「今日の夜勤は何班だったかな?」
オスカルはごく自然に、どちらにいうでもなくつぶやいた。
「えっ?」
フェルゼンはあせった。
そんなもの知るわけがない。
「今夜は2班だ」
アンドレはよどみなく答えた。
「ああ、そうそう、二班だった。フェルゼン伯爵、よくご存知ですね」
フェルゼンはその場しのぎで乗り切ろうとした。
だがこれはほんの小手調べだったのだ。
オスカルの本領はこれからだった。
「ロザリーの亭主の名前、何だったかな」
ロザリーって結婚してたのか?
フェルゼンはあせりまくった。
そういえばポリニャック家の娘がどこかの大貴族に輿入れするという話が以前あった。
だが、あの縁談は破談になったように思うが…。
頼りない記憶の糸を懸命に探った。
「ベルナール。ベルナール・シャトレ」
アンドレがすんなりと答えた。
誰だ、それ?
フェルゼンは首をかしげた。
そんな名前は聞いたこともない。
目を白黒させているフェルゼンに、オスカルの鋭い視線が寄せられた。
「職業は?」
二の矢がとんだ。
貴族ではないのか?
いやしくもポリニャック家の令嬢だろう。
職業を持った男と結婚したのか?
それとも軍人か?
フェルゼンは見当も付かない。
「新聞記者だ」
またもやアンドレがスラスラと答えた。
オスカルはアンドレにだけ視線を移した。
そして、一瞬、言いよどみ、それから思い切ったように言葉を発した。
「ベルナールに遺恨はないか?」
アンドレは、思わぬ質問に息を呑んだ。
フェルゼンも、想定外の質問に息を呑んだ。
アンドレはロザリーに惚れていたのか?
そこをベルなんとかに横取りされたのか?
ベルなんとかとアンドレとロザリーは三角関係だったのか?
頭の中をたくさんの疑問符が飛び交い、思考をまとめきれない。
だが、男として、惚れた女が別の男を選び結婚してしまったのなら、潔くあきらめるしかあるまい。
遺恨など、肝の小さいことだ。
自分は十数年、惚れた女性をあきらめきれず不倫し続けていることを完全に棚上げして、フェルゼンは、今度こそアンドレより先に答えなければまずいと思い、決死の覚悟で返答した。
「まったくないぞ。俺はあきらめの早い男なんだ!」
だが、オスカルはフェルゼンの方を振り向きもせずアンドレを見つめていた。
アンドレはゆっくりと口を開いた。
「あれは…、不幸な偶然だった。ベルナールにとっても俺にとっても…。ただ、もしその中に神が幸福をわずかばかり加味してくださったのだとすれば…」
少し言葉を切り、そして続けた。
「これがおまえの目でなくて良かった、ということだ」
人の罪を裁けるのは、神だけだ。
もし人が人を裁けるならば、自分は誰よりも先に、おまえによって裁かれなければなるまい。
あの夜のことを…。
アンドレはフェルゼン同様、けれど全然別の意味で言い切った。
「一切の遺恨は…ない」
オスカルはアンドレの眼を見つめた。
無論、その眼は見た限りにはフェルゼンの両目なのだが…。
「アンドレ…」
オスカルは、見た目フェルゼンに対して、はっきりと、アンドレ、と呼んだ。
その間、フェルゼンの頭はパニックをおこしていた。
何と言うことだろう。
アンドレの眼のけがは、ベルなんとかとの決闘のせいだったのだ。
ロザリーをはさんで、二人は決闘に及んだのだ。
ああ!なんという騎士道!
だが、その結果アンドレは敗北し、片眼を失い、ロザリーも失ったのだ。
なんとあわれな…。
それならば、本当にフェルゼン家の侍女を紹介してやろう。
ロザリーに似た侍女はいただろうか…。
フェルゼンが荒唐無稽の妄想にとらわれているのを完全に無視して、オスカルは判決を下した。
「どうやら、奇跡がおきたらしい。アンドレ、おまえの言うことを信じよう」
アンドレは、ほーっと大きく深呼吸をした。
「とすると、こっちはフェルゼンということになるが…」
オスカルは幼馴染みの風体の男をにらみつけた。
その眼光に、一気に妄想世界から引き戻されたフェルゼンは、じりじりと後退した。
「いや、その…」
「フェルゼン!」
「伯爵!」
オスカルとアンドレはフェルゼンを同時に怒鳴りつけた。
「すまん!悪気はなかったのだ」
フェルゼンは降参のポーズで両手を挙げた。
「悪気がなければなんなんですか?!」
アンドレは言葉だけは丁寧に、しかし相当な迫力でフェルゼンに迫った。
「刺激がほしかったのだ…」
フェルゼンがポツリと答えた。
「刺激〜!!」
フェルゼンが二人の勢いにあとずさりした。
「おまえ、本気で言っているのか?」
「いや、その…。以前入れ替わっていた3日間は、たまらなく疲労感でいっぱいだったのだが、沸き上がるような興奮もあって…」
オスカルは、信じられない、という顔でフェルゼンを見た。
悪い男ではない。
それは自分が一番知っている。
正義感があり、誠実で、思いやりもあり…。
ああ、報われぬ不倫の愛は、こんなにも人の心をむしばむのか…。
他国の王妃との不倫以上に刺激的なことなどあろうはずもないのに…。
オスカルは、この初恋の男が不憫でならなくなった。
だが、オスカルは不憫ですむが、アンドレはそれではすまない。
オスカルの手前かろうじて耐えたが、はらわたが煮えくりかえる思いだ。
一刻も早く元に戻ろう、と一歩前に踏み出した瞬間、アンドレはフラフラとその場に倒れ込んだ。
「アンドレ!」
オスカルが大声で叫んだ。
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