パリ巡回
巡検

司令官室にパリ巡回担当の一班と二班の班長を呼び、経路の確認をすると、オスカルはすぐに表に出た。
馬車は使わず、全員騎乗した。
パリ到着後は留守部隊の詰め所に馬をつなぎ、市内は徒歩で巡検することにしていた。
重装備はかえって危険だが、軽装では万一に備えられないとの判断で、おのおの武器は通常以上に携帯していた。

1787年からの不作で都市部に食糧が入ってこないため、浮浪者の数が増大し、それが美しかったパリの景観を損ねる最大の要因となっていた。
セーヌにかかる橋の下は雨風をしのぎたい連中であふれ、カフェや居酒屋の裏口は残飯をあさる群れができていた。

「たまらない光景だな」
と、オスカルがぽつりと言った。
「ああ、見るに堪えない」
アンドレも同感だった。
ノエルまでの休暇を過ごし、二人が忘れがたい想い出を紡いだ別邸のあるパリ。
あのときもひどかったはずだが、自身が見ようとしなければ結局ないのと同じなのだ。
今、目をこらして見ようとするオスカルの前に広がるのは、荒れた人々の心が生む悲しい現実だった。

「俺には以前とそう変わらないように見えるがな」
と、二人の後ろを歩いていたアランがぼそっと言った。
驚いて振り返る二人に言うともなく、アランは続けた。
「前から貧しいものは貧しかった。下町の匂いはこんなものだった。金のある奴にはきれいに見えていたのかもしれないし、みんなの怒りももう少し小さかったかもしれませんけどね」
たったいま、見ようとしなければ見えないと思ったばかりだったオスカルは、王妃の護衛でかつて何度も訪れたこの町が、そんなに以前から悲鳴を上げていたのか、と己の無知を恥じた。
よく考えれば、ロザリーが身を売ろうとしたのはわずか12歳、今から十年以上昔のことだったのだから、アランの言うことはもっともだった。

とある教会の前で選挙の立候補者が政治パンフレットを持ち、群衆の前で読み上げていた。
三部会召集にあたっての国王陛下の詔勅は、感動的なものだったな、とオスカルは思い出す。

曰く「国王陛下は、王国の隅々から名もない民が、それぞれの願いや要求を陛下の御許で上申することを願い給う」

多くの人民がこれに歓喜し、自分の願いを表明しはじめている。
何かが変わろうとしている。
いや、人々が変えようとしている。
そのうねりが、変革を望まぬ人をも否応なく巻き込み始めていた。

ふと、オスカルは自分はどちらの人間だろうか、と考えた。
立場的には貴族として、この王制を保持し守るべきであり、変革は望むことではないはずだ。
ジャルジェ家の後嗣として、ほかに選択肢があるとは思われない。
だが、この制度の中にいる限り、アンドレとの結婚は公にできない。
貴族と平民の結婚が自由になされない現在の制度が変われば、個人が自分の意志で自由に結婚できる体制になれば、どんなに幸福だろう。
変革を阻む側に立つのか、望む側に立つのか、どちらにもつけずただ見守るだけなのか。

黙り込んだオスカルにアンドレは後続の兵士に気づかれないよう小さな声で言った。
「昨日、クロティルドさまから贈り物が届いた」
あまりに自分の思いとかけはなれたアンドレの言葉に、意味がわからない、という顔を向けると、アンドレは続けた。
「ノエルに俺に持ってきて下さったワイン。一本しかとれなかった逸品だと言ったが、実はもう一本あって、きっとオスカルに飲み尽くされただろうから、こっそり送る、と。今度こそひとりでじっくり味わいなさい、と手紙が添えられていた」
と言いながらクスクスとアンドレは笑っていた。
「アンドレ!おまえ…。仕事中にそんな酒の話は不謹慎だろう」
「おや、これは失礼。せっかく教えてやったのに。では今夜こそ、俺ひとりで飲もう」
あくまで後ろに聞こえないよう小さな声でやりとりは続く。
「そういう問題ではない」
「では、またひとりで飲み尽くすか?」
「何を言う!あのときはおまえも飲んでいたではないか!」
「はいはい、確かに。でも俺は四分の一くらいだったはずだけどな…」
「アンドレ!!」
「しーっ!声が大きいぞ」
アンドレに後ろの隊列を指さされ、オスカルはあわてて振り返った。

いつの間にかアランは最後尾に下がっていて、すぐ後ろはフランソワとジャンになっていた。
突然隊長の顔が目の前に来て、二人そろって後ずさりしたため、ドミノ倒しのように隊列が後退してしまった。
「な、なんですか?俺たち、まじめに仕事してますよ」
フランソワが勇気を出して言った。
ジャンも激しく首を上下に振って、同意を表現している。
「あ、ああ。すまなかった。アランはなぜ後方に?」
苦し紛れの台詞だな、とわれながら情けない。

隣でアンドレが我関せずと済ました顔をしているのが憎らしいと同時におかしくて、フッと笑った。
無意識のこの笑い方が実は隊員全員の心臓を一撃することに、オスカルはまったく気づいていないが、フランソワとジャンは至近距離で直撃されたため、撃沈してしまった。
今日はきっと一日幸せだ…などとふたり同じ事を思いながら、夢見心地に答えた。
「さあ…。さっきまで俺たちと隊長の間にいたんですけど、急に後ろを見てくるって」
そうか、とうなずき、オスカルは大声でアランを呼んだ。
「アラン、道案内がいなくてどうする?早く前へ来い!」

アランは渋面を隠しつつ、わざとゆっくり隊列を離れ、仲間をぬかしながら前へ歩を進めた。
ついさっき、えらく落ち込んだ表情をしていたのに、もう元気になったんですね、隊長、と、アランは心の中で毒づいてみる。
自分の何気ない言葉に深く傷つき黙ってしまった隊長に狼狽し、後悔し、なんとかこの沈黙を解いて、隊長の心を引き上げたいとあせるばかりだった自分を尻目に、アンドレの野郎は、いとも簡単に隊長を掬い上げた。
まったく、年季の差とはいえ、目の前でやられるといい気はしない。
ワインだかブランデーだか知らないが、そんな酒の話で立ち直るんですね、あの野郎が相手だと…。
アンドレに怒っているのか、隊長に腹を立てているのか、自分でもわからくなってきた。
とにかく面白くないのだ。

だが、隊長は、前に来い、としつこく叫んでいる。
隊長が何度も自分の名前を呼ぶ。
「アラン、アラン、早く来い」
低い落ち着いた、けれど何とも甘美な響きを持つその声に、いつしかアランの歩みは小走りになり、
「すいません」
と答えながら、オスカルとアンドレの後ろに追いついた。
それを見てオスカルがもう一度フッと笑った。

微笑みは今度は見事にアランに命中し、アランも撃沈した。
今日は一日きっと幸せだ。
アランはさらに駆け足で二人を追い抜くと、さっと振り返り、
「ここを左です!」
と大きな声で告げた。


                                          



                      




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