道  程

ジャルジェ夫人が娘たちを振り返った。
「クリスを呼んでちょうだい。」
すぐにジョゼフィーヌが身を翻し、先ほど閉じた扉をゆっくりと開け放した。
そして早足に出て行った。

やがてジョゼフィーヌの指示を受けたのであろう。
侍女達が燭台を持って次々に現れた。
暗かった部屋は、そこここに置かれた蝋燭でほんわりと明るくなった。
夫人は手近な椅子に腰を下ろし、ぜいぜいと肩で息をする夫にも座るよう促した。
将軍は、操り人形のごとく機械的に肘掛け椅子に座った。
侍女達はてきぱきと仕事を終えると全員黙って退出した。

「連れて参りました。」
侍女たちと入れ替わりにジョゼフィーヌがクリスを伴って戻ってきた。
「お待たせしてごめんなさいね。」
夫人がにっこりと笑った。
「事情は先ほど話したとおりです。ただ、ちょっとした取り込みがあって…。すぐに診てもらうわけにはいかなかったのです。」

ちょっとした取り込み…父が娘を成敗する、という大事件をこの一言で片付けるところが夫人の夫人たるゆえんである。
誰一人突っ込むものもいない。
「どうぞお気になさいませんよう。こういうことには慣れております。」
クリスはしれっと答えた。
嘘だ、とオスカルは叫びそうだった。
誰が慣れるんだ?こんなことに…!
だが、毒気を抜かれているので、声が出ない。
アンドレなど魂がどこかに抜け出したような顔をしている。

「オスカルさま、寝室においで下さいませ。お身体を拝見いたします。」
クリスは、勝手知ったるなんとかで、スタスタとオスカルの居間を横切り寝室に向かった。
「何を拝見するというのだ?」
やっと声が出た。
「あのジュースのことがある上に、今のアンドレの言葉で、間違いないとは思うのですけれどね。やはりお医者様にきちんと診ていただいて、予定日なども知りたいでしょう?」
マリー・アンヌが別世界から声をかけてきた。
少なくともオスカルにはそう聞こえた。
そう、別世界の別人種−。
自分は誉れ高きフランス軍の軍人である。
今日一日を、いや今日までのすべての日々を、純然たる軍人として生きてきた。
たとえ、王命に背いたと非難されても、何ら恥じることはなく、信念を曲げるつもりもさらさらない。
剣を携え、馬を駆り、部下に号令を下す生まれながらの武官である。

しかるに、今、目の前の母や姉が自分に向かってかける言葉は、どう考えても武官へのものではない。
おめでた、予定日…。
もちろん聞いたことはある。
だが、あくまで人ごととしてであり、我が身のことと思ったことは、断じてない。
呆然としているオスカルの腕をジョゼフィーヌががっしりとつかみ、寝室へ引き立てていった。
「あなたもつきそってやってちょうだい。」
夫人の指示でカトリーヌも寝室に消えた。

居間には将軍夫妻とマリー・アンヌとアンドレが残った。
愕然として言葉も出ない男性陣と、やがてもたらされるはずの吉報に喜びを隠しきれない女性陣。
対照的な両者を燭台の灯火は平等に照らしている。
すでに晩餐の時間を大きく過ぎていた。
ようやく雨が上がり、雲間からわずかに月が姿を表しはじめていた。

やがて、喜色満面のジョゼフィーヌが寝室から飛び出してきた。
「おかあさま、間違いございませんわ。年明けあたりではないか、ですって!」
「まあ!」
夫人は頬に手を当てた。
そして隣のマリー・アンヌと顔を見合わせ、それは嬉しそうに笑った。

アンドレは、すさまじい混乱の中から、ようやく立ち直りつつあった。
考えてみれば、すでに命をすてる覚悟をしていた身だ。
その気持ちがあれば、どんな困難にも立ち向かえるはずだ。
オスカルの体内に我が子が宿っているというなら、なおさら、覚悟を決めてかからねばなるまい。
彼は大きく深呼吸をすると、将軍の前に進み出た。

将軍はぼんやりと顔をあげた。
「申し上げます。オスカルとわたくしは、昨年末、結婚いたしました。到底だんなさまのお許しを得られるとは思っておりません。ですが、わたくしの気持ちは変わりません。今度こそ、ご存分のご処分を…!」
「結婚?」
「はい。」
「結婚していたと言うのか?」
「はい…。」
アンドレは大きくうなずいた。

「すでにローマにお帰りになった前司教さまに、婚姻の秘蹟を授けていただきました。手配しましたのはわたくしです。罪があるというならば、わたくしも同罪です。」
マリー・アンヌが申し立てた。
「なんと…!」
将軍は自慢の長女を凝視した。
姉の態度に習い、ジョゼフィーヌも父に向かって告白した。
「わたくしもお姉さまとともに画策いたしました。同罪でございます。」
「おまえたち…。」
二の句が継げないでいる夫を見つめながら、夫人はゆっくりと立ち上がると娘達の一歩前に進み出て言った。
「すべてはわたくしの意を汲んでの娘達の行動です。オスカルやアンドレには何の罪もありません。ましてマリー・アンヌやジョゼフィーヌには一切の…。」
「わかった!もういい!!」
夫人の言葉を将軍は大声で遮った。

「あなた…。」
「この家はわしが主だと思っていたが、とんだ勘違いだったようだ。司教まで抱き込んでの婚儀とは、あきれはてる!」
「あなた!」
夫人が夫に負けぬ大きな声を出した。
「万一のとき、あなたに、いえ、この家にわざわいなきように、との配慮でございます。知っていれば、止めねばなりません。あなたのお立場では…。けれども、知らなかったのならば、責任者さえ処罰すれば、あなたも家も無事です。誰にも罪あることとは思いませんが、一連のすべてのことの責任者として処罰は受けます。なにとぞわたくしを離縁し、そしてオスカルを勘当してください。」

「奥さま!」
「お母さま!」
思いがけない夫人の言葉に、まずアンドレが声を上げ、続いてマリー・アンヌとジョゼフィーヌが叫んだ。
「それですべてが片付きます。」
皆の呼びかけには答えず、夫人はきっぱりと言った。
将軍ははじかれたように妻を見た。

「母上!」
いつのまにか隣室からオスカルが出てきていた。
「内密に結婚したのはわたくしです。母上は参列すらなさっていない。無論姉上たちもです。あれはわたしとアンドレが二人でしたこと。責任はわたしたち二人にあります。」
アンドレは、すぐにオスカルのそばに駆け寄り、並んで立った。
無言で、しかしまったく同意見であることを、その態度で表明した。

その二人を愛おしそうにながめてから、夫人は再び口を開いた。
「おわかりでしょう。軍務証書など返上したままでよいのです。この身体で軍務は務まりません。たとえ王后陛下のお情けで処分なしとのお沙汰が出たとはいえ、ジャルジェ家としては、それを受諾するわけにはいきません。当主の責任において、オスカルを勘当したと、ご報告ください。この子を軍務から、いえ、男であることから解放してやらねばなりません。そして夫に内緒で娘を結婚させた妻を…、わたくしを…遠慮なく離縁なさるべきです。」

夫人はおそらく長い間熟考を重ねてきたのであろう筋書きを、すらすらととよどみなく述べた。
45年の長きにわたり、ひたすら貞淑で従順な妻であった夫人が、はじめて夫に意見したのだ。

「おまえこそが知能犯だったのか…。」
将軍がうめいた。
「さようでございます。」
ためらうことなく夫人は答えた。
「何も知らずにともに暮らしてきたのか…わしは…?」
「さようでございます。」
「なんということだ…。」
絞り出すような将軍の声だった。

夫人は夫の正面に進み出た。
そしてまっすぐに夫の顔を見つめた。
「かつて…、あなたがオスカルを男として育てるとおっしゃったとき、わたくしはどうしても反対できませんでした。この家のさだめとあなたのお立場が痛いほどわかっていたからです。けれども、やはりそれは間違っていました。あるべき女の姿を許されず、ひとり苦悩するこの子を見て、わたくしはいつの日かきっと娘を取り戻すのだ、と心に誓いました。わたくしは六人の娘を神から授かったのです。決して五人の娘とひとりの息子ではありません。長い間、男として生きるオスカルを、ただ、見守るしかできない力弱き母でしたが、今日、オスカルみずからが女であることを証明してくれました。本当に長い長い道のりでした…。」

夫人は、いささかの迷いもなく、また後悔もなく、非常に満ち足りた顔をしていた。
ようやく娘を取り返した母の今日までの来し方を思い、娘たちはそろって皆、涙ぐんだ。
窓の外には煌々と月の姿が浮かびあがり、背筋を伸ばした夫人の立ち姿を、美しく照らし出していた。
その光りの道筋はまさに夫人のこれまでの道程でもあったのだ。
薄くかかっていた雲が去り、月影が夜の闇を完全に支配した。







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〈5〉