1789年3月、フランスは三部会の選挙戦のまっただ中にあった。
パリ市内のそこここで選挙演説が行われ、人だかりができている。
人が集まると騒動も起きる。
市内警備を主たる任務に割り振られた衛兵隊では、ベルサイユ駐屯部隊にも動員がかかり、パリに出動する機会が圧倒的に増加した。
何事も人任せにできないオスカルは、当然、陣頭指揮をとるべく、パリに出ずっぱりとなって、そのためパリ留守部隊が本部になり、ベルサイユのほうがダグー大佐をトップにした留守部隊と化した。
パリ留守部隊の部隊長室は臨時の司令官室とされ、部隊長は伍長の部屋へ、伍長は自分の部屋の入口に小さな机を置いて、そこで部隊長とともに執務にあたることになった。
思わぬとばっちりに伍長は明らかに不満げな顔をしている。
年配の部隊長がしたり顔で若い部下に説いた。
「三部会が開会されれば、今度はベルサイユに張り付きになる。そのとき歓迎されるかどうかは今の接待にかかっているのだ」
説得力抜群の言葉だった。
いずれベルサイユで歓迎してもらい昇進させてもらえるチャンスかもしれない。
伍長は、いそいそと厨房に行き、午後のお茶の仕度をして、臨時司令官室に向かった。
扉をノックし名前を告げると、入室を許可する声がした。
扉をあけ、中に入る。
真っ青な瞳の上官が机から顔を上げた。
伍長はお愛想いっぱいに言った。
「お茶をお持ちいたしました。朝からずっとかかりきりでいらしては、お疲れでしょう。少しお休み下さい」
見事な忖度である。
「これはありがたい。行き届いた気配りだな。ユラン伍長」
「恐れ入ります」
ユランはわざわざ名前を呼ばれて、隊長の覚えのめでたいことに、内心歓喜しながら、さらなるお愛想を忘れない。
「アンドレ・グランディエ、2セット用意した。給仕がてら君も休憩したまえ」
将を射んとせばまず馬を射よ、である。
アンドレ・グランディエが隊長付きで、いかなるときも護衛にあたっていることは留守部隊でも周知のこと。
ベルサイユの連中がアンドレの眼を侮辱したとき、隊長が血相を変えて叱咤したことは、パリにも伝わってきていた。
隊長のお気に入りになるなら、アンドレ・グランディエに取り入ることが最短最良の方法だ、と如才ないユラン伍長は、出世街道驀進の実践に余念がない。
「アンドレ、せっかくの配慮だ。少し休憩にしよう。冷めないうちにカップに入れてくれ」
オスカルがアンドレに声をかけた。
「ありがとうございます、ユラン伍長」
アンドレは、伍長に丁寧に頭を下げると、トレイの上のお茶の濃さを確かめ、見事な手つきでカップに注いだ。
「なかなか本格的なロンドンティーだ。ユラン伍長は英国に留学経験があると聞いたが、さすがだな」
オスカルがカップを手に取り、じっくりと味わいながら言った。
「確かに。ショコラ好きのおまえも、このお茶は気に入ったようだな」
「ああ。まったりとしたミルクの味が最高だ」
二人の他愛ない会話を聞いて、ユラン伍長は、自分の作戦が完全に遂行され、多大の戦果をあげたことに、深く満足した。
隊長に向かって、敬語ぬきで軽口をたたくアンドレ・グランディエには、はじめはなんと図々しく憎たらしい奴か、と眉をひそめたが、最近はすっかり慣れた。
失礼な口調が隊長だけに向けられていて、それは隊長も了解済みというか希望しているということが察せれらたし、自分たちのようにわずかでも彼より階級が上のものには、アンドレは非常に分をわきまえた対応をしていたからである。
それならば、何も問題はなかった。
「明日の立ち会い演説会の情報はまもなくあがってきます。またお届けにまいりますので、どうぞそれまでお休み下さい」
ユラン伍長は、有能な文官でもあることをさりげなくアピールして、退室した。
今は部隊長室となってしまった自分の部屋に戻ると、一班の連中が帰隊したようで、班長のアラン・ド・ソワソンが、報告に来ていた。
部隊長が不在だったので、変わって聞き、すぐに書面にまとめた。
これを再び隊長に届け、明日の配置の割り振りが決定されれば、命令書を作成する。
とにかく書類、書類、それが文官の仕事である。
自分が現場に出ることはほぼない。
が、念のため、明日の市内演説予定に目を通した。
「明日は、シェイエスが演説か。有名人だからな、何事もなければいいが…」
「まったくだ。今日が平穏なだけにな」
アランは貴族とはいえ階級は自分より下なのに、気安い口の利き方をする。
アンドレよりこっちのほうがずっとタチが悪い。
だが、不思議と人望があり、対立すると、自分の立場が悪くなりそうで、ユランはじっと我慢している。
「そのうえ、午前中には、ベルナール・シャトレ主催の立会演説会もある」
アランが上司の屈託などまったく忖度せず続けた。
「なに、本当か?これは頭が痛いな」
「ああ。明日は総出だな。非番の奴もかり出されるぞ。隊長はそういうとこ容赦なしだからな」
さすがに隊長には一応敬語を使うらしい、と、最近気づいたが、それは面と向かってのときだけで、そうでなければ毒舌なくらい厳しい言い方をする。
「しかし、隊長はご自身に一番容赦ない方だ。従うしかないだろう」
一応上司として部下の隊長批判をたしなめた。
「けっ!そんなこと、てめえに言われなくてもわかってら」
完全にコケにされた。
普通なら言い返したいとろこだが、アランはかなり屈折した隊長信奉者だ、ということが最近ユラン伍長にもわかってきたので、相手にするのをやめた。
この屈折はアンドレ・グランディエに対してはさらに複雑に作用していて、最初は理解できなかった。
だが複雑にみえるものほど理解してみると存外単純であることが多い。
隊長とアンドレ・グランディエに対するアランの態度はその最たるものだった。
その証拠に、
「今から、司令官室に行って明日の計画を相談する。おまえも同行しろ」
と、命じてやると、顔は不服そうながら、素直に付いてきた。
嫌い嫌いも好きのうち、やはり、単純かつわかりやすい奴だ、とユアンは自分の人物観察眼の的確さを自分で賞賛した。
「お茶の時間がそろそろ終わる頃だ」
懐中時計を見ながら言うと
「なんだ、それは?」
と、聞くので、教えてやった。
「留守部隊ってのはつくづく暇なとこだな」
「忙しいからこその配慮だ。ま、おまえには一生理解できまい」
「わかりたくもねえよ」
「なかなか自分をわきまえているな」
階段を上がり、司令官室前に来た。
「失礼します。明日の警邏計画の情報をお持ちしました」
扉を開けると、アンドレがトレイを持って立ち上がったところだった。
「絶妙の味でした。ご自宅からお茶の葉を持参されたのですか?」
「留守部隊には安物しかないのでね」
高級茶葉を用意しておいてよかった。
わかるものにはわかるのだ。
アランなどでは逆立ちしたってわからないだろうが…。
ユラン伍長は悦に入りながら、用意した書類を隊長に渡した。
オスカルは即座に目を通すと、眉間にしわを寄せた。
「何か?」
アンドレが尋ねた。
「今日と違って、明日は二個中隊全員出動だな」
「それはまた…。おおがかりな演説会でもあるのか?」
「ああ、午前中がベルナール・シャトレ主催の立会演説会、午後はシェイエスがチュイルリー宮前の広場だ」
「豪華だな」
「まったくだ」
オスカルとアンドレの会話を聞きながら、ユラン伍長とアンドレは、ほらな、とばかりに目配せした。
「俺は、明日、非番だったんですけどね」
アランが二人の間に割って入った。
「残念だが、またにしてくれ」
「やっぱり…」
「アラン、この報告をあげる時点で、休暇はあきらめてたんだろう?」
アンドレがぽんぽんとアランの肩をたたいた。
「ちぇっ。やってられねーぜ」
「アラン、非常時だ。理解してくれ」
オスカルが、真摯な瞳をアランに向けた。
「わたしも出向き、直接指揮をとる。ついてきてくれないか」
ああ、そんな殺し文句を…、とアンドレは心中ため息をついた。
おまえに真っ正面からついてきてくれ、と言われて断る兵士はいない。
ましてアランは…、と顔をしかめていると、案の定、アランは、頬を紅潮させ、
「もちろんです!」
と、言い切った。
するとつられたように
「わたしも行きます」
と、ユラン伍長まで従った。
アランがびっくりしている。
ユランがペンではなく剣を持つなど、ここしばらく見たことがないからだ。
「そうか、君も行ってくれるか。では配置を言う。ユラン伍長、書き留めてくれ」
オスカルは自分に対し多大の忖度をしてくれるこの場の三人の男に対し、かけらも忖度せず、次々と指示を出していった。
※ このお話は第1部の「パリ巡回」前後に入るものです
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