失明を免れた、とはいえ、視界が通常の半分であることにかわりはなく、それゆえ
アンドレは正常な遠近感や高低感を奪われたままの生活が続いていた。
その不自由さを少しでも克服するために、彼は時間のあるときは屋敷内を歩き、特に
階段などは繰り返し上り下りして、体が段数を覚え、無意識にでも駆け上ったり駆け
降りたりできるように心がけていた。
この日は、予定されていた会議がブイエ将軍の都合で取りやめとなり、久しぶりの
早い帰宅となったので、アンドレは屋敷の仕事のかたわら、せっせと階段の数を
覚えていた。
「19…20…21…22…23,24,うわっち、まだあった!25〜っ!!」
と思わず大声を出したとき、廊下の向こうからオスカルが走ってきた。
「アンドレ!!何をぶつぶつ算数なんかやってる!ばあやが…、ばあやが倒れて
…!」
「……!!」
「こっちだ!」
一瞬言葉を失ったが、すぐにオスカルの後ろに続いた。
連れて行かれたのはマロンの部屋ではなく客間だった。
アンドレが扉を開けると、豪華な寝台にマロンが両腕を胸の前で組んで横たわっ
ていた。
「お…ば…あ…」
今度は大声が出た。
「う…うそだ、うそだ。こんなに急に…。目をあけてくれよーっ、おばあちゃん、おば
あちゃん、ひどいじゃないか、。俺に最期の別れもせずに。俺ををひとりぼっちにす
るのかい?おばあちゃ〜ん!!」
と、思いつく限りの言葉を並べ立てた。
すると、チロリと片眼を開けたマロンが思いっきりアンドレを蹴飛ばした。
「うるさいね。耳元でぎゃーぎゃーと!あたしを殺す気かい?!」
と、むっくりと起きあがって目を三角にしている。
「お、おばあちゃん!!」
アンドレが力一杯マロンを抱きしめたので、あやうく本当にあの世にいきそうにな
ったマロンをオスカルがあわてて救い出した。
「落ち着け、アンドレ。今、医者をよびにやってる」
とのオスカルの言葉に、マロンは
「あ…あたしなんかにお医者さまを…。ただちょっと長く生きすぎただけでございま
すよ」
とグスグスと涙ぐんだ。
どうやら命に別状はなさそうだと知ったアンドレが
「まったく!驚かせないでくれよ。寿命が3年は縮んだぞ」
と言いながら、
「お、お医者さまなんぞ…ちょっと長く生きすぎただけですのに…」
と肩を震わせているマロンの背中をそっと撫でた。
マロンの感覚では、使用人に医者を呼ぶなど、とんでもないことなのだろう。
まして、豪華な客間に寝かせられて、広い寝台のどこに身を置こうかと小さい身体
をさらに小さくしている。
もし俺の右目がだんなさまのご配慮で完治したなんて知ったら気絶ものだな、とア
ンドレは容易に想像できて、少々やりきれない思いに浸った。
目のことは、結局、将軍夫妻とオスカルとアンドレの秘密で通している。
まして、結婚のことは、屋敷内で知っているのは当の自分たちをのぞけばジャル
ジェ夫人だけである。
おしゃべりマダムに見えてジャルジェ家のご令嬢方はそろって口が堅い。
フェルゼン伯に比べれば恵まれているとは思いつつ、やはり貴族と平民の間に横た
わる溝は、深く人の心に植え付けられ、個人の思いや力だけではいかんともしがたい
ものがあるな、と思ってしまう。
背中をさすっている間にマロンの瞳はとろんとしてきて、小さな寝息を立て始めた。
やれやれ、という顔でオスカルを見るとなぜか柳眉がつりあがっている。
しかも恐ろしく低い声で、
「おい、アンドレ。どさくさに紛れて聞き捨てならない台詞を口走ったな」
ときた。
「え?」
何を言ったっけ?
まさか、のできごとにうろたえて、大声でわめいたのは覚えているが、具体的に何
を言ったかまでは記憶にない。
「俺をひとりぼっちにするのかい…と言っていたぞ」
そういえばそう言ったかも知れない。
だが、唯一の肉親であるおばあちゃんに突然逝かれたと思えば、それくらいは言
うだろう。
何が気に入らないんだ?
「おまえの家族はばあやだけのか?ばあやがいなければおまえはひとりぼっちな
のか?」
相当気合いの入った鋭い視線がアンドレの身を貫いた。
「オスカル…」
「ふん!今回は狼狽していたからな。あらぬことを言ったのだと思ってやる。だが、
二度目は容赦せんぞ」
難しい結婚だ、とたった今落ち込んでいた自分を、こんなに簡単に引き上げる勇
ましい口調に、隣でおばあちゃんが寝ていることが心底恨めしかった。
「まったく。おまえには完敗だ。二度と言わない。勘弁してくれ」
と、ぺこりと頭を下げた。
「ばあやも歳だから、お互い気苦労ばかりかけている生活を見直さねばならんな」
と、見事に怒りを収めて、オスカルは眠るばあやの髪を撫でた。
「ああ、だがこの生活はそう簡単に変えられんだろうから、せめて起きたら愚痴でも
聞いてやろう。年寄りが一番欲しいのは話し相手だからな」
と、アンドレも言葉とは裏腹の優しい笑みを浮かべた。
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