それは、突然のことのようでもあり、一方で規定のことのようでもあった。
人の命に限りがあることは、誰でも知っているのだから。
ましてそれが既に90年の歳月を生きてきた人であるならば、終焉はいつ訪れても不思議ではなかった。
それでも、マロン・グラッセという人に限って、そういう当たり前の枠にはまるとは思えず、オスカルもアンドレも、自分たちが生きてある限り、この人は在り続けると信じていた。
だから、少しばかり熱が出たようだと彼女が言った時も、しっかり養生すればすぐに快復し、またぞろ元気な声で邸内を取り仕切るはずだと思い込んでいた。

だが、マロンの熱は長引いた。
食が細り、水分を取るのも嫌がった。
もともと豊かな胸をもっていて、そう細くはなかったが、いかんせん高齢者である。
あっという間に痩せてしまった。
驚いたアンドレは、すぐに医師を手配したが、小太りの中年の医師は、形ばかり脈を取ると、眉間にシワを寄せたまま、ただ首を振るばかりだった。
モーリスが腕によりを掛けて、病人の好みのものを用意しても、ほとんど口をつけない。
アンドレがしかりつけても、オスカルが頼み込んでも、マロンの口は、食物のためには開かなかった。
ただ、その小さい口が唯一開くときがあった。
幼い双子が部屋に連れてこられた時である。
目を細め、持ち上がるのがやっとの腕を伸ばし、代わる代わるその頭を撫でながら、同じことをつぶやき続けるのだ。
「本当におかわいらいしい。天使そのものでいらっしゃる。世の中にあたしほど幸せな人間はいない。」
あとは、感謝の祈りのみである。

ことここにいたって、アンドレは覚悟を固めた。
祖母は逝こうとしている。
深い感謝を胸に、神に召されようとしている。
愛情深く育ててもらったものの務めとして、それを妨げてはならない。
より幸福に旅立てるように協力するのが、自分ができる唯一の恩返しだ。
だが、そのために具体的に何をすべきなのか。
祖母が最後に会いたい人は誰か。
ジャルジェ家の人々の顔が即座に浮かんだ。
けれど、使用人の病状など主筋にわざわざ伝えるべきものかどうか。
本来なら亡くなってのちに生前の厚情に対する謝辞を伝えるものではないか。
逡巡するアンドレをオスカルがどやしつけた。
「この馬鹿野郎!ばあやは家族だ!」
オスカルの指示で、マヴーフが侯爵邸まで馬をとばした。

侯爵家にはジャルジェ夫人が一月前から身を寄せている。
夫人はクロティルドとともにどんぐり屋敷に駆けつけてくれた。
マロンは夫人とクロティルドの顔を見ると、無理にでも身体を起こそうと試みた。
それを夫人が厳しく制し、枕辺に座るとばあやのすっかり細くなった手を取った。
「どこかつらいところはない?」
夫人はマロンの耳元でそっと尋ねた。
「おかげさまで…、少しもつらくはございません。わざわざ奥さまにお越し頂いて、申し訳ない限りです。」
目を細めてマロンははっきりと答えを返した。
その様子を青ざめた顔でオスカルは固唾をのんで見つめている。
クロティルドの瞳にうっすらと涙がにじむ。
「オルタンスとカトリーヌもまもなく来るわ。」
だから待ってね、今すぐ逝かないでね。
クロティルドは心の中の叫びを押し殺して、優しく語りかける。

アンドレは、主人たちの情の深さに胸を打たれて言葉も出ない。
わざわざ隣県から二人の姉上たちもお越し下さるというのか。
使用人のために…。
早くに嫁いだ姉上たちと祖母との交流の時間はそれほどに長くはない。
それでも見舞いに来てくれるという。
「眠い?起こしてごめんなさいね。」
まぶたを重そうに閉じかけるマロンに気づき、夫人は一旦席をはずした。

「不思議なものですね。」
しみじみと夫人がつぶやいた。
何が?とクロティルドが首をかしげ、母に続きをうながす。
「今、この時にわたくしがここにいることが…。」

もし侯爵がジャルジェ家一族の亡命を決断しなければ…。
そして一旦はノルマンディーまでやってきた将軍が翻意してベルサイユに戻ると決断しなければ…。
それを聞いた夫人が渡英を断念し、かつベルサイユに戻ることもあきらめていなければ…。
夫人はここにはいなかった。
色々な偶然が導いてくれた。
それとも、夫人をこの場に立ち会わせるための必然だったのだろうか。

必然だったのですよ。
オスカルは叫びたかった。
ばあやとの永久の別れに際し、自分がうろたえないように、神が母をこの地に呼び寄せて下さったのだ。
大きな衝撃を受けるであろうアンドレを支えようにも、オスカル自身がこの喪失感に耐えられそうにない。
だからこそ母は今この地に来たのだ。
一ヶ月前、あんなに疎ましく思った姉たちの来訪が待ち遠しくさえあった。
少しでも多くの人間に同じ屋敷にいてもらい、同じ時間と空間を共有してもらいたかった。

その祈りが通じたのか、オルタンスとカトリーヌは、翌日にはどんぐり屋敷に到着した。
オルタンスの配慮であろう。
ル・ルーは留守番を言いつけられ、今回ばかりは素直に従ったようだった。
代わる代わる枕元に座った姉たちは、それぞれに優しい言葉をマロンにかけた。
そのたびマロンは嬉しそうにうなずいた。
懐かしい話を夫人がひとしきりして、そしてオスカルとアンドレが言葉をかけようとしたとき、マロンの呼吸が止まった。

「ばあや!もう一度息を吸え!ばあや!!」
取り乱して叫ぶオスカルと、蒼白のまま無言で立ちすくむアンドレ。
小さな身体にとりつく夫人。
嗚咽をこらえきれない姉上たち。

1791年冬、マロン・グラッセはその生を賞賛し、そしてその死を惜しむ人々に囲まれて、長い旅路を終え、天に昇っていった。






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昇天