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このお話しは「パリ巡回」あたりのものです
アランがラソンヌ邸に来てみると、ディアンヌはとても忙しそうだった。
だがその数倍、クリスは忙しそうだった。
つまり、オスカルの読みは当たっていたわけだ。
アランはラソンヌ医師に、アンドレの負傷を説明してディアンヌを連れ出す許可を願い出た。
「いかにヤブとはいえ、いやしくもフランス衛兵隊の軍医だ。オスカルさまもそこまで信用なさらないのはどうかと思うが…」
温厚な医師も、同業者へのあまりに辛辣な評価に首をかしげている。
それがまさか、ディアンヌを呼び出すための口実だとは、使者であるアランも知らない話だ。
敵を欺くにはまず味方から、とはよく言ったもの。
アンドレの手当のため、という大義名分も通っているし、アラン自身も軍医には遺恨があるので、単純にオスカルの指示を信じていた。
「ご覧の通り、ディアンヌを連れて行かれてはとっても困るんですけれど!」
患者の手当に追われるクリスがなかなか納得しないところ、柄にもなく説得までして、妹を衛兵隊のパリ駐屯部へ連れ帰った。
ディアンヌはすぐに司令官室に通され、アランはジャンとフランソワが待機している食堂に合流した。
もっとおっとりした娘かと思っていたが、ディアンヌは意外にてきぱきとしていて、すぐに持参した治療かばんを開け、包帯を取り出した。
そしてアンドレの手を取り、軍医が巻いた包帯をするするとはずした。
「器用だね」
オスカルが声をかけた。
少し顔を赤らめながら、ディアンヌは手当を続ける。
「まだまだです。クリスに教えてもらうのですが、なかなかうまくいきません」
といいつつ、ただれたアンドレの手のひらをじっと観察している。
「何か、薬物ですね?」
「ほぉ…!よくわかったね」
「何度か火傷の治療をしましたが、火ではこんな風にはならないと思います」
器用でてきぱきしているだけでなく、頭もいい。
たった三ヶ月でここまで言えれば大したものである。
「正解だ。名前はわからないのだが、とにかく何かの薬が空から降ってきて、運悪くアンドレの手のひらに落ちた」
「まあ!なんてことでしょう…」
ディアンヌが同情のこもった瞳でアンドレを見上げた。
心根も優しい。
アランの妹とは思えない。
「痛みますか?」
「いや、それほどではないよ。軍医殿の手当でも充分だと思ったんだけどね」
アンドレは申し訳なさそうに答えた。
「いえ、呼んで頂いて良かったです。失礼ですが、この手当は単に消毒薬を塗布しているだけです。これではただ待つよりありませんが、わたしはクリスに言われて軟膏薬を持ってきました。しっかり塗り込めば回復が随分早まると思います」
なにげにフランス衛兵隊の軍医の手当に厳しい評価をしつつ、ディアンヌは治療鞄から薬瓶を取り出した。
「大したもんだ」
オスカルがヒューと口笛を吹いた。
「持たせてくれたのはクリスです。兄の話を聞いて、これを持って行きなさいと教えてくれました」
いつもながらクリスの判断は見事である。
「クリスは良い先生のようだね?」
「ええ、ほんとに。クリスに出会えて、ラソンヌ先生の元で働かせていただいて、感謝しかありませんわ」
微笑みながらディアンヌはアンドレの掌に薬を優しく塗っていく。
その姿に嘘はなさそうだ。
だが、やはり確認しておく必要はある。
「ディアンヌ、後悔してはいないか?」
オスカルのあらたまった口調に、ディアンヌは顔を上げた。
「え?」
「クリスの元で働くことを。わたしは差し出たことをしたのではないか?」
ディアンヌは、アンドレの手を離し、オスカルに向き直った。
「オスカルさま、心から感謝しております。オスカルさまはわたしに新しい人生を下さいました」
曇りのない黒い瞳がまっすぐにオスカルを見つめている。
優しいだけではない、強い意志が感じられた。
「そうか。よかった…」
それで決心がついた。
「では、聞いてほしい話がある。かまわないか?」
オスカルもまっすぐにディアンヌを見つめ返した。
「なんでございましょう?」
「このアンドレのけがの原因、薬の名はわからないが、誰がしたかは判明しているのだ」
「そうなのですか?ひどいことをするものですね」
「まったく同感だ。だが元々人に害を与えるつもりではなかったらしい。これを飲んで死のうとして、怖くなって窓から捨てた、その下をたまたまアンドレが通った。シュザンヌという若い娘だ」
「死のうと…。若い娘が…」
ディアンヌの顔がたちまち曇った。
思い出したのだろう。
自分も死のうとしたことを。
死にたいと思うほどつらかった時があったことを。
「愚かなこと…、そしてかわいそうなこと…」
「そう思うか?」
「はい」
「わたしもそう思った。だから、理由を聞いてみた。どうして死にたいのかと」
「どうしてだったのですか?」
「一生、隠れて暮らさなければならないから」
「!」
ディアンヌは大きく目を見開いた。
「犯罪者ですの?」
「犯罪者…、そうかもしれない。だが、被害者かもしれない」
オスカルは、肘掛け椅子に座り、長い足を組んだ。
そしてディアンヌに、向かいの椅子に座るよう促した。
ディアンヌは静かに言われたところに腰を下ろした。
そのたたずまいも優雅である。
アランよりよほど貴族らしい。
そう言われることをディアンヌが喜ぶかどうかはわからないが。
オスカルはシュザンヌの身の上を語り出した。
彼女から聞いたとおりに…。
一切の脚色もせず、要約もしなかった。
シュザンヌに同情を寄せる風でもなく、かといって責めるわけでもなく、淡々と語った。
ディアンヌの顔が蒼くなり、やがて土気色になっていくのが、真横に座るアンドレにははっきりと見えた。
残酷なことだ。
こういう風にディアンヌに伝えることの可否を、アンドレはいまだはかりかねている。
もうオスカルが言い始めてしまっているのだから、止めようもないのだが、それでもこの話をわざわざディアンヌにすべきなのか。
ことここに来ても、躊躇する自分がいる。
アンドレはなすすべもなく、ただじっとディアンヌを見つめていた。
やがてディアンヌの頬を涙が一筋伝い落ちた。
ディアンヌの痛みが、アンドレに直に伝わってくる。
心の中の悲鳴が聞こえるようだ。
「ディアンヌ、あなたの兄は、あなたを何よりも大切に思っている。だからあなたの嫌がることはしないだろう。シュザンヌが幽閉生活から解放されるかどうかは、あなたの気持ち次第ということだ。わかるね?」
オスカルは長い話を終え、そして沈黙した。
じっとディアンヌの様子を観察している。
取り乱すか、うつろになるか。
泣くか、怒るか。
白い手がぎゅっと握りしめられ、小刻みに震えていた。
やがて、小さな唇がかすかに動いた。
「愚かなこと…、そしてかわいそうなこと…」
そう聞き取れた。
さきほどと同じ言葉だ。
「シュザンヌが?それとも男の方が?」
「どちらもが、です」
「男もかわいそうだと?」
「はい」
ディアンヌは涙に濡れた目を上げた。
「幸せになれていないのですもの」
ディアンヌにとって、ほんの三ヶ月前まで、ただ花嫁になることだけが生き甲斐だった。
そこに幸せが待っていると信じていた。
結婚の仲立ちをしてくれたのは亡き父の親友で、これも武功で貴族になった人だったが、こちらは父と違って、貴族になってから結婚したので、妻も貴族出身だった。
そのため、その親戚筋を紹介してくれたのだ。
同じような弱小貴族だったが、一応ルイ15世の時代に取り立てられており、ソワソン家よりはよほど古い家柄だった。
男の美しい顔立ちと優雅な言葉遣い、優しい態度に惹かれ、向こうもディアンヌの美貌と性格の良さを気に入り、とんとんと話は進んだ。
あとは日取りを決めて、というところまで行ってから、すべてがひっくり返った。
夫となるはずの男は、すでに別の女と結婚して、もうこの家にはいない、と告げられたのだ。
しかも相手の女は貴族ではなく、金持ちの商家の娘だという。
本当に死にたいと思った。
事実、屋根裏部屋の窓から身を投げようとした。
アンドレが止めてくれなければ、そのまま死んでいた。
絶望したとき、そう思う気持ちは、だから痛いほどわかるつもりだ。
しかし、自分はそこから生まれ変わった。
失ったのは婚約者だった男だけで、それ以外は何も失っていなかった。
母も兄もいる。
健康な躰もある。
いや、むしろ婚約者を失ってから得たものの方がずっと多いくらいだ。
ラソンヌ医師、クリス、彼らに教わった医療の知識と技術、それによる収入。
そしてたくさんの患者との出会い。
不幸のどん底が、幸せへの第一歩だった。
それを実体験しているからこそ、シュザンヌの境遇の哀れさを思い、男の愚かさを腹立たしく思うのだ。
「わたしと一緒になるよりも幸せになれる、と思えばこその判断だったはずです。それなのに、結局幸せではなくて、しかもそれが兄のせいだなんて…」
ディアンヌの声が怒りに震えていた。
彼女はアランのために怒っていた。
ないがしろにされた自分ではなく、アランの名誉をまず思っている。
オスカルは目が覚める思いだった。
そのとおりだ。
アランはとんだとばっちりだ。
いつの間にやら殺人者に仕立て上げられ、脅迫者と恐れられ、彼のせいで幽閉されているかのように言われている。
冗談ではないだろう。
アランは何もしていない。
むしろ妹の慟哭を受け止め、支え、復讐したい気持ちを必死でこらえた。
アランこそが被害者ではないか。
「ディアンヌ、わたしもまったく同感だ。アランに対して非常に失礼な話だと思う」
オスカルはきっぱりと断言した。
「ありがとうございます。兄がわたしのために悪者になるなんて、あんまりです。そんな馬鹿馬鹿しい誤解を一刻も早く解きたいと、それだけがわたしの願いです」
「よくわかった。では、わたしに任せてくれないか。きっと悪いようにはしない」
オスカルは慈愛の笑みを浮かべた。
ディアンヌは、こっくりとうなずいた。
軍神だと思っていた人が、突然聖母になった。
憧れてやまない豪華な金髪と蒼い瞳が、ディアンヌだけに向けられている。
自分を捨て、金持ちの平民の娘と結婚し、その上、兄のせいにして新妻を不幸な暮らしを強いている男。
そんな男など、もはやどうでもよかった。
「すべてオスカルさまにお任せいたします」
「ありがとう。ではアンドレ、ディアンヌをアランのところに連れて行ってやってくれ」
オスカルが出した指示に、にこやかだったディアンヌの表情が変わった。
堂々とオスカルに異を唱えた。
「あら、それは困ります。まだ薬をぬっただけで、包帯を巻けていませんわ」
ディアンヌは立ち上がってアンドレの隣に行った。
アンドレはクスリと笑ってディアンヌに手を差し出した。
オスカルが額に手をやり、これは失敬と頭を下げた。