アランとクリスはしっかり腹ごしらえをしてから、帰路についた。
昨日の夕方に来て、今日の午後一番での出発だから、相当強行軍だ。
軍事訓練で鍛えたアランはともかくクリスにはかなりきついはずだが、いたって元気にしている。
心身ともにタフな奴だとアランは内心舌を巻いているが、もちろんおくびにも出さない。
出したところで、笑い飛ばされるだけだと知っている。
従兄達に色々言われてちょっとへこんでいるように見えたが、ロザリーとの再会ですっかり元気になったようだ。
女心は不可解このうえない。
だからアランは軍隊が好きなのだ。
ややこしい訳のわからない女心と、これほど無関係でいられる場所はない。
自分が女隊長に心を寄せていたことは完全に封印されている。
というか凍結されている。
女心を不可解というなら、男心は身勝手以外のなにものでもない。
アランは、御者台に陣取ると、無言で馬に鞭を当て、ただひたすらパリを目指した。
一方車中のクリスは、帰ってからせねばならないことを、ずっと考えている。
両親は、最終的にパリに引き取るしかないだろう。
さんざん放っておいて何を今さらと言われるのは百も承知だが、やはり老夫婦二人での田舎住まいは危険だ。
人を雇って世話をさせるとしても、おのずと限界がある。
ましてこの度のようなことがあれば、そのつど自分が駆けつけねばならない。
だがパリならば…。
娘である自分のほかにも、弟のラソンヌ医師や、その他にも、信頼できる人が複数いる。
今回自分を送り出してくれたソワソン家の人たちは、きっと協力してくれるだろう。
あまり他人をアテにせず生きてきたつもりだが、この火事騒ぎで随分ものの見方が変わった。
誰もが背負っているものがある。
くじけず投げ出さず、その荷を負ったまま、歩き続ける。
そして、ひとりで負いきれない時は助け合う。
ソワソン夫人もディアンヌも、アランまでもが、クリスには世話になったから、と様々に援助してくれた。
もとより自分が世話をしてきたは思っていない。
そういう言い方でクリスの負担を少しでも軽くしてやりたいという皆の心遣いだ。
それがどれほどありがたかったか。
そしてロザリー。
子連れで、旅の途中で、しかも夫の元に久しぶりに帰るというのに、それを延期してまで手助けを申し出てくれた。
おかげでこうして一度パリに戻れる。
「ロザリーって不思議な人ね」
出発からきっちり二時間でアランが休憩を取ったとき、馬の汗をせっせと拭いているアランに、言うともなしに言ってみた。
クリスは馬車を降りて木陰の切り株に腰を下ろしている。
「優しくて強い。強くて優しい」
「あんな風に見えて、結構苦労してるからな」
「アランは聞いているの?」
「何を?」
「ロザリーの生い立ち…」
「いや、ロザリーからは何にも…、ただベルナールは酔うと色々話すから…」
そうだった。
ロザリーは自分から話したのはクリスが初めてだと言っていた。
アランが彼女から聞いているわけはない。
ベルナールが酔って心を開いたとき、それも寡黙な、絶対他言しないと信じるアランの前でだけ、問わず語りをするのだろう。
「あなたは実は結構何でも知っているのね」
「別に、何にも知らねーぜ」
馬の次に今度は自分の汗を拭いているアランはクリスの方を見もしない。
クリスは、バスティーユ陥落の日のことを思い出していた。
セーヌの岸辺でオスカルの懐妊を叫んでしまったとき、どうか漏らさないで欲しいとアランに懇願した。
アランは約束し、そしていっさい漏れなかった。
指揮官たるアランの箝口令が完全に守られていた。
この男はそういう男だった。
「人間ってときどきどうしようもなく思い上がるものね。今度ばかりは骨身に染みたわ…」
思いがけず弱気なクリスの発言に驚いて、アランは初めてクリスを見た。
「まあ、上がったり下がったりするのが人生だろうよ」
「そうね。そんな当たり前のことを忘れかけていたわ。上がってばかりいるつもりだった…」
「努力する人間の陥りやすいパターンだな。真っ正直にがんばっているから下り道なんて思いもしないんだろう」
「図星過ぎて言葉もないわ」
「まっ、パリに着くまで落ち込んでればいいさ。着いたらそんなヒマもないんだろ?」
ぶっきらぼうな言葉がなぜか暖かい。
「さあ行くぜ。変に休憩してると碌な事を考えないからな。さっさとパリでやることやって、頼むから哀れなベルナールのためにロザリーを戻してやってくれ」
「まったくだわ。もうわたしはこのあとパリまで一気でも大丈夫よ」
「よし!出発だ」
東へ東へ馬車は走る。
馬車の中はクリス一人だが、御者台にはアランがいる。
パリには働く仲間がいて、ジヴェルニーには両親がいる。
自分は決してひとりではない。
クリスは身体の奥底からわき上がる力を感じていた。
旅は道連れ世は情け。
一人では遠い旅路も道連れがいれば心強い。
一人では不安な世の中も情けある仲間がいれば歩んでいける。
クリスは、揺れ動く馬車の中で目を閉じた。
パリでは寝る間もないだろう。
今の内に睡眠時間を確保しておく必要がある。
ほどなくクリスは眠りに落ちて、着いたぞとアランに肩を揺すられるまで起きなかった。
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※こちらは「悲喜こもごも」のあとの挿話です