クリスがアランにロザリーの宿へ行ってくるよう依頼した。
そこで待っているバルトリ家の御者に事情を説明するためだ。
ロザリーのジヴェルニー滞在が決定してしまった。
自分の不用意な発言のせいで…。
アランは、がっくりと肩を落とし、教会を出て行った。
それからクリスはロザリーを両親に紹介した。
「クリスが戻るまでわたしがお世話させて頂きますね。どうぞ遠慮無くなんでもおっしゃってくださいな」
見事な金髪とすみれ色の大きな瞳。
そして満面の笑顔。
こういうときのロザリーは無敵である。
嫉妬深い女をのぞく、老若男女すべての人に幸福と安心を与えるのだ。
老夫婦は、我が娘よりもずっと優しくたおやかな女性の暖かい言葉に感動し、一も二もなく自分たちを委ねた。
ロザリーの抱くフランソワが、まったく人見知りせずニコニコとしていたこともこの夫婦の心を一層明るくしてくれた。
「あなたって本当に不思議な人ね」
教会の庭に出たクリスがしげしげとロザリーを見つめた。
「え?どこが?」
「とっても優しげで、事実優しいんだけど、芯はびっくりするくらいしっかりしてる」
でなければ、ここでクリスの親の面倒を見てやろうなどと言えるはずがない。
一瞬で状況を把握し、クリスが一番欲するものをサラリと与えてくれたのだ。
そう、親の心配をせずにパリに戻る時間。
ロザリーが与えてくれたのは時間だった。
小さい子どもがいるのに…。
首を長くして待つ夫がいるのに…。
このとき初めてほんのちょっとだけベルナールに申し訳ないという気持ちが生まれた。
「まあ、クリスに言われるなんて、それこそびっくりよ。あなたほどしっかりした方はいないって、衆人が認めているわ」
ロザリーはフランソワを抱いたまま、クスクスと笑った。
あのオスカルさまだって、一目置いておられたのだ。
もちろんアンドレも。
二人そろって頭が上がらないようにさえ見える。
だがクリスは意見を曲げなかった。
「わたしの場合は見たまんまだけど、あなたはギャップが大きいのよ」
「そうかしら…?」
「ええ、そうよ。そしてそれがあなたの魅力でもあるのだけど」
ロザリーは首をかしげている。
自分ほど頼りない人間はいないと思っているのだ。
「もしわたしが人としてそれなりに暮らしていけているとしたら、それはすべてオスカルさまのおかげなの…」
彼女は思っていることをそのまま口にした。
クリスがあらためてロザリーの瞳をのぞきこんだ。
「ずっと不思議だったのよね。あなたがオスカルさまを崇拝すること…。確かにオスカルさまは魅力的な人ではあると思うけれど」
ロザリーにつられてクリスも思っていることをそのまま口にした。
「クリス…」
「あっ、ごめんなさい!気を悪くしたわね」
クリスは口元を押さえた。
「いえ、そんな…。不思議に思うのももっともだし」
ロザリーはフランソワの顔をのぞきこんだ。
いつの間にかよく寝ている。
ロザリーは木陰に置かれた木製のベンチにゆっくりと腰を下ろした。
これで腕の重さが随分と楽になる。
クリスも隣に座った。
「わたしは…父の顔を知らないの」
ロザリーはフランソワを見つめたまま明るく言った。
「早く亡くなったとか、そういうのではなくて…。なんというか、父にも母にも望まれない命だったのね」
突然、何の前触れもなしに、あまりに衝撃的な話が始まって、クリスは思わず居住まいを正した。
ふざけて聞くべき話ではない。
なぜこういう話がはじまったかはわからないけれど、きちんと聞かねばならない。
「父は、バロア家最後の当主サン・レミー男爵、母はポリニャック伯爵夫人。信じられないでしょうけど、事実なの」
クリスは息をのんだ。
「若い二人は結局結婚しなかった。父は女中にも子どもを産ませていたの。わたしを育ててくれたのはその女中。そして異母姉は…姉の名前は…ジャンヌ・ド・ラ・モット。首飾り事件の、あのジャンヌよ」
クリスは大きく目を見開いたまま、身じろぎもしない。
というか、できない。
話に登場する人物が有名人過ぎて、目の前のロザリーと重ならない。
「わたしは何も知らずに、育ての母に、母さんに愛されて、貧しくても幸せに暮らしてた。でもある日、母さんが馬車にひき殺された。ひいたのはポリニャック伯爵夫人。もちろんその時は、それが実の母だなんて知らない。ポリニャックという名前すら知らなかった。ただ貴族の女だってことだけがわかったから、母さんの仇を討ちたくてベルサイユに行ったわ。でも間違ってオスカルさまのお母さまに斬りかかってしまった。そこでオスカルさまに出会ったの」
オスカルとの出会いを語るために、生い立ちを聞かせてくれていたのだ。
クリスは壮絶な話を静かに受け止めることにした。
優しい沈黙がロザリーの口を軽くする。
誰にも話したことはなった。
話せることではなかった。
でもこの人なら大丈夫。
「オスカルさまはわたしを引き取り、勉強もたしなみも、本当に色々なことを教えて下さった。アンドレが手を尽くして調べてくれて、母の仇がポリニャック夫人で、実は母親だったこともわかった。呆然としたわ。ぞっとした。わたしの母さんはこの世でただ一人。育ててくれた母だけ。ポリニャック伯爵夫人なんて…」
ロザリーの声が少し震えた。
クリスは一言も言わない。
言えるはずもない。
ただ聞くだけだ。
「ベルナールは、黒い騎士だったの」
「え!」
はじめてクリスの口から声が漏れた。
さらに有名人だ。
パリの市民にとって黒い騎士は英雄だった。
金持ちからしか盗まない義賊。
クリスももちろん知っていた。
だが、いつからか姿が消えた。
ベルナールだったのか。
「オスカルさまが捕まえようとして、逆にやられそうになって、わたしが銃でベルナールを撃った。実は、母さんが亡くなった時、ベルナールにはとても親切にしてもらったの。でもその時は、黒い騎士が彼だなんて知らなかった。アンドレの目を傷つけたのはベルナールだったから、オスカルさまは撃たれて倒れたベルナールに鞭を当てようとなさった。おまえをアンドレと同じにしてやるとおっしゃって…」
もう一度クリスが息をのむ。
アンドレの目はベルナールが…。
それで彼は失明の危機に陥ったのだ。
クリスは傷の手当てをしたから、よく知っている。
幸い、ラソンヌ医師の治療とクリスの看護で全盲にはならなかったが、危ないところだった。
オスカルの怒りもさぞやと思われた。
「怒るオスカルさまをアンドレがとめて、ベルナールはオスカルさまに引き取られた。そしてわたしが看病することになった…」
「それからベルナールがあなたに求婚したのね?」
ようやくクリスは独白を会話に戻した。
ロザリーはコクリとうなずいた。
「わたしが撃ったのに、変でしょう?」
「いいえ、ちっとも…」
ロザリーの看護がどれほど手厚いものか、クリスは誰よりもよく知っている。
だからこそ両親の世話もお願いした。
ベルナールがロザリーにぞっこんなのも無理はない。
ロザリーがベルナールを憎くて撃ったのならともかく、事情がわかっているのならまったく障害にはならなかっただろう。
「オスカルさまは、おっしゃったの。幸せにおなり、シャトレ夫人って…」
目尻に涙が浮かんでいる。
クリスの目も潤んでいた。
「そして罪人の嫁にはできないからって、処罰されるはずのベルナールを見逃して下さった」
誰にでも強気なベルナールが、どうもオスカルにだけ引き気味なのはそういういきさつだったのか。
そしてオスカル以上にアンドレに対して遠慮がちなのも、これでうなずける。
「だから、オスカルさまは、わたしの神さまなの…。不思議ね。こんなこと、誰にも話したことなかった。あなたが初めてよ」
ロザリーが泣き笑いでクリスを見た。
「ありがとう、聞かせてくれて。今まで以上にあなたが好きになったわ」
きっぱりと言い切るクリスの声に力がこもっていて、全くの本心だとわかる。
「クリス…」
両親が誰だって構わない。
姉が誰だって構わない。
ロザリーはロザリーだ。
そしてロザリーの美点は、生まれに左右されるものではない。
むしろ恥ずべきは自分だろう。
パリでは市民側に、そしてジヴェルニーにでは領主側についていた。
そのことに、全く気づかず使い分けていた。
自分がなんたるかという、自覚のない自分。
「われながら自分の甘さが恥ずかしいわ。顔から火が出そう…」
「まあ、どうして…?」
「何にもわかってないくせに、何でもわかった顔をしてたこと」
「そんなこと…!」
「いいえ、そうなの。ほんと、度し難いわ」
クリスは大きくため息をつき、それから自分の頭をコンと小突いた。
家が焼けたことくらい、どうってことはない。
革命で実家の資産が失われたことも、たいしたことではない。
両親は無事だったのだし。
何より生まれて以来今に至るまで、愛し続けてくれているのだし。
そのことへの感謝を、やっと思い出した。
そして好きな仕事に就いていること。
自分の仕事に感謝してくれる人がいること。
こんな幸せがあるだろうか。
「ロザリー、本当にありがとう。ここであなたに会えたこと、神さまからの啓示だったのね。パリでの仕事を片付けたらすぐに戻って来るわ。だから両親をお願いします」
クリスはベンチから立ち上がりロザリーに深々と頭を下げた。
顔を上げると、教会への石段を上がってくるアランが見えた。
クリスは、ここよ、と手を振った。
よく寝ていたフランソワが目を開けた。
「いい子ね」
ロザリーはそっとフランソワの髪をなでた。
ジヴェルニーの空が、とても青かった。
まるでオスカルさまの瞳のようだと、ロザリーは思った。
先週別れたばかりなのに、もう会いたくてたまらなくなっている。
ベルナールが聞けば寝込んでしまいそうなロザリーの本音だった。
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※こちらは「悲喜こもごも」のあとの挿話です