道 程
ジャルジェ将軍は自分の頬に当てられた短剣にゆっくりと目をやった。
見覚えがあった。
というより、良く覚えていた。
他ならぬ自分が授けたものだ。
ばあやの娘、つまり自分の乳兄妹が流行病で亡くなったという知らせを受けたとき、将軍はその忘れ形見を引き取ることに何のためらいもなかった。
妻も大いに賛成し、次女の婚礼前にもかかわらず、すぐにいくばくかの金を葬儀費用としてばあやに持たせ、ジャルジェ家の馬車を仕立てて、孫を迎えに行かせた。
母によく似た懐かしい面差しの少年は、明るくクルクルとした瞳で自分を見上げていた。
少年にとっては、豪華な貴族の邸宅と、将軍という地位にある自分が、どんなにか大きく見えたことだろう。
将軍は、親を失った少年に悲しむ暇を与えないよう、跡取りである末娘の警護という任務を与え、その証しとしてこの短剣を与えた。
「オスカルを守れ。」というただ一言を添えて。
今、まさに自分の与えた役目を果たすべく、この短剣はこうしておのが頬に当てられている。
明るい瞳のひとつを失った少年は、少しは動じて震えでもしていればまだ可愛げがあるものを、憎らしいほど落ち着いて、ピクリとも動かない。
自分を見上げていたはずが、すでに完全に見下ろされ、捕まれた手首をふりほどくすべもない。
成長したのだ。
オスカルも、アンドレも…。
「それがおまえの気持ちか?」
将軍は簡潔にに尋ねた。
聞くまでもないことだが、確認したかった。
だが返事はなかった。
そう、言うまでもない。
今この体勢がすでに答ではないか。
「馬鹿めが…。」
心底そう思った将軍に、今度は答が返ってきた。
「はい…。」
小さな声だ。
自覚はあるらしい。
まったく愚直な奴だ。
だが、まったく可愛い奴だ。
「身分の違いを超えるものがあると思うのか。」
むごい問だと思いつつ、そのたたずまいの静けさを乱してやる一言を言わずにはおられなかった。
そしてまたしても返答は短かく小さかった。
けれどもきっぱりとしていた。
「はい…。」
当然だ。
そう思っているからこそ、自分に刃を向けているわけだ。
馬鹿なことを言った。
だが、馬鹿なことついでに言ってやろう。
将軍は続けた。
「貴族の結婚には国王陛下の許可がいる。」
言わずもがなの言葉だった。
そんなものが今のアンドレにとって何の意味も持たないことくらい、わかりきっていた。
だが、世の中、激情だけではどうにもならぬことがあると教えるのも、年配者のつとめだ。
将軍は自分を擁護した。
一方で、アンドレは、これをとても意外な言葉として受け取った。
もしも国王陛下の許可が出るなら、認めてもいいと、だんなさまはおっしゃっているのだろうか。
こんな何も持たない男を結婚相手とお認めになるのだろうか。
では、もし、実はすでに結婚していると告白すれば、だんなさまはどうなさるのだろう。
だが、今となっては、どうでもいいことだった。
アンドレには、形など取るに足りないことなのだ。
自分が欲しかったのは、オスカルであり、それ以上でもそれ以下でもなかった。
結婚という形を、奥さまのご尽力で得られたことは望外の喜びだったが、なくてはならない形であったとは思わない。
欲しいもの、守りたいもの、それが何であるか、彼は知っていた。
そしてそのために何をなすべきかも…。
「知っています。」
彼は当然のこととして返答した。
「知っています。結婚など望んではおりません。ただ、ただ…、わたくしの命など10あってもたりはいたしますまいが、なにとぞ…、なにとぞオスカルの命と引き替えにわたくしを…。」
そう言うや、アンドレは将軍の腕を放し、短剣を差し出した。
オスカルを守れ、と渡されたこの剣で、自分を刺してもらう。
そしてそれによってオスカルを助ける。
オスカルを守る自分と短剣の役目は、これにて完全に遂行される。
アンドレは、短剣を差し出したまま将軍の前にひざまずいた。
将軍は意外な男の動きに口を真一文字に結び、大きく目を見開いた。
もとより、娘を殺すつもりはなかった。
ただ、覚悟の程を知りたかっただけだ。
平民議員をかばった行動は命がけだったのか、と。
単なるヒロイズムや理想主義ではなかったのか、と。
もしそれによって極刑に処されても、あるいは父に成敗されても、いささかの後悔もなかったのか、と。
だが皮肉にも、オスカルのではなく、アンドレの覚悟を知ることとなった。
命をかけている。
少なくとも、一人の男に命をかけさせるだけの、娘の行動であったわけだ。
フッと笑みがこぼれた。
「おまえを殺せば、ばあやも生きてはいまい。」
これ以上詰問することはない。
すべてが納得できた。
「知能犯め…!」
将軍は呆然となりゆきを見守るオスカルを振り返ると、大声で言った。
「オスカル!王后陛下からのお達しだ。軍務証書を取りに宮廷に伺うように。わかったか、処分はなしとのお言葉だ!」
そろって大きく目を見開いた二人を尻目に、将軍がさっそうと部屋を出て行こうとしたとき、戸口は華やかなドレスのカーテンでふさがれた。
「そんなものを取りに行く必要はございません!」
この場の誰一人としてかつて聞いたことのない、ジャルジェ夫人の怒声だった。
〈3〉