−1−
衛兵隊に三日間の休暇が与えられた初日、アランは珍しく実家に帰った。
ディアンヌが医師のところに住み込んでからというもの、どうにも足が家に向かわなくなっていて、たまの休暇も営舎に残ることが多かった。
ひとり家で待つ母に悪いとは思うものの、帰ったところで会話があるわけでもない。
それなら、休日勤務をして少しでも手当を稼ぎ、家に入れる方が親孝行だ、という身勝手な理屈をつけて、いつも自分を許していた。
だが、今回は、帰ろうと思った。
ただその理由は母のためではなく、あの人のために、いや、正確には、自分のためにだったが…。
パリの路地裏の実家には、案の定、母がひとりでいた。
役人の娘に生まれ、兵士と結婚し、平凡な家庭を築いてきた彼女の人生の大きな転機は、七年戦争で戦功を上げた夫が貴族に列せられたことだった。
そのときの晴れがましさを彼女は幾度となく子どもたちに語って聞かせたものだ。
だが、皮肉なことにこの戦功をあげた際の傷がもとで、まもなく夫は二人の子どもを残して亡くなった。
収入源をたたれたのに、貴族という体面だけが残された。
命と引き替えの報奨金と、父が残した多くはない遺産で、なんとかアランの成人まで持ちこたえ、はれて陸軍士官学校を出た息子が衛兵隊に下士官として勤務するまでにこぎつけた。
これでどうにかこうにか生活の目処がたつ、と安心した矢先、上官が面会に来たディアンヌに狼藉を働きかけ、アランはその顎を砕いた。
当然降等処分という決定が下され、彼は一兵卒に落とされた。
彼女の一縷の望みは絶たれた。
1781年に出された法則で、4代以上続いた家柄でなければ一切の昇進は認められなくなっていたのだ。
そこにもってきて先日のディアンヌの破談である。
この縁談は、貧しいとはいえ、代々続いた貴族とのものであったから、その縁戚につらなることで、なんとか貴族の体面も保てるだろう、との母の最後の賭けのようなものだった。
母の心中をおもんぱかると、兄妹そろって合わせる顔がない、というのがアランの本音だった。
古びた家の扉を開けると、すぐに居間があり、母は突然のアランの帰宅に驚いて、揺り椅子から立ち上がった。
「アラン、どうしたの?」
と聞く母の声が、いつもと違っていた。
前はもっとくぐもった小さい声だった。
何かを背負い、ただひたすら耐えている、という声だった。
だが、今日、久しぶりに聞く母の声は、まだ自分が小さくて、父がいたときのものだった。
「アラン?」
何も答えない息子に母がもう一度問いかけた。
「急に休暇が出たんだ。たまには帰って、ディアンヌの様子でも見に行ってやろうかと…」
取り繕うようにアランは答えた。
「そうだったの。ディアンヌなら、とても元気にしていますよ。あなたが顔を出してやれば、どんなに喜ぶでしょう」
母がにっこりと笑い、揺り椅子に座り直した。
この笑顔も本当に久しぶりだった。
ディアンヌの結婚が決まった頃、ほっとしたように笑うことはあったが、こんなに暖かな生き生きとした笑みではなかった。
「なあ、何かあったのか?」
遠慮がちにアランが聞いた。
「何かって?」
「いや、何もなければいいんだ…」
変なことをいう子ね、という風に母が首をかしげた。
こういう仕草がディアンヌに似ていることに、アランは初めて気づいた。
母娘だから似ていて当然なのだが、今までそのように感じたことはなかった。
デイアンヌがあまりに生き生きとして明るく、母があまりにも忍び耐えて暗かったから…。
アランが降等処分になってからは給料が格段に下がり、それまで雇っていたメイドにも暇を出し、家事はディアンヌがするようになっていた。
買い物をし、洗濯をし、掃除をし、料理をし、とディアンヌの日常は忙しく、クルクルと働いていた。
母は、曲がりなりにも貴族なのに…と散々文句を言っていたが、ディアンヌは、働くことが好きだった。
労働をみじめだとは決して思っていなかった。
ラソンヌ医師のところで働くようになり、それなりの報酬を得るようになって、一層生き生きとしていた。
この前の面会日に来たとき嬉しそうに隊長に報告していたことをアランは思い出す。
だが、ディアンヌが不在となったこの家で、残された母が家事万端をひとりでどうやってこなしているのか。
ディアンヌ任せで、日がな揺り椅子に座って、己の不運を嘆いていた母である。
放ったらかしにしておいて、今さらとも思うが、どうやって暮らしているのだろうか、無性に気になった。
見回してみると、家の中はこぎれいに片付いており、揺り椅子の前のテーブルには、お茶のセットなども置かれ、豊かとはいえないが、落ち着いた暮らしぶりが伺える。
「またメイドをやとったのか?」
アランが聞いた。
休日出勤手当がついて自分の給料も少しではあるが増えている。
その上、デイアンヌも働くようになって、いくばくか家に入れているはずだ。
母ひとり分の生活費をひいても、通いのメイドくらいは雇えるようになったのか、と思ったのだ。
だが、答は違った。
「まあ、そんなもったいないこと、しませんよ」
「じゃあ誰が家の中のことを?」
「私に決まっているじゃありませんか」
「え?おふくろが?」
「そうですよ。何を驚いているの?」
「いや、だって前は貴族の体面がって、あんなに家事をするのを嫌っていたから…」
母は、一旦うつむき、それからしっかりと顔をあげた。
「やめたんです」
「やめた?何を?」
「貴族ってことを」
「え?」
アランは意味がわからなかった。
ポカンと口をあけて黙った。
母が笑った。
「だって馬鹿馬鹿しいでしょう。あの人が命と引き替えにもらった貴族の称号だから、守っていかなくっちゃ、ってずーっと思ってきたけれど、そんなもの、この20年間、なんの役にも立たなかった。むしろずっとずっと重荷でした。それにもともとが貴族じゃなかったんですもの」
その通りだ。
この、なんの実質的利益ももたらさぬ称号のために、つまらない見栄を張らねばならず、それゆえ出費はかえってかさんだのだ。
ソワソン家には生まれながらの貴族は一人もいない。
父が貴族に列せられたのは、光栄かどうかは知らないが、降って湧いたような災難だったとも言える。
だが、一体全体、どういう心境の変化なんだ?と、アランには釈然としない。
「ディアンヌがお世話になっているところのクリスにね、言われたんですよ。死んだ貴族と生きている人間と、どちらになりたいんですかって」
死んだ貴族…まさに母のことだ。
なんと言い得て妙であることか。
確かに母は貴族であろうとして、死んだように暮らしていた。
「あなたは軍隊から帰らない、ディアンヌも先生の所から戻らない。一人になって、寂しくて、空しくて、どうしようもなくなって、デイアンヌではないけれど、私の方が死にたくなりました。なんにも食べる気がしなくて、ただぼんやりして…。でもやっぱりディアンヌのことが心配で、様子を見に行きました。そしたら、あんなに辛い目にあったディアンヌが笑ってました。生まれたばかりの赤ん坊を抱いて、私に見せて、たった今、私がこの手で取り上げたのよって…。笑ってたけど、目には涙が一杯だった。私、誰かの役に立ったのよって」
そういえば面会日でディアンヌが言っていた。
出産に立ち会った、と。
そのときのことか、とアランは思った。
「ああ、この子ももう大丈夫って思ったら、身体の力が抜けて、涙がポロポロとこぼれて…。そんな私にクリスが言ってくれたんです。この赤ん坊ですら、生きた人間です。でも、あなたは死んだ貴族ですよって。死にたいなんてお笑いぐさですよね。もうすでに私は、生きながら死んでいたのですから。貴族だ、ということにこだわって、体面ばかり気にして…。ひとりでは何も出来ない人間になっていたのです。誰かの役に立つなんて決してしてこなかった。それでね、どうしたら生きた人間になれるかしら?ってクリスに聞きました。そしたら、自分のことは自分でしなさい、って」
これはまた、なんとシンプルな回答だ、とアランは目を見開いた。
「ディアンヌがいなくなって、身の回りのことをしてくれる人がいなくなって、ちょうどいい機会でしょう。朝起きたら、自分で水をくんで顔を洗う、材料を買ってきて、自分で自分の食べるものを作る、それが生きるってことですよ、って。あの人、若いのに、なんてしっかりしているんでしょうね。今では彼女の方こそ、先生と呼びたいわ」
そういうと母は立ち上がり、台所へ入っていった。
しばらくして、お湯を持ってきた。
そして、テーブルの上のティーカップを並べ、茶こしに紅茶の葉を入れると、高い位置からお湯を注いだ。
「こうして入れるととてもおいしいのよ。さあ、どうぞ」
アランは母が入れたお茶を久しぶりに飲んだ。
今までの人生で一番おいしいお茶だった。
「ほんとにうまいや」
ぽつんと言うアランに、母はほらね、と笑った。
アランも一緒に笑おうとしたが、頬が引きつり、どうしても笑えなかった。
それを隠すために、勢いよく立ち上がると
「ディアンヌのところに行ってくる」
と、無愛想に言った。
その後ろ姿に、母は
「夜はこっちに泊まるんでしょう?夕食、作っておきますよ」
と優しく声をかけた。
「ああ、毒味してやるよ。だが、まだ死にたくねえな」
扉を開け、立ち止まったアランは振り返らずに返事をし、外に出た。
憎まれ口を叩く息子におかまいなく母は続けた。
「ディアンヌも誘ってみてちょうだい。久しぶりに家族で一緒に食事をしましょう」
どんよりとしてまぶしくもないのに、畜生、なんで涙が出るんだろう、とアランは乱暴に扉を閉めた。
※百合忌とは、当サイトとリンクして頂いているちまさまのサイトで、アランへのあふれる愛をもとに命名された、6月の別名です。詳細はちまさまのサイトにてどうぞ。