フェルゼン伯爵に連れられて宮殿に入ったルイ・ジョゼフは、控えの間で待機するよう指示を受けていた。
血縁の少年の存在はすでに奏上済みであるが、今日連れてくることはまだ伝えていない。
内奏の段階で面会を拒絶されては元も子もないからだ。
いつものご機嫌伺いとして参上したのち、折を見て国王一家に彼を連れてきていると告げ、その進展によっては対面も可能…かもしれない。
出自ゆえに、この段階ででも王妃からの拒絶にあうことは充分あり得ることだった。
ただその場合でも、温厚な国王は面会に応じてくれることが想定できた。
また国王の許可さえ得られれば、王子や王女とも会うことがかなうだろうから、そのときは、一緒に庭に出て語らうようフェルゼンが促す、ということもオスカルの計画に組み込まれていた。

ルイ・ジョゼフは、待つことには慣れていた。
というか、慣らされていた。
母の死後はずっと待ち続ける日々だったのだから。
今、この部屋でいくばくか待つことなど、どれほども苦にはならない。
よしんば面会がかなわなかったとしても、ここまで来られただけで上出来なのだ。
この豪華な建物の中に、王と王妃と王子と王女がいる。
この四人すべてに自分の血は繋がっている。
彼らと同じ空気を吸っている。
同じ屋根の下にいる。
すげない拒絶にあったとしても恨むものではない。
自分をここまで連れてくるために骨を折ってくれた大勢の人の好意に感謝こそすれ、誰かを恨むものではない。

母が息子に残した最大の遺産は、人を恨まないという気質だったのかもしれない。
ブリエ男爵夫人もまた、誰をも恨まず生涯を通した。
彼女こそ恨むべき相手は山のようにいたはずだった。
この世に送り出す以外、父として何の責任も果たさなかったルイ15世。
一夜の契りで子どもだけを胎内に残して去っていったヨーゼフ2世、。
そしていわれ無き批判でもってフランス追放の処分を下したフランス王妃アントワネットと、それに応じたその姉のナポリ王妃。
華やかな人たちに理不尽に翻弄され続けた彼女は、それでも誰をも恨まず、真摯な愛情でもって息子を育てた。
そして息子は確かに彼女の血を受け継ぎ、さらにオスカルの薫陶によってその美しい資質を一層純化し、育んでいったのだ。

やがてフェルゼンが戻ってきた。
見事な紳士であるとルイ・ジョゼフは、感心する。
ちまたでは王妃の情人として、いかがわしさばかりが強調されているが、相対すればその教養と知性を誠実さでくるんだ穏やかな瞳に引き込まれないものはないだろう。
オスカルから、信頼に足る人物だと聞いてはいたが、まさしくその言葉通りの人物だった。
「謁見のお許しが出た。ついてきなさい。」
事務的な口調だが、目は優しい。
ルイ・ジョゼフは、一瞬息を止め、はじかれたように椅子から立ち上がった。
すぐに自分の出で立ちを点検する。
不作法はないか、非礼はないか。
軟禁状態とはいえ、大国フランスの国王に会うのだ。
ナポリでは王妃と内々で対面したことはあったが、国家の規模が違う。
にわかに緊張感が高まってきた。

「大丈夫だよ。ここはもうベルサイユではない。厳粛とはほど遠い世界なのだ。」
励ますフェルゼンの口調に一抹の寂寥感が漂う。
大仰で堅苦しかった宮廷生活を毛嫌いしたはずの王妃でさえ、それが自分たちの権威を保つ大がかりな舞台装置であったことに、少しずつ気づき始めている。
人から無条件で敬意を表されることなどあり得ない。
そこには必ず責務が伴うのだ。
王という権威が何によって保たれていたのか、それに気づかずに過ごすことは、それだけで充分罪に値するのである。
わずらわしくうるさいとすら思った女官の姿も、ここではちらほらとしか見かけない。
おかげで、ルイ・ジョゼフの面会も可能になっているわけだから、まことにこの世は皮肉なものである。

通された部屋は、王家の居間として使われているところらしく、玉座もなければ天蓋や天幕もない、ごく普通の居室だった。
王と王妃が肘掛け椅子に座っていた。
椅子の前にはテーブルがあり、ティーセットが置かれている。
王子は母に寄りかかるようにして立ち、王女は窓辺の長椅子で読書をしていた。
何も知らない人が見れば、幸せな貴族のひとときにしか見えない光景だった。
先ほどフェルゼンが入室した際には夫妻だけだったから、子供たちはわざわざ呼び寄せたと思われた。
従兄との対面を国王が許可した証である。
フェルゼンはそのことを少年のために喜んだ。

「お連れしました。」
フェルゼンの声に、ルイ・ジョゼフは、うつむき加減だった顔をまっすぐに上げた。
ガチャンとカップを置く音が響いた。
王妃が、これ以上ないほどに目を見開きルイ・ジョゼフを見つめていた。
国王の額にはうっすらと汗がにじみ始めた。
王女は持っていた本を開いたまま脇に置いた。
時の流れが止まったかのような瞬間だった。
一番に動いたのは幼い王太子である。
「お兄さま!!」
彼は母の膝を離れ、フェルゼンの横に立つ少年に飛びついた。
「お兄さまでしょう?ねえ、お兄さま、今までどこにいらしたの?」
小さな手が腰にまとわりつくのを優しくはずし、ルイ・ジョゼフは、その場にかがむと王太子の視線に高さを合わせた。
「王太子殿下、わたしは兄上ではありません。」
その声が、大人への一歩を示すごとくややかすれ気味であることで、まず国王が自分を取り戻した。
「ルイ・シャルル。兄上ではなく、おまえの従兄どのだ。」
国王は手招きでシャルルを自分のもとに呼び戻し、ふたたびルイ・ジョゼフを見つめた。
「名前は?」
「ルイ・ジョゼフ・ド・ブリエです。ナポリでの爵位は男爵です。」
「そうか。ブリエ男爵か。遠路はるばるよく来られた。疲れは出ていないかね?」
鷹揚なゆったりとした口調には、なんの含みもなく、本当に身体を案じているのがわかる。
「はい。大丈夫です。」

「ねえ、従兄ってどういうこと?この方、どういう方なの?」
今度は王女が母のそばに来て尋ねた。
だが王妃は口を閉ざしたままである。
美しい横顔が蒼白になっていることに気づいた王女が思わず後ずさる。
「わたしたちと深いつながりがある人だ。だからこんなにも面立ちがジョゼフに似ているのだよ。」
父の幾分か震えを含んだ声音に、聡明な王女は、これ以上両親に質問してはならないことを悟った。
「はじめまして、ブリエ男爵。わたくしはマリー・テレーズ内親王です。見たところお年が近いようですけれど、おいくつ?」
キラキラとした瞳が矛先を変え、直接ルイ・ジョゼフに向かった。
「あ…、え…と、12歳です。」
国王に対して落ち着いて返答していた少年の声がうわずった。
「あら、そう。わたくしももうすぐ12歳よ。12月が来たらね。ナポリの男爵ということは、そちらにお住まいなの?」
好奇心でいっぱいの年頃の少女に逆らえるものはいない。
「あ…はい、以前は…。でも、今はノルマンディーにいます。」
「まあ、ノルマンディー? ねえ、ご存知?シャルルはノルマンディー公爵なのよ。おかしいでしょう、一度も行ったことがないのに…。」
王女の愛らしい笑顔に、ルイ・ジョゼフの瞳は釘付けである。
「お母さま、さっきから一言もおっしゃらないけれど、どうなさったの?」
少女は再び母を振り返った。
「ああ…、いえ、なんでもありませんよ。そう、ノルマンディーに来ていたの…ね。」
父以上に声が震えている。
しかも幾分種類の違う震えだ。
父が感動から来る震えだとすると、母のそれは怯えから来ている。
話題を振ってはいけないのだ。
王女は困惑した。

助け船はフェルゼン伯爵から出された。
「マリー・テレーズ殿下、ブリエ男爵をお庭に御案内されてはいかがですか?もちろん王太子殿下もご一緒に…。」
王妃が救われたように伯爵を見た。
「あら、素敵。ぜひ参りましょう。お父さま、お母さまはどうなさいます?」
「今日は陽差しが強いのでわたくしは遠慮します。」
王妃の拒絶は、この場の誰もが想像していたとおりだった。
「子どもだけでは心配だ。わたしは一緒に行くよ。」
国王がゆっくりと立ち上がった。
「フェルゼン伯爵、王妃を頼む。さあ、みんな、行こう。」
小さな王子が父親に飛びつき、王女は男爵の腕を取るようにして部屋を出た。

それを見送った王妃は再び椅子に戻り、深々と腰掛けると、ホーッと深い息をはいた。
フェルゼンが痛ましそうに見守っている。
「大丈夫ですか?」
「ええ…。情けないことね。お話を伺った時から覚悟はしていましたのに、いざ実際に顔を見ると…。」
「無理もありません。わたくしも初めて会った時は息が止まりました。」
「これは何かの罰なのでしょうか…。わたくしのルイ・ジョゼフは亡くなり、アンリエットのルイ・ジョゼフは…。」
王妃の目にうっすらと涙がにじんだ。
「何事も神のご意志だとは思いますが、決して罰ではありません。その証拠に、彼は皆さまにお会いできて、心底喜んでいました。どうかその純粋な思いだけを受け止めてやって下さいますように…。」
王妃はフェルゼンの心のこもった言葉にこっくりとうなずいた。






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