っていた。それでいいではないか。つらいことを思い出させるのは気の毒だ」
「だが、こいつが誰にも謝罪せず、なんのけじめもつけないで、この先のうのうと生きていくなんておかしいじゃないか」
「それはそうだ。わたしもそう思う」
「それなら…」
「謝る相手はディアンヌではない」
「え?」
「アランだ。忘れたのか?ディアンヌの願いを…」
「あっ…」
「アランの名誉を回復してほしいと言ったのだよ」
そうだった。
謝るべきはアランだった。
勝手に殺人者にされ、脅迫者にされ、まるで犯罪者扱いだった。
アンドレはもう一度男の腕をつかむとギロリとにらみつけた。
隻眼のアンドレが怒りを滲ませると、凄まじく恐ろしい。
「今からアランのところに連れて行ってやる。そこであんたの本当の誠意ってもんを見せるんだ」
男はガクガクと首を縦に振り続けた。
「まあ、そういうことだ。では行こうか、名無しくん」
オスカルはにっこりと笑った。