静かな夜に祈ること
(1788年12月25日)
随分と雪が降っているらしく、門番一家が雪だるまのようになって厨房にかけこんできた。
すでに他の使用人たちは皆そろっている。
ノエルの前夜、オスカルとともに教会へ、姉上たちの忘れ物を取りに行ったアンドレがなかなか帰らず、執事の判断で、ジャルジェ家の使用人達のささやかなノエルのお茶会は例年より一日繰り越されていた。
まさか、オスカルと結婚式を挙げてきたとは言えず、アンドレは、捜し物が見あたらなかった上に長い間のパリ滞在でオスカルの用がたまっていて、明け方近くまで手伝わされていたのだ、と仲間たちに苦しい嘘で言い訳をした。
もとよりよくあることで、誰も疑わず、大変だったな、と労ってくれる厩番のジャンに、アンドレは心の中で手を合わせた。
ジャルジェ家の使用人たちの中で、実家に帰らなかったものはアンドレをいれて16人である。
まずは執事のラケル。
そして侍女頭のオルガと、その夫で厩番頭のジュール。
同じく厩番のジャン。
彼は亡くなった父がやはりジャルジェ家の厩番で、小さいときから父について働いていた。
年はアンドレより10歳ほど若く、弟分のような存在である。
アンドレの嫁になることををあきらめた侍女たちの目下のお目当ては彼らしく、一緒に実家に、と何人もから誘われたが、彼はいつも通りここで過ごすよ、と笑ってすべて断っていた。
そして庭番夫婦。
こちらも長いつきあいである。
お庭好きの奥さまが女官長だったとき宮殿の庭師を務めていた男を引き抜いて、一家でジャルジェ家に呼び寄せたのだ。
子だくさんの夫婦は、喜んで移り住み、ここで5人の子どもを育てあげた、
子ども達は、今はそれぞれ独立して、夫婦は何人かの庭師を使い広い庭園の管理にあたっていた。
門番一家は代々この職を努めている。
当代は中年の夫婦と10歳の息子が番小屋で暮らしており、息子もいずれ門番になると思っているようだ。
料理長夫婦は、オルガたちと変わらぬ年格好で、夫婦ぐるみで昵懇の間柄だ。
なかなか男気のある料理長で、大勢の料理人を見事に束ねている。
この他に古株の侍女が3人いた。
いずれも独身で、生涯ジャルジェ家に尽くすと決めている。
名前はアンナ、ブリジット、レイモンド。
アンナが50代、ブリジットが40代、そしてレイモンドが30代である。
レイモンドは古株と言うのにはやや若い気もするが、15歳で奉公に来たので、経験は20年を超えている。
アンドレの姉のような感じである。
そしてばあやとアンドレ。
ばあやは在職60年を超え、当家の生き字引である。
このメンバーが毎年、厨房でささやかなノエルを過ごすのは、だんなさま夫妻も了解済みで、奥さまからは差し入れもあり、終始なごやかな雰囲気であった。
ジャルジェ家の構成員というのは、もちろん、だんなさま、奥さま、そしてオスカルをさすのだが、実は大勢の使用人たち、ことに今夜ここにいるものたちも、ある意味ではジャルジェ家の立派な構成員ではないか、とアンドレは思う。
まさに大家族だ。
16人もいるのだから。
いや、だんなさまたちを加えれば19人だ。
血縁者はおばあちゃん一人しかいない自分だが、実は大勢の身内と言える人がいる。
それが、とても幸せなことだと、アンドレは乾杯のワインをかざしながらしみじみと感じた。
「こんなに降り出す前に皆さまお帰りになって正解だったな」
ラケルがしみじみと言った。
「にぎやかで楽しかったけれど、お帰りになったらなったで、ちょっとホッとするわね」
古株のアンナが笑った。
みんながニコニコとうなずく。
「一番ホッとされてるのはオスカルさまでしょうね」
レイモンドの言葉に全員が爆笑した。
「ねえ、アンドレ。オスカルさまがパリからなかなかお戻りにならなかったのは、お姉さまたちが原因でしょう?」
「えっ?」
あまりに図星のブリジットの言葉にアンドレは言葉もない。
「まあ、そんなとこかな…」
適当に言葉を濁した。
新婚生活を楽しんでいた、ともいえるが、結婚式は昨日だったので、婚前旅行と言う方がふさわしいのかもしれない。
とにかく、二人きりで過ごしたパリの別邸での生活は、本当に夢のようだったと、アンドレはあらためて思った。
「でも、ほんとに仲の良い御姉妹ね」
料理長の女房が焼き上がったばかりの菓子をテーブルに運んできた。
「オスカルさまとジョゼフィーヌさまはけんかばっかだったよ」
門番の息子がさっそく焼き菓子に手を出し、母親にこづかれた。
10歳の子どもにも指摘されるレベルの姉妹ゲンカなのだ。
「でもね、あれはあれで仲良しでいらっしゃるんだよ」
オルガが、両の手のひらで熱い焼き菓子をポンポンと叩くようにしてさまし、門番の子どもに渡してやった。
「ケンカするほど…ってやつね。アンドレもそう思う?」
レイモンドがアンドレに顔を向けて、それから素っ頓狂な声を上げた。
「オスカルさま!」
みんなが一斉にレイモンドの視線の先を見た。
わずかに開いた厨房の入口からオスカルの金髪が見えていた。
「お嬢さま!どうなさったんでございます?」
ばあやが年に似合わぬ機敏な動作でオスカルのもとへ飛んでいった。
「ああ…。いや、なんでもないのだ」
もぞもぞとして引き返そうとするオスカルの手をつかんでばあやが中に引き入れた。
「オスカルさま、お腹がすいたの?」
門番の子どもがいかにも子どもらしく声をかけた。
「まさか…!」
大人達が笑って否定しかけたとき、
「実は、そうなのだ。ちょっと小腹が空いてね…」
オスカルはほんのわずかに顔を染めて小さな声で言った。
えっ、という言葉とともに皆沈黙した。
「まあまあ、そういうことでしたら、どうぞこちらへ…!お口にあうかどうかわかりませんけど、たった今焼き上がりましたんです」
料理長の女房がさっと大皿から取り分けた焼き菓子をオスカルに差し出した。
「ほう…。確かにいい匂いだ。いただこう」
オスカルは嬉しそうに焼き菓子を手に取った。
みなの視線が集まる中、そっと口に入れた。
「これは美味だ!」
オスカルの感想に、一同がにっこりと笑った。
「今夜はね、ぼくたちのノエルなんだよ。本当は昨日だったんだけで、アンドレが来なかったから、今日になったんだ」
門番の息子の説明に、オスカルはほう、という顔をしてアンドレを見た。
確かに、昨夜は行けなかっただろう。
何と言っても、自分と結婚式を挙げていたわけだから。
そして朝までともに過ごした。
母と姉たちの心遣いに包まれた幸せな一夜だった。
しかるに、翌朝目覚めるとアンドレの姿はなかった。
姉たちの帰宅の日であったため、アンドレは数少ない使用人として、早朝からばあやの呼び出しがかかっていたのだ。
五人分の荷物を、五台の馬車に運ぶだけで一苦労だった。
その上、夫人が娘達にもたせる贈り物が加わって、彼は何度階段を往復したかしれない。
とてもオスカルの部屋に戻る余裕はなかった。
だが、オスカルも次々に出立する姉を見送りに出たり入ったりで、忙しくしていたからアンドレの不在を意識するどころではなく、むしろ仲良く一緒にいるところを見た姉たちにからかわれないためにも、別行動は納得ずくでもあった。
だが、夜になって、いつも通りの親子三人の晩餐を終え部屋に引き上げると、急に取り残されたような寂寥感に襲われた。
うるさい姉たちが帰ってせいせいしているはずなのに、どうしてこんな気持ちになるのか。
自分でも腹立たしかった。
そしていてもたってもいられなくなってアンドレの部屋を訪ねたのだ。
だが、彼はいなかった。
うろうろと歩き回って、厨房の前で賑やかな笑い声に気づき、つい立ち聞きしてしまった。
自分のことが話題になっていて、声をかけそびれているところをレイモンドに見つかったのだ。
空腹というのは、だから真っ赤な嘘だった。
子どもの言葉を渡りに船と利用しただけだ。
だが気心の知れた古いものたちに囲まれて、できたての焼き菓子をほおばっていると、寂寥感はどこかに消え、むしろふしぎなほど満ち足りた安心感に包まれた。
ばあやや、ラケルやオルガの優しい視線が嬉しく、他愛ない侍女たちの会話が耳に心地よい。
昨夜感じた、血のつながった者達からの深い愛情と、今、全身で受け止めている、血の絆はないが長年なじんできた者達からの親愛の情は、心の奥深くにしんしんと降り積もる雪のように蓄えられて、今年のノエルを一層かけがえのないものとしてくれていた。
昨日、司祭さまの前で、アンドレが言った言葉が思い出された。
「自分にはおまえを幸せにするための地位も名誉も財産も武力もなにもない」
彼は悲愴な目をしていた。
しかし、そんなものがどうしているだろう。
幸福感を感じるのに必要なものは、アンドレの挙げたものの中にはないのだ。
今ここに集う人は自分以外すべて貴族ではない。
皆、地位も財産もない。
だが、こうしてともにお茶を飲み、お菓子を食べ、なごやかに語り合っている。
それだけで自分はこんなにも幸福だ。
互いの心の中に壁を立てさえしなければ、通じ合うのが人間なのだ。
いつか、母と姉だけではなく、父にも、ばあやにも、そしてここにいる者達すべてにも、アンドレとの結婚を知ってもらい祝福してもらえる日が来ますように…。
オスカルは静かに心の中で祈った。
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