アンドレが祖母の部屋をのぞくと、臥せっているとばかり思っていた彼女は、揺り椅子に座って元気に編み物をしていた。
やや拍子抜けしていると、彼女は久しぶりに帰った孫を、小さな身体に似合わぬ大声で怒鳴りつけた。
曰く、大切なお嬢さまとそのお子様を命の危険にさらすとは何事か、というのが第一点。
続いて、お屋敷に戻ったのなら、いの一番に訪ねるべきは、ここではなくだんなさまの所であろう、というのが第二点。
そして使用人が半分以下に減ってしまった責任はすべておまえにあるのだから、一人頭にかかる負担が倍増した仕事を、誰よりもおまえがかぶれ、というのが第三点だった。
どれもいちいちごもっとも、とアンドレはすなおに頭を下げ、うんうんとうなずいた。
怒られている自覚があるのかないのか、ニコニコとすらしている。
祖母が元気だったことが、そして相変わらず自分を叱ってくれることが、嬉しくて嬉しくて仕方ないという顔をしている。
老眼をものともせず、祖母が果敢に取り組んでいるのが、小さな小さな靴下だということも、一層彼を幸せな心地にしてくれた。
そして、まだ言い足らなそうに言葉を探す祖母の頬にに素早くキスをした。
「こんなに顔色が良くて安心したよ。オスカルも、ずいぶん落ち着いている。わたしは元気だ、と伝えてくれってさ。二人そろって元気で結構なことだ。じゃ、俺はおばあちゃんの言うとおり、だんなさまのところに行ってくる」
ポカンと口を開けたなりの祖母を置いて、アンドレはわずかな滞在を終え、祖母の部屋を出た。
6月23日から今日までの、まさしく激動と呼ぶにふさわしい日々が思い返された。
そしてそれは、このジャルジェ家の全ての人にとってもまた同様のものだったことに思い至った。
中でもだんなさまは、奥さまの長きにわたる隠された本心に触れ、さらには末娘の極秘結婚と妊娠を同時に知らされ、そしてそれら一切合切を引き取り受け止めて、長年努めた近衛隊を辞職なさったのだ。
跡継ぎの男子に恵まれなかったことをのぞけば、ほぼ順風満帆の人生を歩んでこられたであろうだんなさまにとって、この三連打は相当こたえたはずだった。
同じ男としては、同情を禁じ得ない部分も多々あり、しかも自分が原因であるものもあって、アンドレとしては、お部屋に伺ったところで、何をどう言えばよいのか、実は躊躇しているのが本音であった。
一方、将軍は遠慮がちに扉をノックしたのがアンドレだと知ると、一も二もなく入室を許可してやった。
ここしばらく夫人以外は寄せ付けなかったのだが、無論アンドレはそんなことは知らないし知らせる必要もない。
アンドレはいたって慣れたふるまいて゜将軍の机の前に立ち、頭を下げた。
軍隊を辞する、ということは役職をはなれることであって、階級まで剥奪されるわけではないから、将軍はあくまで将軍であり、オスカルは准将の肩書きのままである。
その将軍という、いやしくもフランス軍の最高位にいた自分が、身内の女どもにしてやられた、ということが、はじめのうちこそ衝撃的で、激しく打ちのめされたが、それがだんだんと怒りに変質していくあたり、オスカルやジョゼフィーヌと大差ない。
血とは恐ろしいものである。
オスカルの婚約者公募舞踏会をぶち壊された仕返しに、アンドレを内緒でラソンヌ医師宅に送り込んだときと同じだった。
あのときのオスカルの相当参った様子は今思い返しても胸がすく。
今回も、このままで置くものか、と女性陣への反逆のための作戦を熟考中の将軍であった。
さぞや気鬱になっておられるであろうと思っていた将軍の血色の良さに、アンドレは今日は予想を裏切られてばかりだな、と思った。
だが、良い方向への裏切りなら、結構なことだ。
どういう心境の変化かは知らないが、だんなさまが生き生きとしておられるのは、アンドレにとっても嬉しい限りだった。
「だんなさま、ただ今、オスカルともども衛兵隊より戻りました。ご挨拶が遅くなりましたこと、お詫び申し上げます」
深々とアンドレは頭を下げた。
「うむ…」
そういえば、こいつを衛兵隊に特別入隊させたのは自分だったと、将軍はこの期に及んでハタと思い出した。
温室育ちのくせに自信過剰の娘が、鼻っ柱をへし折られて逃げ出すまで、とにかく護衛しろ!と命じたのは何年前だっただろう。
諸々のいきさつはこの際置いておくとして、ようやく娘は本当に衛兵隊をみずから辞めてきた。
自分も同時に辞めることになったのは、青天の霹靂だったが、ことの流れだけを見れば、予想は大当たりだったわけで、自身の慧眼がまことに喜ばしい将軍である。
こういう立ち直りの早さも、おそらくはジョゼフィーヌあたりに受け継がれたのだろうと推察される。
考えてみれば、当主として一切の責任を負って辞職するあたりの血は、マリー・アンヌに流れ、勢いとはいえ、娘を男として育てる、という周囲の理解不能なことをサラリとやってしまうところは、クロティルドに受け継がれ、長年妻の本心を見抜けないのんきさはオルタンスに引き継がれようだ。
「衛兵隊の連中はオスカルの退任の挨拶に納得したのか?」
アンドレから視線をはずし、手元の書籍をパタンと閉じた。
「兵士達は、オスカルの言うことなら聞かないということはありません」
アンドレは口元にゆったりとした笑みを浮かべた。
静かなたたずまい、余裕ある返答、どれをとってもオスカルの婿として申し分ない。
「おまえが貴族でさえあったら…」
アンドレの全身が硬直した。
「だんなさま、わたくしは…」
「ああ、もういい。いってみても始まらん」
そうだ。
すでに結婚している二人にとって、アンドレの身分が平民であろうと貴族であろうと何の関係もない。
密やかな二人だけの婚儀であったと聞いて不憫に思い、せめて親族だけでも参列してもう一度式を、との親心を発揮しようにも、やはり対面もあって、思うに任せない愚痴が、つい口をついて出ただけである。
カトリーヌの情け深い、優しいところはおそらく父のこういう所を譲り受けたのだろう。
6人の娘たちに脈々と流れる父の血。
その血は、娘達を通して、さらに次の世代に引き継がれていく。
男として育てたオスカルも、今、新たな命を育んでいるという。
そして自分の子ども達に妻の血が入ったように、孫には、それぞれの父の血が流れている。
オスカルの子どもには、アンドレの血が…。
「忘れるな、オスカルはおまえなしには生きられん。おまえはあれの影になれ。光ある限り存在を形作る影となって無言のまま沿い続けるがいい」
静かな、けれど重い言葉だった。
すべてを理解し、全てを了解し、そしてすべてに目を瞑る、という宣言だった。
アンドレは瞼を閉じた。
「わたくしは、影です」
そして目を開けた。
「これからも、ずっと…」
「…たのんだぞ」
双方の万感の思いが静かに双方に伝わり、密やかな共鳴音が生まれ、共振した。
これ以上の言葉はいらなかった。
男二人に血の絆はない。
けれど確かに固い固い絆が結ばれた。
絆
きずな
〜3〜