ジョゼフィーヌへの対抗心で、精神的にはすぐに立ち直ったオスカルだったが、ベルサイユ宮殿内の衛兵隊舎から自邸まで馬車に揺られてきたのだから、体力的には相当こたえているはずだ、とのクリスの忠告を受けて、ジャルジェ夫人のみを残して姉たちはオスカルの部屋を辞した。
それから、とりあえずパリへ戻るというクリスを三人で玄関まで見送り、その後姉妹はマリー・アンヌの部屋に集合した。
ジャルジェ家の使用人の半数以上は退職させたので、こうして部屋に引き上げても、お茶も出てこない。
オスカルの妊娠を秘すため、自分たちも婚家からの使用人は連れてきていない。
人の目や耳を気にする必要がなくて、密談にはもってこいだが、実生活としては何かと不便である。
「わたくしたちもそろそろ潮時ね」
マリー・アンヌが長椅子にゆったりともたれながら言った。
「思わぬ里帰りで、楽しめましたけれど、もう充分ですわね」
カトリーヌが同意する。
「オスカルが戻ってきたのなら、もう心地よい空間ではなくなってしまいましたし…」
ジョゼフィーヌの辛辣な言葉に姉二人はクスクスと笑った。
オスカルが無事に帰ってこられるよう誰よりも奮闘していたのはジョゼフィーヌだ。
彼女がクリスのパトロンとして、絶対の信頼を勝ち得ていたからこそ、今回のことは極秘裏に運ぶことが出来た。
愛息シャルルの突然の発熱のときも、婚家と実家を何度も往来し、五女の身を心配する母に疲れた顔を絶対見せずに乗り切っていた。
こちらはマリー・アンヌとカトリーヌの二人でなんとかするから、と言っても聞かなかった。
天敵というのは、案外最強の味方になるのかもしれない。
「アラスの方には、とりあえず転居延期を伝えてあります。ただし、いつ行っても不自由なくお父さまたちがお暮らしになれるよう、準備は怠りなく整える旨、書き添えました」
「ならば一安心ですわね」
カトリーヌがマリー・アンヌの言葉を受けた。
「でも、いつ出発できるのでしょうね?」
ジョゼフィーヌが腕を組んだまま室内を歩き回る。
「あの調子では、長旅は到底無理でしょうし…。本当に無自覚な子なんだから…!」
きつい口調で末妹をとがめるジョゼフィーヌを目で追いながらカトリーヌは誰ともなくつぶやいた。
「お父さまも除隊なさってからいつまでもここにお留まりになるのはおつらいでしょうに」
「そうね。でもお母さまがあの状態のオスカルを置いて行かれることはあり得ないし、そんなお母さまをお父さまが置いて行かれるとも思われないわ。ここはしばらく様子見ということにするしかないでしょう」
マリー・アンヌが当座の予定を提示した。
無論二人の妹に異論はない。
「わたくしたち三人にひとりで匹敵する世話のやける人が帰ってきたのですもの。長居は無用ね」
オスカルは昔から手のかからない子だったように記憶しているけれど、と思いつつ、カトリーヌはあえてジョゼフィーヌに反論せず、ただ、ちょっとだけオスカルに援軍を送ってやるつもりで言葉を返した。
「でもオスカルは専用の世話係を連れて戻ってきたのだから、他の使用人にそれほど負担が行くことはないのではないかしら。ねえ、マリーお姉さま?」
わざと話をマリー・アンヌに振ったカトリーヌの好意をまるで無視してジョゼフィーヌは声をとがらせた。
「アンドレは、今回のことでばあやから山のようなお説教と膨大な仕事を言いつけられるに決まっているわ。その上にオスカルの世話まで引き受けたら、彼の方が寝込まなくっちゃなりませんことよ」
ジョゼフィーヌにしてはなかなか見通しがいい、とマリー・アンヌは感心した。
今回ばかりは、マリー・アンヌもジョゼフィーヌに賛成である。
それでなくとも、衛兵隊舎で、オスカルの体調の変化を誰にも気づかぬよう細心の注意を払ったはずのアンドレの心労は察するに余りある。
この上、自邸に戻ってまで仕事仲間に秘密を持たせるのは酷だと思ったからこそ、マリー・アンヌは泣いて馬謖を斬る決断をしたわけで、アンドレにはどんなに労ってやっても足りないと思っている。
「そうね。アンドレが寝込まなくてもいいよう、わたくしたちは早々に引き上げましょう」
使用人の減った屋敷で、いかに娘とはいえ、三人もの客が長逗留するのは迷惑であろう。
オスカルの帰宅を機に、今夕にでもおのおの自邸に引き上げようということで話はまとまった。
「では、最後のお茶くらいは頼んでもいいかしら?」
ジョゼフィーヌが卓上の呼び鈴を振った。
するとほぼ同時に扉が開き、オルガがお茶のセットを持って入ってきた。
「あら、まあ!」
ジョゼフィーヌが素っ頓狂な声を上げた。
マリー・アンヌとカトリーヌもポカンと口を開けている。
「こちらちにお集まりと聞きましたのでお茶をお持ちいたしました。ご不要でしたでしょうか?」
オルガが、思わぬ貴婦人たちの反応にちょっと驚きながらマリー・アンヌを見た。
「オルガ、素晴らしいわ。たった今、お茶をお願いしようと思ったところだったの」
「ねえ、あなたにはわたくしたちの心の声がきこえるのかしら?」
「本当に見事なタイミングだわ」
三姉妹から口々に賞賛されながら、オルガはてきぱきとお茶を卓上に並べていった。
「ステキな香り…」
ティーカップに顔を近づけジョゼフィーヌがつぶやいた。
「オルガ、色々とありがとう。まだこれから一層お世話をかけますが、よろしくね」
カトリーヌがカップを手に取りながら言った。
「なんなりとお申し付けくださいませ」
オルガは動きをとめることなく返答した。
「あのね、オルガ。もうこれからわたくしたちが何かを申しつけることはないのよ」
マリー・アンヌがまっすぐオルガを見た。
オルガの動きが止まった。
「このお茶を頂いたら、わたくしたちは引き上げます」
「まあ…!」
オルガは驚いて、手にしたティーポットを一旦テーブルに置いた。
「お父さま、お母さま、そしてオスカルとアンドレをよろしく頼みます」
オルガは両手を胸の前で組んだ。
6月23日にお三方が突然起こしになってから、すでに20日近い日々が経っていた。
その間、ジョゼフィーヌさまは何度か行ったり来たりなさったが、あとのお二方はずっとこちらに滞在なさっていた。
しかも突然のだんなさまの辞職に、引っ越し準備。
大わらわの中、同僚達が多数去っていった。
そして、マリー・アンヌさまからの衝撃の告白。
オスカルさまとアンドレが結婚していて、おめでただ…と。
長いお屋敷勤めの中でも、ちょっとあり得ないほど激しく物事が動いた日々だった。
普通なら、屋敷内が困惑と不安でガタガタになるところ、すべてが流れるように自然に運んだのは、すべてこの方達がいらしたからだった。
「マリー・アンヌさま、カトリーヌさま、ジョゼフィーヌさま。本当にありがとうございました」
オルガは三人の貴婦人に向かって順番に頭を下げた。
「わたくしには難しいことはわかりませんが、本来ならアンドレはお手討ちものだったはず。それがこうして何のおとがめもなくて…。ばあやさんもどんなに喜んでいることか…」
オルガは胸がいっぱいになり、次の言葉を続けられなかった。
カトリーヌがオルガに自分の高価なハンケチを差し出した。
「オスカルが人並みのことをしようと思うと、どうしてもアンドレが必要だってことなのよ。結局、あの子の人生丸抱えになっちゃって、アンドレには本当に気の毒だと思うけど、これはもうあきらめてもらうしかないわ。オルガ、その辺のことも含めて、あの二人のこと面倒見てやってね」
ジョゼフィーヌの痛烈な言葉にオルガは泣き笑いの顔になり、普段なら決して受け取らないカトリーヌのハンケチで、つい涙をふいてしまった。
「皆さまがお帰りになったら、どんなに寂しくなりますでしょう。どうぞまたいらしてくださいませ。使用人一同、心からお待ち申し上げます」
「あら、だめよ。オスカルがいるのですもの。わたくしは当分来ないわよ」
にべもなく拒否する妹を制してマリー・アンヌが場を納めた。
「また来るとしたら、何かあったときだから、ジョゼフィーヌの言うようにこのまま来ることがないよう、祈りたいわ」
マリー・アンヌは予言者のようだ。
「とりあえずしばらくは平穏に過ぎて欲しいものですね」
カトリーヌがうなずきながら言った。
「あの子がおとなしくしていてくれればね…」
ジョゼフィーヌが大げさにため息をついた。
だが、たとえオスカルがどれほどおとなしくしていても、このフランスで何事もなく、ということはもはやないのだ、ということを姉妹は知らない。
1789年7月10日の午後、ベルサイユのジャルジェ家では穏やかなお茶の時間が名残惜しげに過ぎ、その後、姉妹はそろって実家を去った。
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