積年の念願を果たした小さな男爵は、放心状態でジャルジェ家に戻ってきた。
同道したフェルゼンもあえて車中で声を掛けることはしなかった。
馬車を降りたルイ・ジョゼフは、疲れていることを理由に、そのまま与えられた居室に引き上げ、フェルゼンはひとりジャルジェ将軍夫妻の待つ客間に向かった。
ジャルジェ夫人が少年の部屋をのぞきにいこうと立ち上がりかけたが、フェルゼンが引き留めた。
今はそっとしておきましょう、という言葉に夫人は素直に従った。

オスカルたちはまだ戻ってきていない。
通常の衛兵の任務をこなしてからしか帰れないのだから、これは想定済みだ。
今頃はまだアランの後ろでニヤニヤしながら宮殿警護に勤しんでいるのだろう。
案外、懐かしい部下の顔を見つけ、言葉を交わしあっているかもしれない。
そうすると、帰宅はもっと遅くなるはずだった。
フェルゼンは今回オスカルからの依頼を受けるまで、アランという男に興味を持ったことはなかった。
かつてのオスカルの部下で、今は国民衛兵隊の中枢にも顔が利く出世頭。
典型的な軍人肌で、貴族出身のくせにバスティーユ陥落の際は指揮官として攻撃の先頭に立った特異な人物。
これがフェルゼンのアランに対する認識だった。
無論、貴族から見た時、この特異という概念には、正しく裏切り者という意味が含まれている。
豪華な暮らしに慣れた大貴族には、日々の糧を得ることすらままならない弱小貴族の境遇など到底理解できないのだから、これはある意味当然の評価と言えよう。
従って今回、貴族から見た時には裏切り者であるはずのアランが、王家のまったく私的な部分に、水面下で協力してくれると聞いて、フェルゼンは少なからず驚いたものである。
本当に大丈夫かと、オスカルに何度か確認したが、オスカルは頑としてこの方法で行くと言い張った。
オスカルにとってのアランは、自分の軍務における正当な後継者であって、こちらが信頼して委託した任務は、彼自身の王家に対する感情がどういうものであったとしても、命に代えて遂行してくれる存在だった。

「成功するまでは、本当にアランという男を信用できるのか不安でしたが、こちらの想像以上に万事がうまく運びました。遠いノルマンディーでこれだけの計画を練り、実行するオスカルにあらためて敬意を表しますよ。」
フェルゼンが将軍に報告を終えたのち語った感想に、将軍は満足そうにうなずいた。
「両陛下のご機嫌は?」
夫人は自身の心配事を率直に、けれど控えめに口にした。
「国王陛下は、ご満足のご様子でした。一目見れば、その出自に嘘がないことは明らかだ、とおっしゃり、不憫なことだったとまで仰せになりました。」
いかにも善良な国王らしい感想である。
この資質が、この時代を生きる上で、最大の弱みになるのか、あるいは武器になるのか、それがジャルジェ将軍にもフェルゼン伯爵にもはかりかねる点であるのだが。

「王妃さまは?」
夫人が重ねて尋ねた。
フェルゼンの表情がさっと曇る。
「衝撃が相当大きかったご様子で、直接お言葉をかけることはなさらず、謁見のあとも、ひとりお部屋にこもられました。ご心中察するにあまりある物があり、わたくしも後ろ髪引かれる思いで御前を下がりました。」
大きなため息が夫人の口から漏れた。
母として亡き我が子と瓜二つの少年を見た衝撃はいかばかりであろう。
しかもそれが自分が放逐した女が生んだ子で、尊敬する兄の子なのだ。
ジャルジェ夫人は、ルイ・ジョゼフの聡明さが、それゆえに、一層王妃の心を締め付けただろうと想像し、深く同情した。

「王太子殿下や内親王殿下はいかがでしたか?」
突然現れた少年を子供たちはどう受け止めたのだろうか。
母の暗い表情に影響されたか、それとも父の暖かい言葉に同調したか。
「大変お喜びでした。王太子殿下は亡き兄上になさっていたように飛びついていかれ、一緒に庭を散策される間も、ずっとご一緒でした。内親王殿下も随分お話がはずんで、久しぶりに健やかな笑顔をお見せになりました。」
フェルゼンの表情が自然に緩む。
血の絆はかくも固いのだ。
生まれて初めて対面したにもかかわらず、長い知己のように語り合える関係。
笑顔が、声音が、そして瞳が、自分たちは仲間だと互いに告げるのだ。
何の先入観も持たない感性の清々しさに、一時、日頃の憂鬱を忘れることができた。
それは見ていて涙が出るような光景だったと、フェルゼンは思い返し、そのとおりに夫妻に語った。

「ただ、お気の毒でありましたのはお別れの時でした。ブリエ男爵は、これが一生で一度の面会であると知っていますが、殿下方は、今度はいつ会えるかとしきりにお尋ねになるのです。答えにつまる男爵に業を煮やして、内親王殿下はわたくしに詰め寄られました。」
困り果てるフェルゼンと少年の様子が浮かぶ。
空気を読むのに長けた王女は、再会が困難であることを察し、父王に救いを求めた。
だが、国王としても答えようがない。
このたった一回の面会でさえ、さまざまな障壁を乗り越えねばならなかったのだ。
まして身の安全を考えれば、日を置かずしてノルマンディーに帰らねばならない。
再び会える日がいつ来るのか、あるいは本当に来るのか、それは誰にもわからないのだ。

「お手紙をお書きしましょう。」
しばらくしてルイ・ジョゼフは、言った。
「何通も何通も、お送りします。ですからどうか、殿下もわたくしにお手紙を下さい。」
「わかりました。きっとよ。もしあなたから一通くれば、わたくしも一通書くわ。二通くれば二通書くわ。たくさんくださればたくさん書くわ。ねえ、ルイ・シャルル。」
姉の言葉に小さな弟もこっくりとうなずいた。
「ぼくはまだあまり長いお手紙は書けないけど、でもぼくにもお姉さまと同じだけお手紙を書いてね。お願いだよ。」
三人は固く固く約束し、そして別れたのだった。

夫人の目が潤んでいた。
そっと天井を見上げる。
この上の部屋にいるルイ・ジョゼフは、今頃どんな気持ちでいるだろう。
もう手紙を書き始めているのだろうか。
けれどもその手紙を届ける術が夫人には見あたらない。
大人の都合に振り回される子どもたち。
彼らに対し、自分たち大人はは一体何をしてやれるのだろう。

夫人がため息をついた時、屋敷が突然賑やかになった。
「ルイ・ジョゼフ!ルイ・ジョゼフ!どこだ?殿下方からお手紙を預かってきたぞ!」
オスカルの声だ。
怒鳴りながら階段を駆け上がっていく。
フェルゼンはあわてて客間を飛び出した。
同時に二階でも扉がバタンと開く音がした。
見ると、踊り場でオスカルが二通の封筒を持って手すりにもたれている。
そこへルイ・ジョゼフが駆け下りてきて、手紙に向かって手をのばした。
オスカルはひょいと手を挙げた。
ルイ・ジョゼフは、奪い取ろうと飛び上がる。
「湿気た顔をしてるじゃないか?そんな奴に渡すのは気が引けるぞ。なんと言ってもフランスの王子さまと王女さまからのお手紙だからな。」
オスカルの言葉にルイ・ジョゼフは、真っ赤になった。
「先生!じらさないで!!」
ホール中に少年の声が響き渡り、誰もが驚いた。
こんな大声が出せる子だったのか。
オスカルも同様だった。
「ふん!それくらい元気なら、受け取る資格はありそうだな。」
おもむろに手を下ろすと、すっと手紙を差し出した。
「こちらが、ルイ・シャルルさまから。そしてこちらがマリー・テレーズさまからだ。」
ルイ・ジョゼフは、手紙をしっかり胸に抱きしめると再び部屋に駆け上がっていった。

「やあ、フェルゼン。実はあれはおまえ宛の恋文なのだが、勝手に横取りした。悪く思うな。」
オスカルは、驚いた目で階下から踊り場を見上げているフェルゼンに声をかけた。
たちまちフェルゼンの顔がバツ悪そうに歪んだ。
「王妃さまの思し召しだからな。観念しろ。」
オスカルが追い打ちをかけた。
将軍がコホンと咳払いした。
気まずい雰囲気である。
だがそれも致し方あるまい。
ラ・ファイエット将軍の意向で、フェルゼンはこの時期、王妃とかなり大っぴらに交流できていた。
面会を希望する際の連絡方法も確立されていて、王妃から特定のコミューンの監視員に渡った手紙は無検閲で国民衛兵に託され、フェルゼン伯爵邸に届けられるしくみだった。
革命勢力が王妃の不倫を手助けしているような奇異な光景だが、事実である。
複雑怪奇は政治の常道なのだ。
王妃の不倫さえ、利用しようとする輩が存在するのである。
ありとあらゆる思惑が入り交じって、社会はひとつの方向に押し出されるように動いていく。
個人の意志や願いは概ね置き去られ、捨て去られて行くのも、また人の世の常であった。

とにかく、子供たちのけなげな約束にうたれた王妃は、この秘密のルートを使い、マリー・テレーズたちからの手紙を監視員に渡した。
そして国民衛兵のもとに届き、アランからオスカルに回ったのである。
こうして善意の結果ではなくとも、子どもたちの願いはかなえられた。
皮肉なものではある。
ではあるが、この世ではよくあることであり、とりあえずは結果のみを喜ぶべきこととして、ジャルジェ家に集った大人たちは受け止めた。
「お小姓の趣味といい、秘密の通信手段といい、今回は随分助けてもらった。フェルゼン、おまえの多趣味には心から感謝するぞ。」
オスカルの痛烈な皮肉に、温厚なフェルゼンはさすがに立腹したが、ニヤニヤ笑う将軍とアンドレの視線に気づき、やむなく心の中でのみの反撃に留めた。
「誰のせいだ?!」
言えない言葉を抱えた彼は、晩餐をともに、という夫人の申し出を丁重に断り、家路についた。







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