使用人達は、仕事が忙しいので、と言って、皆部屋を出て行き、室内には夫人と姉たちとクリス、それにオスカルとアンドレが残る形になった。
「父上とばあやは?」
オスカルが小さな声で尋ねた。
言ってから、父がこのような場に顔を出すわけがないことに気づき、あわてて付け足した。
「ばあやは具合でも悪いのですか?」
夫人がにっこりと笑った。
「ばあやは…、お部屋にいます。謹慎しているそうです」
「謹慎?」
ばあやがどうして謹慎しているのだろうか。


自分の孫が主家のお嬢さまと結婚して、挙げ句お嬢さまがご懐妊…。
思うだに卒倒しそうな出来事に、ばあやがかろうじて耐えきったのは、世間の目から二人を守るためだった。
きっと理解してくれないであろう他者から盾となって二人をかばうために、彼女は88歳の老齢をおして、気力で自分をささえてきたのだ。

しかし、オスカルとアンドレが突然出勤した運命の6月30日の翌日、使用人の主立ったものが奥さまの部屋に呼び出された。
だんなさまが正式に謁見され、退役を許可されてからすでに一週間程経っていて、その間マリー・アンヌさまたちがお帰りになることなく滞在され、何かとせわしく動いておられるのがどうやらアラスへの引っ越しのためらしい、ということは、言いつけられる雑用が家財道具の処分や、衣装の選別であることから、皆が察していた。
その引っ越しにともなって自分たち使用人の何人かには、暇が出されるのではないか、という話も当然自持ち上がっていた。
中にはすでに声をかけられたものもいるらしい、などという噂まで流れはじめ、日頃落ち着いた廷内には似つかわしくない雑然とした雰囲気が漂っていたのも事実だった。
だが、それにしても今日の面々は、古参のものばかりで、まさかこれら全員がクビになるとは思いがたく、皆、いぶかしげに奥さまの部屋に入っていった。

待ちかまえていたのは奥さまだけではなかった。
マリー・アンヌとカトリーヌとジョゼフィーヌも同席していた。
「あなた方を身内と信じて話します。決して他言無用です」
いつになく厳しい顔つきで前置きを述べた後、マリー・アンヌは、オスカルとアンドレが結婚していること、オスカルが懐妊中であることを告げた。

寝耳に水の一同は、さすがに激しくうろたえた。
思わず、えっ!と声を上げてしまった者もいて、あわてて口をおさえていた。
また、当然のことながら、ばあやも、このような形での発表は想定外だったので、腰を抜かすほど驚いた。
いや、事実腰が抜けた。
彼女は使用人の最後尾で、座り込んでしまった。

だが、マリー・アンヌは構わず続けた。
「すでに承知していると思いますが、アラスへ転居するという理由で、当家の使用人たちの半数にはお暇を出すことになりました。じっくりと本人達の希望も聞いて、お父さま、お母さまとオスカルがアラスに行ってから、わたくしたち三人で皆の落ち着き先を探そうと思っていたのです」
カトリーヌがばあやの側に寄り添い、背中をささえてやっていた。
マリー・アンヌはそれを一瞥し、再び皆の顔を見た。
「ですが、そうはいかない事情ができました。オスカルの体調が思わしくなく、長距離の移動に耐えられないと医師が判断したのです。しばらく当家で療養させねばならなくなりました」
一層動揺が走る。
妊娠中の体調不良といえば…。
ぞぞれに人生経験豊かな一同は、そのことだけで、事態のあらましを察知した。
「オスカルが静養となれば、その理由が皆の知るところとなる恐れがあります。でも、それは困るのです。どのような誹謗、中傷が立つかわからないからです。ですから、あの子が戻ってきたときに、ここに残って世話をするのは、本当に信頼できる人だけに絞ると決めました。酷なようですが、今日から5日を目処に、あなたたち以外の全員に暇を出します」
あまりのことに誰一人言葉を発さなかった。
「非情な措置だとは百も承知しています。けれども何としても二人を守ってやりたいのです」
日頃沈着なマリー・アンヌの声に熱いものがこめられていた。

人の口に戸は立てられない。
知ってしまったことを黙っていることができない人間はこの世に哀しいほど多い。
口止めされればなおのこと言ってしまいたいのが常でもある。
そして一度噂が立てば、それらは押しとどめようがない。
ことが嘘か真実かは別にして、尾ひれはひれがついてあっという間に広まっていく。
ましてオスカルの妊娠は事実である。
噂を聞いて、わざわざジャルジェ家に問い合わせてくる恥知らずもいないとは言い切れない。
初めから言わないことと、聞かれて嘘を言うこととは、全然違う。

マリー・アンヌは、誰を残し誰を切るか、最終的に一人で決めた。
切られたものがもしも恨みを抱いた場合に、その対象を己ひとりにしぼるためだった。
そして母も妹もマリー・アンヌの意志を感謝とともに尊重した。
長々と相談に時間をかけている余裕がなかったからでもある。
オスカルが帰宅する前に、ジャルジェ家の新体制を整えておかねばならない。
暇を出すものたちの行く先を急ぎ決めねばならないのだ。

結局、人員は最小限に絞られた。
ただ人が良いだけではなく、絶対の忠誠心と口の堅さを持った者、そして何よりも愛情を持ってオスカルに接してくれ、また同僚であったアンドレの立場の変化にも理解を示してくれる者。
それが条件だった。
執事ラケル、女中頭オルガ、その夫の厩番のジュールと同じく厩番でアンドレ同様幼いときから奉公しているジャン、料理長夫婦、庭番夫婦、門番一家、そして古参の侍女3人。
これにばあやを加えた15名が最終的に選抜された。


衝撃の告白を受けて、15名はそろってマリー・アンヌの前に立ちつくしていた。
誰一人微動だにしない。
夏だというのに、背中を冷たいものが流れていく。
大変なことを聞いてしまった。
主家の最大の秘密事項を知ってしまった。
ゴクリと唾を呑む音すら聞こえるほどの静寂だった。

沈黙を破って、最初に返答したのはオルガだった。
「マリー・アンヌさま、よく…、よくお話下さいました。わたくしどもをご信用くだすってのこのお話。承知いたしました。ええ、ええ。わたくしだってどんなことがあったってオスカルさまとアンドレをお守りいたしますとも!」
「オルガ…」
ジャルジェ夫人が瞳を潤ませてオルガを見つめた。
オルガはマリー・アンヌから夫人に視線を移した。
「奥さまには、ひとかたならぬご恩をいただいてまいりました。右も左もわからなかった新米のわたしを、こうしてお取り立てくださり、結婚までさせていただきました。いくばくかでもお役に立てるなら本望でございます。ねえ、あんた!」
オルガは夫の厩番を振り返った。
突然妻に声をかけられて、日頃無口な厩番は、はじかれたように顔を上げ、おどおどしながら、けれどもしっかりと意見を述べた。
「わしは、だんなさまのご命令ならなんだってきく。守れといわれたものは守るし、しゃべるなと言われたことは死んでもしゃべらねえ」
「ありがとう、ジュール」
カトリーヌが、厩番の名前を、優しい声音で口にした。
すでに初老に達しているいかつい体格の男は、かわいそうなくらい赤くなってうつむいた。
オルガがそんな夫の背中をバシンとたたき、「柄にもない!」と笑った。

その音に、執事のラケルが、ようやく自分を取り戻した。
執事たるもの、女中頭と厩番に先を越されるとは不覚この上ないとばかり、穏やかな男にはめずらしく興奮した口調で言った。
「このジャルジェ家は、わたくしの人生そのものでございます。これを守らずして何を守りましょう。マリー・アンヌさま、使用人の身の振り方など、もとより執事の仕事でございます。なにとぞ何なりとお申し付けください」
背筋をピンと伸ばした老人に、マリー・アンヌは優しく微笑んだ。
「ありがとう、ラケル。あなたの力をぜひ貸してちょうだい。若い子や、まだここへ来て日の浅い人たちには、決して漏らすわけにはいかないの。性格が良いというだけでは信用できないのよ。オスカルが戻ってくる前に、急いで始末をつけないと、どこから露見するか知れないでしょう?とりあえずわたくしたち三人の親戚筋を中心に新しい奉公先を探さなくてはなりません。よろしくお願いします」
「わたくしにお願いなさるなど、もったいのうございます。こうしてご信用くださってご配慮くださって身に余ることでございます」
執事の面目に最大限配慮したマリー・アンヌの言葉を受けて、ラケルは直立不動の姿勢で返答した。

料理長夫婦も庭番夫婦も門番一家も、古株の侍女三人も、そしてもうひとりの厩番であるジャンも、口々に了解と協力を申し出た。
主家からの絶対的な信頼に、身を熱くして応えてくれる様子に、さすがにマリー・アンヌの人選に狂いはないと、カトリーヌが感心したのもつかの間、背中を支えてやっていたばあやは激しく身をよじらせて、床に横たわった。
カトリーヌがあわてて背中に手を差し入れ、再びからだをおこしてやった。
だが、ばあやの身体はワナワナと震えていた。
今日を限りに暇を出されるものたちへの申し訳なさで、身の置き所がないのである。
マリー・アンヌのことだから、きっと一時金を持たせ、安心できる貴族の屋敷を紹介するのに違いないが、それでも突然の解雇に、どんなに驚くことだろうと思うと胸が詰まり、息をするのさえ苦しくなった。

「申し訳ありません!」
ばあやは耐えきれずに叫んだ。
一斉に仲間が振り返った。
小さいばあやが目にいっぱい涙をためてその場に座り込んでいた。
「あの馬鹿のせいで…!ほんとにほんとに、みんな、ごめんよ…」
あとは嗚咽で言葉にならなかった。

「何を言ってるんだい!馬鹿だねえ。あたしたちに謝ることなんかなんにもないよ」
オルガが笑い飛ばした。
「そうだよ。ばあやさん」
「あんたがそんなだとアンドレがかわいそうだ」
「めでたいことじゃないか」
居並ぶ全ての人の口からこぼれる暖かい言葉に、ばあやは、さらに一層嗚咽をもらした。
そして、たとえアンドレが、生まれ来る子どもの父として、破格の対応を受けることになろうとも、決して自分はお子様の血縁者という意識を持たず、ただただそのご無事のご出産とご成長を見守っていくのだ、と決意した。
だが、アンドレのせいで暇を出される同僚を見るに忍びず、ばあやは、以後体調不良とのふれこみで部屋にこもり、皆が出て行ったあとも、謹慎と称して、頑固に人前に顔を出そうとはしないのであった。

「アンドレ、あとでばあやのお部屋をのぞいてあげてね。とっても心配していたから…」
カトリーヌがアンドレに声をかけた。
「わかりました。すぐに行って参ります」
アンドレはオスカルに視線で許可を求めた。
「わたしは元気だと言っておいてくれ」
クリスとジョゼフィーヌが冷たい視線をよこしたが、オスカルは完全に無視して、アンドレを送り出した。

それからポツリとつぶやいた。
「屋敷が静かだと思ったのは、みんながいなくなったからだったんだな」
姉たちの自分への配慮が、結果的に多くのものの人生を変えてしまった。
今、ここにいるもの以外は、誰ひとり屋敷にはいない。
自分のせいで…。

「あなたでも自分のせいだと思う殊勝な心があったのね」
ジョゼフィーヌが心底驚いた風に声を出した。
「それならわたくしに返事のひとつでも書いてもらいたいものだわ」
もはやオスカルが完全に忘れ果てていたことを、ジョゼフィーヌは遠慮会釈なく蒸し返した。
しおらしいオスカルなどオスカルではない。
挑戦的なジョゼフィーヌの瞳にオスカルはむくむくと対抗心を蘇らせた。
「姉上、こんなところで油を売っていてよろしいのですか?シャルルが寂しがってまた熱を出しますぞ」
「おや、わたくしの子どもの心配より、自分の子どもの心配をしたほうがよいのではなくて?少なくともシャルルには命の危険はありませんことよ」

オスカルは、剣を突きつけてきた父を思い出し、我が子の命を危険にさらすのは親譲りだ、と反論しようとしたが、ニコニコと姉妹ゲンカを見守る母を見ると、さすがに良心がとがめ、母に免じて、今回に限って勝ちをゆずることに決めた。




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  絆

きずな

 〜2〜