呼 吸 〜いき〜

夜半に目が覚めた。
久しぶりに自邸に戻れたのだ。
もっと熟睡できてもよさそうなのに…、とオスカルはためいきをついた。
きっと心身が疲れ果てているのだろう。
そういうときは、眠りが浅いものなのだ。
長い軍隊生活に終止符を打って、身動き取れない養生生活へと環境が激変したわけだから、これは当然の反応だ。
冷静に自己分析して、現状の打破を試みる。


とすると…。
こいつは疲れていないということか…。

隣で腹立たしいほど安らかな寝息を立てているアンドレを、険しい目でにらみつけてみた。

だが…。

体力的には、ただ寝ているだけの自分より数倍疲れているはずだ。
労働力が半減した屋敷内を、以前となんら変わることなくまわすために、獅子奮迅の働きをしている、と執事やオルガから聞いている。
きっと一日が24時間では足りないと思っていることだろう。

では精神的には…。
軍隊の司令官室に身重のオスカルを寝かせて10日、誰一人気づかれずに引き継ぎをなし、退任演説までさせた彼の心労は並大抵ではなかったはずだ、と三人の姉に嫌というほど聞かされた。
言われてみればその通りで、よくぞばれなかったものだと、今さらながら感心する。
不審に思うものも少なくなかったはずだが、アンドレは見事にかわして乗り切った。
天性、仮面を被るのが得意なタチらしい。
ときどきかなぐりすてるけれど…。
それはともかく、ここしばらくの心労は間違いなく限界点に達するほどのものだったはずだ。

なのになぜこんなに静かに眠れるのだろう。
よほど心身が頑強なのか。
全然そんな風には見えないが…。
オスカルは首をかしげ、それからしげしげとアンドレを見つめた。
日頃片眼を覆っている黒髪が後ろに流れて、閉じられた両目があらわになっていた。
傷さえなければ、今にもぱっちりと見開いて双の瞳で自分を見つめてくれそうだ。
けれど…。
オスカルはふたたびため息をつく。
この目が二つ並んで開くことは決してないのだ。

思考を暗がりから引き出さなければ、どんどん泥沼にはまりこんでしまう。
これではいけない。
そう思うほどに、静かな寝顔がうらやましくも憎らしい。
規則正しい寝息がかすかにあたりの空気を震わせている。
それを子守唄替わりに、再度眠ることに挑戦してみようと思ったが、ふと、オスカルの気が変わった。
考えてみれば、いついかなるときも彼は自分よりあとに寝付き、先に起きていた。
だから自分はこの寝息を聞くことがなかった。
つまり、これは、初体験ということだ!
なにごとも初めてというのは嬉しいものだ。
きっと今まで散々自分の寝息を聞いてきたであろうアンドレの寝息を、今宵は自分がとくと聞いてやろう。
そう思うと、寝付けないいらだたしさが消え、泥沼もどこかに去り、妙にワクワクしてきた。

まずは一分間に何回かをはかってみよう、と思うところが我ながら軍人らしい。
1、2、3、…。
わりとペースが遅い。
呼吸とともに胸が上下し、掛布が動く。
深い息だ。
大きく吸って、大きく吐く。
繰り返し繰り返し単調なリズムが刻まれていく。
…15、16。
ふむ、とすると一時間で960回。
彼の平均睡眠時間が5時間として…。

馬鹿げた計算をしていると気づいた。
けれども一方で、彼が人生でしてきた呼吸のうち、自分は何回をともにしたのだろう、とも思った。
彼の声に自然に耳が反応するように、彼の息づかいも身体が覚えている。
ともに行動するとき、声をかけて合図する必要など全くないほどに、二人は息を合わせて動いてきた。
馬に乗るとき、剣を合わせるとき、そして…。

これまでがそうだったように、これからもそうだろう。
一分間に16回。
では、自分もきっとそうだ。

オスカルは、今度は自分の呼吸を数え始めた。
1、2、3、…。
アンドレの呼吸と見事に重なる。
それを当然だと受け止めた。
自分たちは離れがたい一対だ。
だから一緒にいる。
屋敷の全てのものが、二人の結婚を知っているから、アンドレがこの部屋で過ごすことに何の気遣いもいらない。
隠すことのない暮らし。
隠すことのない関係。
そう思うと、心が安らぎ、いたって平穏な気持ちになってきた。
そしてアンドレが熟睡できる理由はこれかもしれない、と気づいた。

喧噪と混乱の宮殿を去り、心やすいものたちだけに囲まれて、祝福すら受けて、彼にとって、今ほど安らかなときはないのかもしれない。
今までがきつかったからこそ、一層、この屋敷内での生活が、たとえどれほど雑用に追われようと、幸福この上ないと認められるのだろう。
本当に、今までが苦しかったのだから…。

オスカルは、そっと手をのばしてアンドレの手に重ねた。
それからゆっくりと目を閉じた。
息を合わせれば同じ夢だって見られるかもしれない。
きっと見られる。
そう半ば本気で思いながら、オスカルは静かに一分間で16回の呼吸体制に入った。