手 紙
多忙からくる疲れに、どうにも頭が正常に機能していないことが明らかな時に限って、そ
こをフル回転させねばならないことが起きる。
その日、連隊本部の執務室から自邸までの馬車の中で、オスカルはアンドレと二人、死ん
だように眠っていた。
1789年1月1日、フランス国王ルイ16世はきたる5月1日ベルサイユにおいて三部
会を召集し開会することを布告、全ヨーロッパの眼がフランス一点に集中するなか、全土
で選挙活動が開始された。
実に175年ぶりのことであり、それはフランス国民にとってまったくの初体験とかわら
ない事態であった。
選挙に伴う混乱から、治安の維持をはかるため、軍隊に課せられた任務は日ごとに増大し
、国民同様、こちらも初体験のこととて、上層部の判断も困惑と混迷を極め、衛兵隊を預
かるオスカルも心身ともに疲労困憊の日々が続いていた。
御者に到着を知らされ、驚いて目覚めたアンドレに体をやや乱暴にゆすられてなんとか起
きたものの、まだ夢見心地で馬車を降り、部屋に向かって歩いていると、侍女がすっと近
づいてきて、
「お手紙が参っておりました。お部屋のお机の上に置いてございます」
と告げた。
空っぽの頭のまま、
「手紙?誰からだ?」
とぼんやり聞くと
「フェルゼン伯爵さまです」
と、侍女はこともなげに答えた。
「フェ…ルゼン…?」
まだ若干寝ぼけいる。
が、心の中でその名前を繰り返すうちに、次第に覚醒した。
隣にいたはずのアンドレは、いつのまにか離れていて、別の侍女と話している。
「持参された使いの方は、お返事を頂きに明日もう一度参られるとのことでございます」
「なんと…!折り返し返事が必要なのか?」
「はい。パリで急ぎの用事があって、スウェーデンからいらっしゃるときに、伯爵からち
ょうどいい、とお手紙をことづかったそうで、帰国の際にはくれぐれもお返事をとのお申
し付けだったそうでございます」
そうだった。
パリでの馬車襲撃の折りに助けてもらったまま、それっきりになっていた。
無事だったことも、その礼も伝えていない。
随分無礼な話だ。
人を疑わぬフェルゼンのことだから、知らせが出せないほどひどい状況だと心配している
のだろう。
われながらうかつだった。
だが、アンドレとのことで手一杯でフェルゼンまで気が回らなかったのだ。
すまないことをしてしまった。
ようやく正常に機能し始めた頭で、色々と思いめぐらせながら階段を上がっていると、侍
女と話していたアンドレが追いついてきて小さな声で言った。
「今日はもう遅いから部屋には行かないよ。ゆっくりおやすみ」
「えっ…?」
と、もう一度聞き直そうとしたときには、アンドレはさっと階段を下り、侍女たちと使用
人棟の方へ歩き出していた。
「どういうことだ?」
こんなに疲れているときこそ、おまえが必要なのに…と口に出しそうになって、はっと気
がついた。
部屋にはフェルゼンからの手紙が置いてあるのだ。
それを読み、返事を書かねばならない。
だから…。
だから…?
おまえはわたしの部屋に来ないというのか?
わたしは自分の気持ちにすら気づかない鈍感なヤツだが、おまえはまた、泣けてくるほど
敏感なのだな。
そういう気の回し方がかえって痛い。
かといって、ではおまえの目の前でフェルゼンの手紙を読み返事を書くというのも、それ
はそれで痛い…のかも…。
気力だけで部屋に辿り着いた。
ああ、頭痛が、と、左手でこめかみを押さえようとして、薬指の指輪に気づいた。
先日の聖誕祭に、極秘で結婚式をあげた際の銀の指輪である。
めざとい部下に指摘されたときには、姉上からの贈り物だと答えておいた。
アンドレ経由、という点が省略されてはいるが、嘘はついていない。
そうだ、晴れて夫婦になったのだ、と改めて思う。
だが、今夜は行かない、とたった今言われてしまった。
フェルゼンを恨むのは大いなる筋違いだが、恨めしさの持って行きどころが他に見つから
ず、ぶつぶつとひとりごちながら、机の上の手紙を取り長椅子に座り込んだ。
親愛なる我が友、オスカル・フランソワ、という書き出しからして、心憎い丁重さである。
紳士が封筒に入ってやってきたな、とようやく微笑が洩れた。
オスカルが暴徒から無事逃れたかどうか確認できないまま、母国を目指すことになり大変
心配していた。
帰国後はロシアとの戦争に出陣し、安否を尋ねる手紙を書く暇もなかったが、ようやく時
間ができた。
フランスでは三部会が開会されるとの噂を聞いて、混乱の中で、軍属のオスカルがどうし
ているかと案じていたところ、折良く知り合いの商人がパリへ行くと聞き、手紙をことづ
けることにした。
忙しいとは思うが、彼に返事を渡して欲しい。
との内容が、押しつけがましくなく、上品なフランス語で述べられていた。
ひとことも触れてはいないが、未曾有の歴史的出来事の中で王妃の立場を憂慮するフェル
ゼンの思いがあふれていた。
以前なら、彼の自分に対する思いやりに喜びを感じつつ、王妃への熱い思いも察せられて
切ない時間を過ごしたことだろう、と冷静に想像できた。
というよりも、フェルゼンからの手紙を受け取る前に自分から謝礼の手紙を即刻したため
ていたはずだ。
忘れていたなんて…!!
とりあえず言い訳を並べてみる。
まず、襲撃されたアンドレがひどい状態だった。
とても手紙どころではなかった。
次にアンドレが回復と同時に失踪した。
考えるのも恐ろしい孤独の時だった。
そして、戻ってきたアンドレに思いをぶつけ…。
世の中の色が違って見えた。
ようやく落ち着きかけたところで休暇、のはずが、ディアンヌの一件でパリ滞在となり、
そこでアンドレと一夜を…。
心身ともに生まれ変わったのだ。
さらに戻ったベルサイユではノエルの夜に教会でアンドレと結婚式を…。
母上、姉上のご厚情で、極秘とはいえ、神の前で永遠の愛を誓った。
手紙を書く暇もそれを思いつくゆとりもなかった。
言い訳の全項目にアンドレの名が上がっていることには、気づかない。
とにかく大変だったのだ。
フェルゼンへの報告を忘れきってしまうほどに…。
だが無礼も無礼、非礼も非礼、まっとうな貴族として、軍人として、また、人間として
失態である。
たとえどんなに疲れていても今日は返事を書かねばなるまい。
オスカルは軍服の詰め襟をはずし、ふーっと一息つくと、両袖机の引き出しから上質の
紙を取り出した。
そして机上の羽根ペンにインクをつけると、一気に返事を書いた。
1 オスカル