開け放した窓からアランの声が聞こえてきた。
「どうやらご登場だぞ」
アンドレが幾分苦々しげに言った。
返書を伝令にもたせてからきっかり二時間だった。
アランは廷内には入らず、車寄せで執事とやりとりしているらしい。
謹厳なラケルは、当然ながらオスカルが面会謝絶であると告げているに違いなく、それを承知でアランが無理を通そうとあがいているはずだった。
「どこで会う?」
まさか寝室というわけにもいかないが、病人ということならば、応接室で堂々とというのも似つかわしくない。
予想以上にアランの来宅が早く、まだ面会場所を決めていなかったことをアンドレは悔いた。
猪突猛進型のアランの性質を誰よりも理解していたはずだったのだが…。
「テラスでいいだろう」
こともなげにオスカルが言った。
「アランはわたしの除隊の理由を、ベルナールとの約束ゆえと思っているのだ。ならば別段仮病を装う必要はない」
「…!」
アンドレは完全に言葉を失った。
仮病だと?
絶対安静だぞ。
無理は禁物、命の保証はない、とあれほどクリスが言っていたではないか。
しかも命は二つだ。
切迫流産は立派な病気だろう!
本当に、本当に、おまえは、自分が直接指揮をとる、と言わない以外、断固自分を貫くつもりだな。
アンドレは泣きたくなった。
だが、アンドレが黙っているのは承知した証しとばかりに、オスカルは軽やかにホールへ下りていくと、テラスへ回った。
その行動の素早さに、アンドレは心臓が止まるほど驚き、あわててあとを追った。
「アラン!こっちだ!」
オスカルがテラスから車寄せのアランを呼んだ。
思いがけないところから名前を呼ばれて、アランはびっくりして駆け寄ってきた。
執事も、安静にしているはずのオスカルの出現に目を丸くしている。
だが、オスカルの目配せを受けて、ラケルは静かに立ち去った。
ラケルでよかった。
これがおばあちゃんなら、即刻部屋に連れ戻されていただろう。
テラスには出ず、室内にとどまったアンドレは胸をなで下ろした。
「そろそろ来る頃だと思っていた」
オスカルは笑いながらアランに椅子をすすめた。
だが、アランは立ちん坊のままオスカルをじっと見つめていた。
少しやつれている、というのが第一印象だった。
退任演説のときは、遠目だったから、声が弱いとは思ったが、さほど違和感は感じなかった。
けれど、今、目の前に座る隊長は明らかにいつもと違う雰囲気を漂わせていた。
それは軍服ではないから、と言う理由と、そして至近距離にいるからという理由だけではないようで、アランはしばらく茫然とかつての上官を見つめていた。
「ダグー大佐の命令に背くつもりか?」
オスカルの言葉に我に返ったアランは、自分がここに来た理由を思い出し、
「どういうつもりですか?!」
と叫んだ。
「何がだ?」
オスカルはすっとぼけて逆に質問してやった。
「何でおれが指揮官なんですか?!」
「アラン、そんなに一々大声を出さなくても、充分に聞こえている」
オスカルはこらえきれないようにクスクスと笑った。
部下と直接言葉を交わすのは何日ぶりだろう。
考えてみれば、アベイ牢獄から釈放された日に、わずかばかり談笑した直後、自分は床に伏してしまって、以来、個人的な会話は誰とも一切していなかった。
フランス窓の内側から二人の様子を見守っていたアンドレは、そのだみ声が胎教に悪いんだ、と真剣に案じた。
確かにオスカルの機嫌はすこぶるよさそうだが、気分と体調は別物だ。
爽快だからといって何をしてもいいというものではない。
だが、事ここに至っては、黙っているしかない。
結局の所、オスカルの人生はオスカルが決めるしかないのだ。
願わくば、オスカルがクリスのお説教の万分の一でも心に留め、実行してほしいけれど…。
出て行けば有無を言わさずオスカルを部屋に連れ戻してしまいそうで、彼はじっと窓越しに見守るだけにすることを自分に課した。
「単なるパリ出動だ。選挙期間中、さんざん巡回して、誰よりも経験豊富なおまえが適任だろう」
オスカルはニヤリと笑った。
「巡回とは訳が違います!パリにはもうドイツ人騎兵や竜騎兵がのりこんでいるんです。国王は民衆を殺すおつもりですか?市民に銃を向けろと…?」
アランは一気に頭に血を上らせた。
「銃を向けるとは決まっていない」
「納得できません!ましておれに指揮を取れとは…!おれには民衆に銃を向けるなんてできないし、そんな命令を出すなどまっぴらごめんだ」
「アラン。落ち着け」
「これが落ち着いてできる話ですか!」
バン!とアランがテープルに両手をたたきつけた。
オスカルはアランから視線をはずし、室内に目をやった。
激怒していたアランもつられて視線を移した。
そこには心配そうなアンドレの姿があった。
「おまえ、そこにいたのか…」
アランがボソリと言った。
沸騰していた頭にいきなり冷水をかぶせられた気がした。
隊長しか目に入っていなかった自分が情けなかった。
そうだ、こいつがいないわけはないのだ。
「アンドレ、アランを座らせてくれ」
オスカルの指示で、アンドレは苦虫を噛みつぶしたような顔でスタスタとアランに近づくと、背後に回り両肩をグッと押さえつけて椅子に座らせた。
抵抗するかと思ったがアランは気抜けしたように従順にアンドレのされるがままになった。
アンドレはアランの後ろを離れてテーブルを回り、向かいのオスカルの横に控えた。
これで役者はそろったってことだ。
アランは舌打ちしたい思いをこらえた。
砂を咬むような味気なさが身体中を包んだ。
「本来なら、わたしが指揮をとるべきところだ」
オスカルが穏やかな口調で言った。
そうだ、その通りだ、とアランは思った。
「なら、そうしてください」
言いながら、未練がましいような気がして、プイと横を向いた。
「隊長の指揮なら、みんなついて行くはずです」
「おまえにそう言われるとは感激だ」
オスカルは心底嬉しそうだった。
「あの新聞記者との約束のせいなんでしょう?そんなものくそくらえだ。なんでおれたちのために除隊なんかしたんですか?!」
「わたしもこれで軍人だからな。二言はない」
「あなたは辞めてはいけなかったんだ。どんなことがあったって、衛兵隊を率いるべきだったんだ」
「ますます感激だ、アラン」
オスカルはやや頬を紅潮させた。
しかし、その顔色とは裏腹に、極めて冷静な声で、次の言葉を続けた。
「わたしは復帰はしない」
「なんでですか?記者との約束ですか?」
「それもある。ベルナールは約束を守った。わたしもまた守らねばならない」
「では、百歩譲って隊長が指揮できないとして、なんで替わりがおれなんですか?」
「おまえが、一番わたしの意志を継いでくれると信じているからだ」
オスカルの蒼い蒼い瞳がアランの目にまっすぐ向けられた。
吸い込まれる…。
アランは本気でそう思った。
深い海の底に引きずり込まれる。
そして一度引きこまれたら最後、どんなにあらがってもそこから抜け出すことはできない。
「おまえの言うとおり、パリはいつものパリではない。王家がここまで軍隊を呼び集めてしまっては、たとえ威嚇のつもりであったとしても、かえって逆効果だ」
オスカルはゆっくりと咬んで含めるように説得をはじめた。
「もし民衆が蜂起したら…。国王は鎮圧を命じる。そのとき衛兵隊はどうすると思う?隊士たちは?」
穏やかなオスカルの声を聞くアランの脳裏を恐ろしい光景がよぎる。
「どうだ?」
重ねて問われてアランはゴクリと唾を飲み込んだ。
「…」
答えぬアランに代わってオスカルが自答した。
「兵士は、決して民衆に銃を向けない。少なくともわたしの兵士たちは…。もし発砲命令が出たら…」
ブイエ将軍の怒り狂う表情、銃殺刑だと叫ぶ声…。
それがなにほどのものか。
きっと拒否する、とアランは思った。
処分なんぞどうってことはない。
アランは大声で命令拒否を叫ぶ自分が想像できた。
「もし、貴族の将校が指揮官なら、衛兵隊はどうなる?」
オスカルが再び質問をなげかけた。
分裂だな、とアランは即座に判断した。
「衛兵隊同士で戦うのか?」
アランは言葉に詰まった。
それは無理だ。
貴族の将校でも仲間は仲間だ。
アランにとっては、士官学校でともに学んだ奴だっているのだ。
ましてこれがダグー大佐であったとしたら…。
だが、だが…。
民衆に発砲は、もっと無理だ。
心が勝手に叫び声を上げそうだ。
「もしおまえが指揮官なら…」
オスカルの声が遠いところからのように一呼吸おいて耳に届いた。
そう、おれならば…、間違いなく命令拒否だ。
武器をひっさげて民衆へ鞍替えだ。
そう思ってから、ハッとした。
まさか…。
「おまえ以外ないのだ」
オスカルがたたみかけた。
寝返りを見越しての任命か。
ダグー大佐もそれを認めているのか。
「だからおまえが指揮官なのだ」
オスカルが決然と言い放った。
「おまえなら、民衆につくだろう」
アランは背筋が凍り付いた。
謀反を認めるというのか、この人は…。
正真正銘の貴族のこの人が…。
国王を裏切り民衆につくことを…。
「何事もないのが一番いい。単に出動して、警戒して、そしてベルサイユに戻ってこられれば、それに越したことはない。皆がそう願っている。だが、万一の事態に備えるのが軍隊だ」
冷徹な真実がオスカルの口から語られている。
アランの手のひらにじっとりと汗がにじんできた。
「それならなおのこと、隊長が復帰してください!あたなの指揮なら、それならおれは謀反でも何でも、絶対に従う!隊長、復帰してください!」
アランの渾身の叫びだった。
それはかたわらにいるアンドレには悲鳴のように聞こえた。
だがオスカルは黙っている。
アランは、いたたまれない思いの中で、怒濤のように押し寄せる運命の渦が、否応なく自分を巻き込んでいくのを感じていた。
ど とう
怒 濤
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