追 想
ラソンヌ医師は診察室の椅子にかけ、ゆっくりと目の前の男に声をかけた。
「オスカルさまのご様子は?」
「はい、昨日は、かなり快復して、食欲もあったようです」
「そうか。ではやはり疲労だろう。とても病人には見えない眼光の鋭さだったからな」
オスカル、おまえはなんの罪もない先生をにらみつけていたのか、とアンドレはため息が
出た。
衛兵隊に与えられた3日間の特別休暇は、当然オスカルとアンドレにも与えられた。
アンドレは、めずらしくオスカルに晩酌を許可し、十分な睡眠時間を確保してやった。
そして、自身は夜明け前に起き出し、休暇の日のジャルジェ家における仕事を迅速に片付け、馬をとばして医師のもとを訪れたのだ。
オスカルから聞いた診察結果が本当に正確なものなのか、医師の口から直接確認を取らなければ、到底納得できなかったからだ。
だが、どうやら、十分に診察できたわけではないらしいことが、医師の口ぶりから察せられた。
「疲労ということは、病気ではないわけですね?」
しつこいと思いつつ、再度尋ねたとき、クリスが、患者の来訪を告げたので、アンドレは一旦廊下に出た。
診断に変わりはないようだが、不安は完全に払拭しなれければ、わざわざ昨夜、オスカルに酒を勧めてしっかり眠らせてまでパリに来た意味がない。
目の前を子どもを抱いた若い父親が通り過ぎ、ノックののち、診察室に入っていった。
自分よりも五つ六つ若いだろうか。
母親ではなく、父親が連れてきているのが少し珍しい気もしたが、具合の悪い子どもを抱
くのは結構体力仕事だから、それはそれで自然な姿なのかもしれない、などとアンドレは
ぼんやりと考えていた。
それから貴族のお抱え医師でありながら、こうして平民を診察している医師はめずらしい
、ということに気づいた。
市井の医師をだんなさまがわざわざお抱え医師にしたのか、それとも、お抱え医師が診
療所を開いたのか、どうだったのだろう。
長いつきあいでありながら、今まで思いもしなかった。
比較的短時間で診察が終わったらしく、親子はすぐに出てきた。
それを横目で見送って、アンドレは再び診察室に入った。
「帰らなかったのか?何度聞いても現時点での診断に変わりはないぞ」
つれない口調に不似合いの優しい目で医師は言った。
「申し訳ありません。大丈夫だ、という保証がないと、心配で…。先生のお立場で、そのよ
うなことが軽々に言えないことはわかっているのですが」
「ふむ。大丈夫と保証したいのはやまやまだが、そのためにはもう少ししっかり診察せんと
な」
医師としては至極当然の返答だった。
「まあ、頑固なのはお血筋だから、おまえがそばで気をもむのもわからんではないがな」
やれやれ、という風にもらした医師の言葉に誘われるように、アンドレは尋ねた。
「先生はだんなさまと随分長いお知り合いのようですが、いつからジャルジェ家に?」
この問いは医師にとっては意外なものだったようで、しばらく間が開いた。
医師は目がねをはずし、ポケットからハンケチを取り出すと、ゴシゴシとふいた。
「そうだな。もう40年以上になる」
意外なほどの長さだった。
アンドレは正直に
「そんなに?」
と言ってしまった。
自分がジャルジェ家に来たときから、医師といえばこの人だったことを思えば、ゆうに20年を
こえていることは予想できたが、40年とはまた想定外だった。
興味本位で人の過去など聞くべきではない、という人間としての礼儀をわきまえているはずの
アンドレではあったが、俄然目の前の、一目見れば偏屈な老人、つきあえばなかなかの好
々爺である人物の来し方を知りたいという気持ちを抑えがたくなった。
「いったいどのようないきさつでジャルジェ家にいらっしゃるようになったのですか?」
「そんなことを知ってどうする?」
冷たく返され、それもそうだ、とアンドレは謝罪した。
差し出がましいことをお聞きして申し訳ありませんでした、と頭を下げるアンドレに、医師は、正確な診断が下せん詫びの変わりに聞かせてやろう、とポツポツと語り始めたた。
時は1740年代前半。
「まったくあのときの奥さまのおふるまい見事だった」
医師は、心から感に堪えたように言った。
ああ、出逢いからして、主導権は奥さまにあったのだ、と、アンドレは思った。
あの誇り高い軍人のだんなさまが、往来で喧嘩し、あげくに怪我して、それを見るもたおやかな令嬢に介抱されて、と想像するだけで、心中どれほどくやしかったことだろう、と同情を禁じ得なかった。
「あとになって、奥さまはあのとき、たまたま近くの教会に慰問いらしていたのだと聞いた。ベルサイユのジャルジェ邸では先代の伯爵夫妻が、見た目に似合わず肝の据わった息子の恩人の令嬢をことのほかお気に召して、まもなくご結婚の運びとなった。どうやらそのまえからお二人は顔見知りだったらしい。とんとん拍子に話が進んだのだ。そしてわしは、新婚のご夫妻のご厚意で、ジャルジェ家のお抱え医師に見習いに入ることが許された。思わぬ形で医師になる夢がかなったのだ」
そういう事情だったのか、とアンドレは黙って聞いていたが、まだいくばくか疑問が残る。
お抱え医師になったのなら、バリで開業する必要はない。
大貴族のお抱え医師として生活は完全に安定したはずなのだから。
「なぜ、ジャルジェ家のお屋敷に常駐しておらんのか、という顔だな」
医師は笑った。
「先代のお抱え医師とわしと、二人も医師がいるほど、ジャルジェ家は病弱ではない。暇でな。臨床経験が少なければ、判断力も腕もにぶる。それで、パリで開業させてほしい、と願い出た」
普通のお抱え医師とは比べものにならないくらい、ラソンヌ医師の経験は豊富で、腕もいいことは、アンドレ自身が失明から救ってもらったのだから、誰よりも知っている。
「一旦、パリで医院を開くと、患者がついてしまい、先輩が亡くなっても、お抱え医師に専念するのがしのびなくなった。それで無理を承知でお願いしてみたのだ。将軍は、不思議なことを言う奴だ、と思われたようだが、奥さまは好きにしなさい、と言って下さった。それで、今もってこうして二足のわらじをはいていると言うわけだ」
医師は静かに語り終えた。
思い過ごしかも知れないが、医師が「奥さま」と言うとき、他にはない優しい響きが伴う気がした。
老医師が、生涯妻を娶らなかったことを、アンドレは思い出した。
もしかして先生は、ずっと奥さまを…というなんの根拠もない直感的想像が頭をよぎった。
パリのカフェで、喧噪の中に、白いハンケチをすっと差し出した若い奥さま。
田舎から出てきたばかりの医師志願の若者にどのように写ったことだろう。
だが、心に棲み着いた憧憬は決して口には出せなかったはずだ。
美しい令嬢は、若者が助けた青年貴族の妻となったのだから。
お抱え医師として同じ屋敷に住む、ということは、新婚の二人を眼前に見るということだ。
それはあまりにつらいことだったにちがいない。
しかし、長年の夢である医師になる千載一遇のチャンスを逃すわけにはいかない。
さらには、たとえ生涯かなわぬ思いだとしても、医師として、密かにお守りすることはできる。
アンドレは、医師がパリに住んだ真の理由に思いを馳せた。、
しかし、それは聞くべきことではない。
こうして40年以上も前の出逢いを語ってくれたことすら異例だ。
まして医師の恋情は、単なる自分の思い過ごしかもしれないのだから。
だが、なぜかアンドレは、老医師の片恋を確信していた。
身に覚えがあるからか?と自問する。
決して口に出来ぬ想いを抱きつつ、傍らで見守り続ける日々。
40余年にはついぞ及ばぬが、自分もまた20余年をそうして過ごした。
違いは、相手が人妻ではなかったこと。
やがて想いが届いたこと。
それは奇跡でさえあったが…。
もしかしたら、医師の方も、同じ匂いを感じて、自分に語る気になったのかもしれない、とアンドレは思った。
「おまえにつられて、要らぬことを話した」
医師は少し決まり悪げに立ち上がり、窓辺に立った。
「出逢いとは不思議なものですね」
アンドレも立ち上がった。
「アンドレ、この休暇の間に、クリスをお屋敷にやる、というのはどうだろう?」
「え?」
突然の話題の変化にとまどいながらアンドレは医師を見つめた。
「クリスは随分腕をあげた。わしのあとはあれに、と思っている。オスカルさまも、女性同士、心やすく診察を受けてくださるのではないか?」
「先生…」
アンドレは不覚にも目頭が熱くなった。
クリスがオスカルを診察する。
女性が女性を診察する。
それならばどんなにオスカルにとって有り難いことだろう。
「わかりました。ぜひお願いします。先生、ありがとうございました」
帰路、馬上のアンドレは、何かとても暖かな贈り物をもらったような思いでいっぱいだった。
細く長い恋を、静かに抱き、深い憧憬とともにその女性の幸せを祈り続けた医師。
その女性の夫にも、二人の間に生まれた娘にも、変わらぬ愛情を持って接し、自身が出来うる最大の配慮を、さりげなく差し出す医師。
だれにも知られずだれにも気づかれず…。
そういう愛もあったのだ。
アンドレは、もしかしたら自分もその道を行かねばならなかったことを思い、さらにはその道の苦しさに絶えかねて、許されざる行為に走りかけた己を恥じ、今神から与えられた恩寵に報いる唯一の術として、命をかけてオスカルを守ることを、あらためて誓った。