溶  解

時間がゆったりと過ぎる。
昨日の続きに今日が来て、そしてそのまま明日に流れ込む、そんな感じだ。
ところが、子供たちを見ていると、こちらはまるで正反対で、成長の早さに目を見張らざるを得ない。
生後1年と3ヶ月。
生まれて2回目の春を迎えた。
すでに彼らは、片言とはいえ、会話というもので意志の疎通をはじめている。
そして、ルイ・ジョゼフも随分と大人びてきていた。
いとこである王家の子女との面会を果たし、心に期するものができたらしい。
その覚悟をもった上で、砂に水が染みこむように、彼はオスカルの教授することを理解し、咀嚼し、さらに自分なりに発展させている。
幼さが残る表情は、知識を得るほどに影を消し、時にオスカルにすら手の届かない領域に彼の精神が飛んでいることもたびたびであった。
自分の緩やかさと他者の速やかさ。
日々がその対極の時間概念の揺れの中にある。

「船酔いしそうだ。」
オスカルは、領地視察から帰ったばかりのアンドレをつかまえて、いきなり訴えた。
その唐突さに少し驚きつつ、アンドレは上着を脱ぎながら丁寧に聞いてやった。
「こんなにどっしりと大地に立つ屋敷にいて…?」
「馬鹿者!船酔いしていると言っているのではない。しそうだ、と言っているのだ。」
オスカルがアンドレの疑問を一蹴する。
「船酔い…ねえ。」
アンドレは窓から外を眺めてみる。
よく茂ったどんぐりの木が、ザワザワと大きな音をたてて風にそよいでいる。
秋になればまた大量のどんぐりを落とすのだろう。
去年はパリ行きで、どんぐりどころではなかったが、今年こそは、つかんでは捨てるであろうノエルと、ハンケチにたっぷりため込むに違いないミカエルの姿が、今から見えるようだった。


「たしかに、あの揺れかたは尋常ではないな。見ているとこちらが揺れている気になる。」
若干こじつけ気味ではあると思いつつ、彼はオスカルに同調してやった。
だが、この思いやりは通じなかったらしい。
「馬鹿者!」
再び叱責された。
奥さまがこんな言葉をこんな風に臆面もなくだんなさまに言うから、あの屋敷は変わっていると言われるのだが、もちろん、そんな噂はオスカルの耳に届くことはない。
使用人たちは、この美しくも風変わりな奥さまに、世間の評判など決して聞かせたりはしない。
彼らは、ある意味別世界の住人のようなオスカルのたたずまいを、心から愛し、尊重してくれている。

「誰が木の揺れぐらいで船酔いするか!わたしは時間の流れに酔いそうだと言っているのだ。」
たった今まで、今年の作付けについて領地の村長と丁々発止のやりとりをしてきたアンドレは、話題の落差にめまいすら感じてしまった。
昨年に比べれば幾分改善してはきているが、依然不作になりそうな状況に変わりはない。
悪天候が続いているのだ。
自然頼みではなく、もっと確実に農業技術を向上させることが先決だ、というところで、ようやく意見の一致を見たばかりだった。

「これはまた形而上的なお話で…。無粋ものゆえ、失礼いたしました。」
口論を避けるため、アンドレは速やかに謝罪という方法に出た。
これから抽象的かつ小難しい話になるのなら、できるだけ早く本題に入ってほしい。
入り口でグズグズされてはかなわない。
現実的に生きるアンドレには、時間はいつでも貴重なのだ。
だが、そう思う傍ら、オスカルと二人で話をする時間は、彼にとってどんな内容でも癒しであり、生きる力の根源でもあるから、決して無碍にするつもりはない。

「ミカエルやノエルたちを見ていると、確実に時間が流れていると思う。昨日できなかったことを、今日には簡単にこなしていたりするからな。」
「なるほど…。」
「ルイ・ジョゼフもそうだ。この一年足らずで彼は確実に成長した。だが、振り返って自分を見ると、何も変わっていない。昨日と今日のわたしは、何も違わない。去年のわたしと今年のわたしですら違わない。わたしに限って言えば、時間は止まっているのではないかとさえ思えるのだ。」
オスカルは胸に抱えていたことを一気に話した。
パリ行きで発揮された能力は、ノルマンディー帰還後には再び封印された。
計画立案し、人を動かし、目標を達成するという能力は、片田舎で二人の子を持つ小領主夫人には、不必要とまでは言わないが、さほど必要でもなければ、生かしようもないのだ。
だが、不満いっぱいのオスカルに、アンドレはいたって平明に同じ言葉を繰り返す。
「なるほど…。」
当たり障りなく単調な返事しかよこさないアンドレをジロリとにらみつけ、オスカルは大げさにため息をついた。

「ミラボーが死んだ。」

またもや話が大きく変わった。
その揺れに、こちらこそ船酔いしそうだ、と思いながら、アンドレは
「そうらしいね。」
とうなずいた。
1791年4月2日、密かに王党派に鞍替えしていたミラボーが死去した。国王は有力な後ろ盾を失ったのだ。
無論、この時期、オスカルは、ミラボーがどれほど具体的に国王側にたって動いていたかは知らない。
だが、まがりなりにも貴族出身の彼なら、現在作成中であるという新憲法においても、国王の存在を無視するようなものは作らないであろうことが予想できた。
そして、そのバランス感覚に、オスカルは密かに期待していたのだ。
だが、そのミラボーがこの世から消えた。
日に日に力を増していくのは、各地で結成される政治クラブである。
ジャコバン・クラブ、コルドリエ・クラブ…。
急進的なものから保守的なものまで、とにかく政治に意見を言う場ができはじめている。
「国王陛下がどうお感じになってるか。まして王后陛下は…。」
誇り高い王妃が、王権を神から与えられたと信じて疑わない王妃が、市民の意見に耳を傾けるだろうか。
いや、それよりも、市民が意見を持つことを認めるだろうか。

自分がゆったりと暮らしている間に、激流を下るかのように祖国は姿を変えている。
なすすべもない自分がはがゆい。
かつて武官として誰よりもこの国を愛し、この国と民とを守るために生きていたはずの自分であるというのに…。

「もし、おまえの意志と違う事態になると思えば、おまえも一票を投じて、国を変えればいい。」
アンドレがこともなげに言った。
新憲法では国民の選挙権が明記されると、ロザリーからの手紙で聞いている。
人々が公式に意見表明できる場が作られるのだ。
今度こそ雷が落ちた。
「馬鹿者!!わたしは女だ。選挙権はない!」
そうだ。
選挙権を得るだけの財産はあるが、女というだけで門前払いだ。
「俺のがある。」
オスカルの怒鳴り声など歯牙にも掛けず、アンドレはまたも言葉をついだ。
「ひとの権利を行使することはできない。それはおまえの権利だ。」
オスカルの瞳に寂しい、けれど厳しい色が宿る。
「忘れたのか?一心同体ならば、二人で一票を投じればいいんだ。俺はいつだって、この権利の行使に際しては、おまえの意見を聞くよ。本来、女性にも当然認められるべき権利なのだから。」

オスカルは一旦大きく目を見開き、それからゆっくりと閉じた。
凍えそうになっていた心が、暖かい言葉で溶けていく。
ジリジリと焦げ付きそうになっていた心が、穏やかに静まっていく。
アンドレは、オスカルに対して果たすべき任務を完全に遂行した。
オスカルは再び瞳を開いた。
「長い話し合いになるぞ。」
彼の提案を有り難く受け入れた上で、注文をつける。
「望むところだ。」
アンドレは笑う。
この会話こそが、アンドレの力の根源なのだから。

二人の距離が縮まったそのとき、扉が遠慮がちにノックされた。
「どうぞ。」というアンドレの声とともに、扉が開き、歓声が響き渡った。
アゼルマとコリンヌに抱かれた双子が、父親を見るなり発したものだ。
静かだった部屋が突然賑やかになった。

「大事なお話中に申し訳ありません。お父さまがお帰りになった音がしたのに、なかなかお姿が見えないので怒ってしまわれて…。」
ノエルを抱いたアゼルマが、困った顔でアンドレに近づいてきた。
優しげなアンドレの表情が一層和む。
すぐにノエルを受け取り、高く抱え上げた。
キャッキャッとノエルが機嫌を直した。
「おまえは恐ろしいほど単純だな。」
チロリとノエルに一瞥をくれたオスカルは、ミカエルを抱いたコリンヌのもとに歩み寄った。
自分自身がアンドレによって瞬時に機嫌をなおしたことなど、まるで念頭にない。
かわいい手を自分に差し出したミカエルをスッと抱き取り、母としての任務を果たすべく、オスカルは最上級の笑顔を息子に向けた。
子供たちもこぼれるような笑顔を返してきた。

コリンヌとアゼルマは、胸がいっぱいになる。
この世にこれほど美しい光景があるだろうか。
たとえ、どんなに変わったお屋敷だと噂されても、この双子のお子様方とそのご両親の姿を、こうして目の当たりにすれば、まるで聖画を見ているように幸福に思うのだから、誰がなんと言おうと、自分はこの屋敷で一生働くのだ、とあらためて心に誓うのだった。






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