小一時間もすると薬の効き目が現れ、幾分ではあるが、頭痛がひいて、身体をおこすことができた。
そこでフェルゼンはようやく帰宅の用意をすることにし、呼び鈴を鳴らした。
「い、痛い…。まだ少し響くな」
思わず頭に手をやり、だが、今度は気力で起き上がった。
先ほどの侍女がまた来るかと思ったら、今度は随分年老いた侍女がやってきた。
よく見ると、オスカルの乳母である。
以前はしばしばこちらを訪ねてきていたから、顔は知っていた。
そういえば初対面のとき、この人の口からオスカルが女だと知らされたのだった。
たしかアンドレの祖母だと言っていた。
あのときは血相変えて追い出されたっけ…。
まったく、わたしは随分長い間だまされていたものだ。
あとで、知らなかったのか、と相当数の人に笑われたから、宮廷では周知のことだったのだろう。
あまりに当たり前で誰も留学生には教えてくれなかったというわけだ。
無論、オスカルが自身の口から、自分は女だと言うはずもなかった。
まだまだ若かったあの頃…。
この屋敷にはなんとさまざまな青春の思い出がつまっていることか、とあらためてフェルゼンは思った。
フランスで宮殿以外に一番回数多く訪ねたのがここだったのだ。
懐かしい場所には懐かしい人がいて当然のようで実は案外難しい。
けれどここには懐かしい人が当たり前のように存在している。
ましてかわらず元気でいてくれるというのは何ともいえず心が温まる。
このばあやさんは、当時からずいぶん達者な老人だと思ったが、今もかくしゃくとしたものだ、と感心した。
まさかこちらもさっきまで床に臥せっていたとは思いも寄らないフェルゼンは、優しい笑みを浮かべて言った。
「迷惑をかけてすまないね。ようやく起き上がれそうだから、馬車の用意をしてくれないか。アンドレの手紙には、こちらが送ってくれると書いてあった」
客人からいきなりアンドレの名が出て、ばあやは驚いたように顔を上げた。
そういえば三人で酒宴だったとオルガが言っていたと思い当たり、続いてすぐに、ではアンドレの親しげな態度から何か悟られてはいまいか、との不安がばあやの胸をよぎった。
が、そこは使用人歴60有余年のプロである。
「承知いたしました。いつでもご用意は整っておりますので、ご都合のよいときにお発ちくださいませ」
と、答え、フェルゼンの着替えをてきぱきと手伝った。
廷内だけではない。
こういう客人に対しても、自分はこれから気を緩めず戦っていかなければならないのだ、とばあやは気合いを入れ直し、見事な手際でフェルゼンに衣服を着せた。
この衣服を脱がせたのがアンドレならば、孫と祖母の双方に世話をかけているわけで、オスカルのことを笑えないな、とフェルゼンは苦笑しつつひとりごちた。
「なにか?」
とばあやが耳ざとく聞き返してきたので、
「将軍と奥方さまにご挨拶をしたいが、ご都合はいかがかな?」
と尋ねた。
「だんなさまはお部屋にいらっしゃいます。奥さまは今はお庭に出ていらっしゃいますが…」
「そうか、では、将軍にご挨拶ののち、馬車に乗る前に庭に回ろう。わざわざ取り次ぐことはいらない。簡単に御礼を申し上げるだけだから」
フェルゼンが上着の袖を通したのを見届けるとばあやは
「お庭も広うございますから、おくさまがいらっしゃるところまではわたくしがご案内いたしましょう」
と、案内役を買って出てくれたので、支度がととのうと、フェルゼンはばあやに先導されて、まずは将軍の居室を訪ねた。
将軍は書き物をしていたが、フェルゼンの顔を見ると、立ち上がり、
「具合はいかがですかな。?」
と、穏やかに聞いた。
昨夜の乱行はすでに耳に届いているはずだが、この人はそういうことには一切触れない。
「はい。昨夜来、大変お世話になりました。お騒がせいたしましたこと、ただただお恥ずかしい」
「なに、若いときはそういうものだ。わたしにも覚えがある」
と、将軍はフェルゼンをさらに恐縮させる言葉を継いだ。
「あなたがまたフランスにおいでくださり、王室をお守りするものとして、心強い限りです。ぜひとも今回は長くお留まり頂き、国王陛下をお助けください」
オスカルとよく似た真っ青な瞳が、真摯にフェルゼンを見据えた。
「恐れ多いことです。将軍閣下。わたくしの存在がなにほどのお力になれるかはわかりませんが、王室のためにこの身を捧げる覚悟だけは、いつでもございます。なんなりとお申しつけください」
フェルゼンはきっぱりと答えた。
三部会開催自体が、いわば貴族の抵抗から発案されたものだという事実が示すように、王家に対する忠誠心を堂々と発言するものの数は、ベルサイユの貴族の中でも目に見えて減ってきている。
その有様が、将軍にとって耐え難いものであるのは明らかで、このようなときにあえて故国を離れ、フランス王家のために身命を賭して駆けつけてきたフェルゼンの行動は、たとえ動機に恋情という私的なものが含まれているとはいえ、充分に賞賛に値した。
「フェルゼン伯爵。どうかご承知おきいただきたい。たとえすべての貴族が王室を見捨てて平民に味方しようとも、このジャルジェ家は、このジャルジェ家だけは最後まで陛下に忠誠を尽くし王家をお守りいたします」
それは絶対にそうだろう、とフェルゼンは思った。
この人もまた信念の人だ。
そこで自分の命と秤にかけたりは決してしない。
やはりオスカルとは親子だ。
フェルゼンは固くうなずいた。
二人はどちらからともなく両手をさし出し、無言で握りあった。
それから将軍は自室を出てわざわざ玄関ホールまでフェルゼンを見送った。
夫人にも挨拶をしていく、と伝えると、
「ご丁寧に…」
と軽く頭をさげた。
若いときには、さぞ豪華であったろう金髪は、すでに白くなっていた。
けれども、失われた若さと引き替えに、この人は何事にも動じない風格を手にした。
フェルゼンはその姿に深い感銘を受け、言った。
「わたしは今、このフランスに生涯最高の友をひとり持っています。彼女もまたあなたと同様、自己の信念にのみ基づいて生きるのでしょう」
思いがけない言葉に将軍はやや目を見開き、それからゆっくりとうなずいた。
「あれもまた、卑怯者にだけはならんでしょう。あれはあれの信じる道を行くだけです。親としてその育て方を顧みて、忸怩たるものがないといえば、嘘になりますが…」
そこまで言って将軍は言葉を切り、やがて天を仰ぎ
「誰に似たのか…、どうしようもない頑固者ですからな」
と、言ったので、フェルゼンは、父親であるあなた以外の誰がそこまで頑固でしょうか、と突っ込みそうになるのをこらえ、ただ
「おっしゃるとおりです。ありがとうございました」
とだけ返した。
フェルゼンはばあやに導かれゆっくりと外に出た。
背後で静かに扉の閉まる音がした。
今一度振り返り、フェルゼンは閉じられた扉に向かって居住まいを正し、深い尊敬の念を込めて会釈した。
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