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このお話しは「パリ巡回」あたりのものです
オスカルの声は驚くほど優しいものだった。
たぶんかつてベルサイユの宮殿で、内親王殿下や王太子殿下たちに話しかけていたときと同じくらいに…。
その声を間近で聞いた侍女たちが軒並みときめいていたことを、アンドレは思い出した。
相手の警戒を解きつつ、距離を縮め、最後には信頼まで勝ち得る、安定した声音。
そして深い思いやりの心。
それらを総動員するオスカルに対し、まるで魔法のように<扉が中から開いた。
いや、魔法ではない。
当然の結果だ。
アンドレは納得した。
扉の内側に立っていたのは、透けるように薄いブロンドの髪をした、つぶらな瞳の若い女だった。
オスカルは、しめたと内心叫んだ。
この手の女性は、得意中の得意だ。
いまだかつて狙ってはずしたことはない。
極上の笑みで近寄ると、オスカルは女性の手をすっと取った。
アンドレが絶賛する声色に、笑顔までつければ、百発百中。
オスカルの手を振り払う女性はいない。
「マドモアゼル?あるいはマダム?わたしはオスカル・フランソワ。このような出で立ちではあるが、れっきとした女性だ」
そう言いつつ、完全に男性の仕草で、女の手のひらに唇をつけた。
女性か男性かは判然としないが、むくつけき屈強の男でないことだけは一目見て明らかだし、むしろ判然としない分、一層美しい。
際だつ美貌に圧倒されたのだろう。
女はつられるように答えた。
「あの…昨年の暮れに一応結婚はしました…」
言い終わるや否や、女の頬を涙が伝った。
「一応?」
「ええ、一応…」
と言ったまま、両手で顔を覆った女はその場で膝を折り、泣き崩れた。
「近所の方の話では時々男性が訪ねてくるそうだね?それがご主人か?」
「は…い」
耳を澄ませなければ聞き取れないほどか細い声だ。
「ではマダム、そのようなところに座り込んではお話が聞きづらい。よろしければ中でゆっくり…。いかがかな?」
オスカルは小さい肩を抱き、そっと立たせると、そのまま部屋の奥へと進み、さりげなく長椅子に座らせ、自分も隣に腰を下ろした。
完全に女のおびえを取り除くことに成功している。
階下で耳をそばだたせて様子をうかがうジャンとフランソワは、舌を巻くばかりだ。
やはり隊長はアンドレよりずっと上手だ。
というか、次元が違う。
これは絶対まねできない。
自分たちレベルが酒場で女をくどくときの師範はアンドレくらいが適任だ。
二人の部下は、全然無関係のことを真剣に考えていた。
その二人とアランを連れてアンドレは外に出た。
オスカルだけに話すつもりの女を警戒させるわけにはいかない。
男たちが建物の外に出たことを確認して、オスカルは質問を開始した。
「さあ、落ち着いて。ゆっくりでいいから、あなたがここにとじこもっている訳を聞かせてはくれないか」
もはや催眠術にかかったかのように、女は素直に語り始めた。
裕福な薬種問屋の一人娘であること。
たびたび薬を買いに来る貴族の男性に恋をして、身分が違うからとあきらめていたのに、思いかなって結婚したこと。
泣きながらも、少し頬を赤らめつつ語る彼女は、心なしか知っている誰かに似ている気がした。
オスカル自身、昨年の聖誕祭にアンドレと密やかにではあるが結婚した身である。
むろん人前でそれを語ったり、まして頬をあからめることなど決してないが…。
「そのように幸せなマダムがなぜ?」
ハンケチで涙をぬぐうと女は顔を上げた。
「夫には、親の決めた許嫁がいたのです。そしてその婚約者には衛兵隊につとめる兄がいて…」
ここで、オスカルの脳裏を何かがかすめた。
「とてもこわい兄なのだと。妹に害をなすものには容赦なく、命すら奪う荒くれ者なのだそうです…。以前、妹が隊長に襲われかけたときは、その場で銃殺してしまったと。だからしばらく身を隠せと…彼が、夫が言うのです」
オスカルは目をぱちくりさせた。
話が随分と大きくなっている。
いくら荒くれ衛兵隊でも部下が上司を殺害するところまではいかない。
せいぜい拉致監禁…いや、これはどうでもいいことだ。
確かあごを砕かれたものが若干一名いたが…。
ということは、この女の夫が捨てたという婚約者は…。
はずれていてほしいが、おそらくあたっているだろう予感に、心の中が沈んでいく。
「失礼、マダム。話の途中だが、その婚約者の名前、もしくは兄の名前を聞いておられるか?」
彼女は首を横に振った。
「そうか。ではあなたのお名前は?」
「シュザンヌ…」
「シュザンヌ。とても言い名前だ」
オスカルの脳裏をかすめたものの形がぼんやりと見えてきて、心の中は一層沈んだ。
貧乏貴族の男は、ディアンヌを捨て、そのくせよく似たシュザンヌと結婚したというわけか。
この選択からして金が目当てだったことは明らかだ。
ディアンヌと似てもにつかぬタイプだったら、まだ救いがあったのだが…。
結局、ディアンヌを不幸のどん底に陥れ、そして、新妻にも幸せな結婚生活を与えることができていない。
なんという情けない亭主だ。
「シュザンヌ。もしや、あなたは今の境遇を悲観して、実家から何か薬など持ち出してはいないだろうね?」
明らかにシュザンヌの身体が固くなるのがわかった。
見る見る顔から血の気が引いていく。
「わたし、知らなかったのです。婚約者がいたなんて…。知っていたら父に頼んだりはしなかった。いっぱい泣いてあきらめた。でも、何も知らずに結婚式をあげて、とっても幸せで、だのに、夫と一緒に暮らせなくて…。生きていても仕方ないんじゃないかって思ったんです。結局こわくて窓から捨てましたけど…」
やはり…。
アンドレの火傷の原因はそれだ。
「ご主人は、いつまでここにいろと言っているのだ?」
シュザンヌは大きくかぶりを振ると「わからないの!」 と叫んだ。
「わたしも毎日聞いているの。いつまでって!でも彼は答えてくれない。ちょっとでも大きな声を出すと、衛兵隊に聞こえるって。そして兄に殺されるって…!」
両腕を胸の前で交差させ、自分で自分を抱くようにしてシュザンヌは震えている。
「罪な男だ…」
結局、自己保身ではないか。
シュザンヌひとり隠したところで、どうなるものでもない。
なにも解決しない。
「ひとつわからないのだが、なぜあなたたちはパリにとどまっているのだろう?どこか地方へ行けば、その衛兵隊の兄も追いかけては来ないだろうに…」
素朴な疑問だった。
アランを恐れるなら、ここから出ればいい。
毎日アランが巡回しているこのパリにいるのは解せない。
「彼のお母様の具合が悪くて…。置いては行けないのですって」
大粒の涙が、また流れた。
卑怯者の男は、一方で親孝行ではあるようだ。
あるいは、病身の母の薬代が欲しくての結婚だったのかもしれない。
だからといって突然の一方的な婚約破棄が許されるものではないが。
オスカルは長椅子から立ち上がった。
事情がわかれば、ここに長居はできない。
万一、男が帰ってくれば、下でアランと鉢合わせだ。
早々にアランを連れて引き上げる必要がある。
アンドレが連中を外に連れだしてくれていて正解だった。
アランがもし聞いていたら、シュザンヌを締め上げて男の居所を聞き出し何をしでかすかわからない。
「よくわかった。わたしはその兄の上司だ。あなたたちの身に危険が及ばないよう計らうことができる」
「本当ですか?」
シュザンヌの瞳が大きく見開かれた。
こういうところもディアンヌと似ていた。
オスカルの中の、柔らかいところがぎゅっと締め付けられた。
「ただし条件がある。一度ご主人をわたしのもとに寄越しなさい。もちろん衛兵隊に来る勇気はないだろうから、私のベルサイユの屋敷に来させるのだ。私の名前をもう一度言う。オスカル・フランソワ・ド・ジャルジェ。いいね、ベルサイユのジャルジェ家に明日の夜、来るように。そうすれば悪いようにはしない。逆に、もし来なければ、その兄を止めることはできない」
シュザンヌはこっくりとうなずいた。
「ではわたしは戻る。ご主人によろしく」
オスカルは屋外で待っていた男たちを引き連れて、急ぎ詰め所に戻った。
「フランソワとジャンは食堂で待機。アランはラソンヌ先生の元へ行き、クリスを連れてきてほしい。アンドレの手を見てもらいたいのだ。クリスの手が空いていなければディアンヌを頼む。応急処置だけでもここの軍医よりはずっとうまいはずだ」
てきぱきと指示を出すと、アンドレと司令官室に入った。
「わざわざクリスに来てもらわなくとも、おれは大丈夫だぞ」
アンドレがすぐに抗議してきた。
「あれはおとりだ。狙いはディアンヌだ。この時間、クリスが患者を放って出てこられるわけはない」
「では、なぜディアンヌを?」
オスカルは事の次第を簡潔に説明した。
アンドレのどんぐり眼がどんどん大きく丸くなっていく。
「これはまたえらいことだな…」
アンドレは、長椅子にどっかりと腰を下ろした。
「ようやくディアンヌも元気になって、アランも落ち着いているのに…」
それからハッとして顔を上げた。
「なぜわざわざディアンヌを?」
「確かめておきたいのだ」
「何を?」
「本当に大丈夫かどうか。立ち直ったように見えて、案外心の奥深くでは消えない痛みがあるかもしれん。それを見極めた上で、対応を考えたいのだ」
ディアンヌの手痛い失恋は、一方的な婚約破棄という散々なものだった。
片思いだとか、告白して断られたとか、そういう類のものとは種類が違う。
互いに結婚を約束していたのだ。
婚礼の日取りまで決まっていたと言うではないか。
それを破談にするには、それ相応の理由と償いがあらねばならない。
しかるに、相手の男からも身内からも、そのようなことはまったくなかった。
許せない。
犯罪だ。
オスカルは、そう認識している。
アランだって、今でも殺してやりたいくらいだろう。
「まずはディアンヌ、そして次にその相手の男。それぞれの存念をしっかり確認する」
「わかった。ではディアンヌが来る前に、今日の書類仕事を片づけておこう」
アンドレは長椅子から立ち上がり、自分の机から書類の束を抱えると、バサッとオスカルの机に置いた。
その切り替えの早さに、そして書類の量に、オスカルは恨めしげにため息をつくと、羽ペンを取った。