一日が30時間あれば、どんなに楽だろうと思うほど多忙を極める中、ようやくアンドレが2月に入ってすぐに、午後からの勤務を休めるよう計らってくれた。
こうしている間にも、ジェラールとエヴリーヌの結婚話は着々と進んでいて、正式に婚約が整ったことを知らせる手紙が、マリー・アンヌとジョゼフィーヌの双方から、母の元に届いていた。
2時には帰れると思い、陶器商に屋敷に来るよう命じていたのに、帰宅は商人が来てから半時間後だった。
これ以上待たせるのも気の毒に思い、オスカルは軍服のまま、商人の待つ客間に入った。
当然、アンドレがその後ろに続く。
「待たせて悪かったな」
と、心やすく声をかけながら椅子に座った。
「オスカルさま、ご無沙汰しております。このたびは当商会へのご用命、まことに有り難うございます」
と、椅子にかけて待っていた男があわてて立ち上がり、慇懃に挨拶をした。
もう一人、はじめから座らずに控えていた男がいて、もの珍しそうに顔を向けたオスカルは、すぐにそれが誰かを察し、驚いて自分の横に立つアンドレを見上げた。
その様子に商人は、あわてて
「大変失礼致しました。この男はわたくしの遠縁のもので、いずれ同じ商売をやりたいと
申しまして田舎から出てきましたので、ご許可も得ず失礼とは存じましたが、見習いで連れて参りました。どうかお許しのほどを…」
と深々と頭を下げた。
「ほら、おまえもきちんとご挨拶をしろ」
と、商人は連れの男に声をかけた。
「はじめてお目にかかります。ベルナールと申します。以後お見知りおきを…」
商人に併せて頭を下げるベルナールに、状況はどうあれ、こいつがわたしに頭を下げるのはこれが初めてだな、とオスカルは笑いをかみ殺した。
どんな思惑があってこんなところへこんな芝居をしにやってきたのかは判然としないが、とりあえず
「ふむ。せいぜい商売に励むことだな」
と、一応声だけはかけてやり、
「さっそくだが品物を見せてもらおう。結婚が決まった若い二人に祝いの品をと思っている。あまり高価だと向こうが気後れするから、質はよいが、日々使えるものにしたい」
とすぐ本題に入った。
オスカルが放っておくのなら、自分も何もするまい、とアンドレも様子を見ることにしたようで、従僕らしく控えていた。
商人はさっそく大きな鞄を次々に開け、様々な品物をテーブルに並べ始めた。
屋敷に来るように言われた時点で、だいたいどのようなものがよいかは聞いていたから、客の嗜好を考え、厳選して持参したものだった。
マイセン、ウェッジウッド、セーブルなどの高級品でありながら、日常の使用に耐えうるティーセットがずらりと並び、
「これはなかなか趣味が良い。さすがに客の好みを心得ている」
と、オスカルは機嫌良く商人に言い、それから
「アンドレ、おまえならどれを選ぶ?」
と、手前のティーポットを手に取りながら聞いた。
「そうだな。長く使えるように、あまり若い者向きを選ぶより、今は少し渋いかな、と思うくらいが、かえって喜ばれるんじゃないか」
と、アンドレも薄いブルーの小花模様のカップを一客てのひらにのせて眺めた。
「なるほど。そうかもしれないな。ところで、ベルナールと言ったな。結婚は?」
と、オスカルは、並べられた陶器類に全く関心を示さず、突っ立っているだけの商人の連れに話を振った。
突然、名前を呼ばれ、びっくりした顔でベルナールは
「はい、しております」
と、答ながら、コン畜生めが、知ってるくせに!と、正直に顔が語りそうになるのを、商人に悟られないよう、無理に笑顔を作ったため、頬が若干ひきつっていた。
「ほう、そうか。では君なら、結婚の祝いにもらって嬉しいものはどれだ?長く使えそうな渋いものが良いと思うか?」
アンドレは、オスカルの素知らぬ態度と、ベルナールのしどろもどろがおかしくて、陶器に夢中なふりをして顔を上げないようにしている。
沈黙してしまったベルナールに商人が
「ほら、ご下問だ。お答えしないか」
と、肘をつっついたので、仕方なくベルナールは愛想も何もない答をした。。
「まあ、そうですね。確かにはじめのうちは、ピンクだの、レースだの、花柄だのが嬉しいようですが、暮らしっぷりがそう景気がいいわけではないと、だんだん空しくなってくるようで。あとで腹たてるくらいなら、はじめっから落ち着いたもんがいいんじゃないんですか?茶碗に罪はないんですからね」
「なるほど。実感がこもっていて良い助言だ。参考にさせてもらおう」
オスカルは花柄のティーカップを前にぶつぶつごほすロザリーを思い浮かべ笑ってうなずいた。
それから、何客か手に取ったのち、一番シンプルな、けれども金額的には結構するものを選んだ。
商人は使用人への贈り物と聞いて、さほどの売り上げは期待していなかったところに、思いがけず高価なものが売れて、大層ご機嫌だった。
「では、お聞きしました公爵家の方に、明日、必ずお届け致します。本日はまことにありがとうございました」
と、深々と頭を下げ、大きな鞄をベルナールと二人して抱えると客間を出た。
オスカルはアンドレに目配せして、窓辺にぽつんと置かれた帽子を持ってこさせた。
ベルナールが置いていったものだ。
おそらく馬車に荷物を運んだあと忘れ物をした、といって、一人だけ戻ってくる口実にするためだろう。
二人はニヤニヤと笑いながら再び扉が開くのを待った。
まもなく、侍女が、商人の連れが忘れ物を取りに来たと伝えに入って来た。
「この帽子だろう。構わん。ここに呼んでやってくれ」
侍女がベルナールを連れて戻った。
アンドレが気を利かして、侍女に声をかけ、二人で出て行った。
これで話は誰にも聞かれない。
オスカルはベルナールが扉を閉めると同時に
「妙な対面をするものだ。なんの用だ?」
と聞いた。
馬車で商人が待っている。
ぐずぐずしている時間はない。
ベルナールは帽子を受け取るために片手を差し出しながら簡潔に言った。
「オスカル・フランソワ、このフランスを立ち去ってどこか外国へ行け。できるだけ早いうちがいい」
「それは…!?」
「外国へ行け。今はそれだけしか言えん」
しばらくの沈黙ののち、オスカルはフッと笑うと
「どういう意味かは知らんが、このフランスに何かあるというのなら、わたしは祖国と心中するぞ」
と言い、帽子をベルナールにさしだした。
ベルナールの眼に怒りの色が走った。
こいつ、人の情けを…!と、くってかかろうとしたとき、侍女を連れ出したアンドレが戻ってきた。
ベルナールは、そのアンドレを指さし、
「おまえがその道を選ぶのは自由だが、こいつはどうなるんだ?こいつともども心中か?」
と、捨てぜりふを残して、乱暴に帽子を受取り、きびすをかえして立ち去った。
オスカルの顔が凍り付いた。
アンドレが?アンドレも心中?
かっこよく決め台詞をはいたつもりが、大事なことを忘れていた自分に気づいた。
「誰と誰が心中するって?」
アンドレが、こわばって固まっているオスカルの耳にそっとささやいた。
そのアンドレの腕をつかみ、残された瞳をくいいるように見つめると、
「フランスとわたしとおまえ…」
とオスカルは小さくつぶやいた。
そう、わたしが祖国と心中すると言えば、きっとアンドレも…。
わたしは、自分ののわがままでアンドレの命も危険にさらすのか、という自責の念が突如オスカルを襲った。
「それは、また…。妙な取り合わせだな」
アンドレはオスカルの両頬をおのが両手で包み込むと、
「お断りだ」
と、短く言った。
「!」
心のどこかで、アンドレならきっとお安いご用だ、と答えると期待していた自分に気づき、その意外な答に驚く自分の傲慢さに情けなくなり、オスカルはか細い声で言った。
「そうだな。わたしのために命を張るなど…」
「誤解するな。俺がおまえのために死ぬのは、一向に構わない。だが、おまえの命は絶対に守る。フランスなんかと心中させる気はさらさらない。冗談ではないぞ」
真剣な恐いくらいの目つきのアンドレに、オスカルは吸い込まれていく自分をひきとどめようとしたが、続いてもたらされた激しいくちづけに、完全に白旗を揚げた。
めくるめきひとときののち、ようやくオスカルを解放したアンドレは、
「二度とそんなことは考えるな」
と言い、今度は、とびきり優しいくちづけを落とした。
それは深い愛情に満ち、どんな言葉よりも雄弁にアンドレの心情を伝えた。
そうだ、もし祖国になにかあるというなら、共に生き延びる道をえらばなくては…
フランスも自分もアンドレも…。
そんな道を探さなくては…。
オスカルはアンドレがくちづけを通して伝えたかった言葉をしっかり受け取り、
「わ…わかった」
と短く答えると今度は自分の言葉を同じ方法で返した。