どんぐり屋敷の三賢者
今夜は深夜ミサに行くことになろうから、朝はゆっくりにしよう、と前もってアンドレが言ってあったので、どんぐり屋敷はめずらしく誰も起きてくる気配がなかった。
誰が出仕するわけでも、外出するわけでもない。
遅い朝食で一向に構わないのだ。
朝昼兼用で上等だ、とオスカルも口添えした。
だからモーリス夫婦もマヴーフ夫婦も出てきていない。
いつもなら賑やかな二階の西側も、まだ夢の中のようだ。
若いときというのは眠いもの。
一方で、年寄りに夜更かしは酷だから、マロンも今夜に備えてまだ床にいるらしい。
どんぐり屋敷で目覚め、かつ活動しているのはアンドレただ一人だった。
彼はモーリスが買い込んでおいた食材で朝食の用意にいそしんでいる。
昼食も兼ねるつもりだから、少し量は多い目にした。
使用人たちは、それぞれの家で済ませてくるはずだから、彼はオスカルとおばあちゃん、そして三人の客の分を作っているわけである。
こういうところが、だんなさまになりきれない哀しさで、というか、こうしているほうがむしろ落ち着くのである。
人間、慣れたことをするのがよいのだ、とつくづく感じる。
ル・ルーに、奥さまのようだ、と言われたが、案外それはル・ルーの思いやりで、到底主人に見えない彼を、せめても女主人のようだと表現してくれたのかもしれない。
領地経営は、小規模であるおかげで、主従が顔と顔をつきあわせられる分、領民と信頼関係を築くのはそう難しいことではなかった。
権力をふりかざすこととは対極にあるアンドレの態度は、彼がもしかして軽んじられるのではないか、と密かに案じたのとは裏腹に、仲間意識のような、友情のような関係を構築させる一助となった。
決して多くの税を取りすぎないよう、けれども、いざというときに供給できるだけのものを備蓄しておくことは領主の責任でもあるので、そのさじ加減を計りながら、領主としての取り分を決定することをアンドレは忘れなかった。
しかし、すでにフランス全体で納税体系がほころびてきており、その余波がいつこんな小さな町にやってくるとも限らなかったから、彼はバルトリ侯爵を見習って自分自身が稼ぐ方法を考えねばならないと真剣に思い始めていた。
厨房の扉がギシギシと開いた。
「ここにも油をささないといけないな。」
てっきり祖母だと思って振り返りもせず野菜を切り続けた。
「そうか。では油の場所を教えてくれ。」
まだ夜着のまま、ショールを羽織っただけのオスカルが、そのあたりの戸棚をのぞいていた。
「オスカル!」
突然大きな声で呼ばれて、びっくりしてオスカルは包丁を持ったままの男を見た。
「なんだ、大きな声で…。しかもかなり物騒な格好だぞ。」
「何をしている?」
「見ての通りだ。油を探している。」
スープを作るため竈に火は入っているが、まだまだ気温は低い。
「冗談ではない。すぐに部屋へ戻れ。」
「寝過ぎるとかえって疲れる。」
「寝なくてもいいから、とにかく暖かくしていてくれ。」
見ればオスカルは素足である。
寝台からそのまま降りてきたのが明らかだ。
ショールをかけているだけマシだと思わねばならない。
「まだ誰も起きてきてないのだろう?なんだか安心してうろつけるな。」
人口が増え、それだけ人目も増えたわけだから、大きなお腹で歩き回るのがはばかられていたようだ。
顔が解放感に満ちている。
「自分の家のはずなのに、どうも肩身が狭くてな。」
オスカルが苦笑いする。
「おまえもか?」
「ああ。なんだかな。」
オスカルですらこれなのだ。
アンドレが主人面などできるわけがない。
「朝食をつくっているのか?」
「ああ。ノエルの休暇を取り上げてしまったからな。せめて午前中だけでもモーリスたちを休ませてやりたい。」
「そうか。では手伝おう。」
「やめてください!」
突然背後で声がした。
見るとニコーラとニコレットとル・ルーである。
叫んだのはニコレットだった。
「せっかく美味しい食事に恵まれていたのに、わざわざノエルの前に調子を崩したくはないわ。オスカルお姉ちゃま、いらぬお世話はしないでちょうだいな。」
手厳しい意見はル・ルーだ。
「人手が必要ならわたしが手伝うよ。船乗りは大概のことは自分でできるから、これでも器用なんだ。」
なぜかニコーラがフォローに回っている。
「コホン…!」
オスカルがいかめしく咳払いをした。
「おまえたちの意見を総合すると、わたしが手を出せばおまえたちの体調が悪化するとでも言いたげだが…。」
「あら、ご明察!」
ル・ルーがパチパチと手を叩いた。
身軽ならば一発くらいこづいてやりたい。
だが、今、ル・ルーと対戦するのは不可能だ。
「身重に冷えは一番悪いというのは定説です。もしかしてご存知ありませんの?」
ニコレットがやんわりと注意する。
まだ10代の少女に妊婦の心得を説かれるとは…。
思わず吹き出したアンドレは、しかし三人組に心の中で手を合わせた。
とりあえずオスカルを暖かい所に移すのが急務なのだ。
しかるに鍋は煮立ち始めている。
ここで火を落とすわけにはいかないと、ジレンマに陥っていたところだったのだ。
「では、続きをお願いできますか?」
さりげなくニコーラに食事の支度を頼んでみる。
「ねえ、アンドレ。わたしのことはちゃんと友達扱いしてくれているのに、どうしてニコーラにはそんなに他人行儀なの?」
ル・ルーがいきなり突っ込んできた。
「それは…。」
言葉に詰まる。
主筋といえばル・ルーもニコーラとニコレットも同様なのだが、ついついル・ルーだけは馴れ馴れしくしてしまう。
だが、ル・ルーはとがめるどころか、二人にも同じようにしろと言わんばかりだ。
「そうだな。おまえ、なんだか遠慮がちだな。」
オスカルもめずらしくル・ルーに同意する。
「いや…、そういうわけでは…。」
口ごもるアンドレからニコーラがいきなり包丁を取り上げた。
「とにかく、わたしが続きを料理するから、アンドレはオスカル・フランソワを二階につれて戻ってよ。」
そう言って片目をつぶる。
まぶしいほどの瞳の色だ。
「でも、ル・ルー。あなただって、ニコーラは名前で呼ぶけど、わたしのことはニコレットお姉ちゃまじゃないの?」
ニコレットが混ぜっ返した。
「あら、確かにそうね。オスカルお姉ちゃまとおんなじではかわいそうよね。ではニコレット。これからはこう呼ぶわ。」
何がかわいそうなんだろう。
オスカルが首をひねっている。
「そうそう。それが一番簡単なのよ。ねえ、オスカル・フランソワ。」
ニコレットは、お構いなしだ。
「ほら、無駄話はいいから、きみたちも手伝って。ル・ルーは鍋のふたを取ってかき混ぜて。ニコレットはそこの戸棚から皿を出して。それからアンドレ、本当にこのままだとオスカル・フランソワは間違いなく風邪を引くよ。」
ニコーラが野菜を刻みながらてきぱきと指示を出す。
その的確さに圧倒されて、アンドレはあわててオスカルを抱え込んだ。
「ありがとうございます。ニコーラさま。」
と、言いかけたアンドレに、ニコーラが言った。
「ありがとう、ニコーラ、だよ。アンドレ。」
「ああ…、そうだ…な。ありがとう、ニコーラ…。」
アンドレのためらいがちな言葉にニコーラがにっこりほほえんだ。
その姿の美しさに、アンドレは思わず息をのんだ。
アンドレに引っ張られるように階段を上りながら、オスカルが言った。
「あれは、随分と生意気なやつだとはじめは思ったが、今日はメルキオールのように見えたな。」
ノエルの夜、生まれたばかりのイエスのもとに訪ねてきたという三賢者。
そのひとり、黄金と王権の象徴にして、青年の姿の賢者と言われるメルキオールは、きっとニコーラのような若者だったに違いない。。
アンドレも深くうなずいた。
「まったくだ。深く頭を垂れて、その言葉に耳を傾けねばならない気持ちになった。」
「フン。確かにおまえはニコーラの言葉を堂々と実行できるようになる必要がある。どうも遠慮がちだからな。」
「…。」
アンドレは黙った。
若者たちの、優しさがしみこんできて、言葉にならなかったからである。
人と人の間にあった身分の壁。
自分がもっとも憎んだこの壁をこんなにたやすく壊せる人がいて、しかも自分の周りにいて…。
「メルキオールがニコーラだとすると、したり顔のニコレットがバルタザールだな。そしいてル・ルーはカスパールか。びったりだな。」
オスカルは自分で言って笑い出した。
「それはあんまりだろう。」
アンドレが抗議した。
バルタザールは乳香と神性の象徴で、壮年の姿の賢者と言われ、カスパール 没薬と将来の受難である死の象徴、すなわち老人の姿の賢者である。
「そうか。おまえ、随分あいつらにやられたな。」
オスカルがクスクスと笑う。
「ああ、かまわん。おれにとっては、まさしくあの三人は三賢者だ。」
「これはしたり。ついにどんぐり屋敷のご主人様はあの三人組のとりこになったというわけか…?いや、こんなに易々と取り込まれるなら、やはりおまえはル・ルーの言うとおり、自信のない奥さまだな。」
減らず口のオスカルを有無を言わせず抱き上げて、アンドレは今度こそ大急ぎで寝室に運んだ。
ここの奥さまはいざというとき迷わないのだ。
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