ばあやの案内で夫人を捜して庭園を歩きながら、フェルゼンは運命のいたずら、ということをふと考えた。
先ほどの将軍の言葉、ジャルジェ家の忠誠ということ、それをはたしてオスカルはどう考えているのだろうか。
平民のアンドレと、あれほど自然に寄り添うオスカルは、父と同じ気持ちでいるのだろうか。
ジャルジェ家の継嗣であるということと、アンドレとともにある、ということを、オスカルは一体とのように心の中で位置づけているのだろう。
自分と王妃のように、運命のいたずらと嘆くしかないのか。
もとより王妃に対する忠誠心に疑いはない。
14歳のときからおそばに仕えたと聞いている。
主従をこえた深い精神的つながりがあることは、先の謁見で、女同士の秘密の話をしたという王妃の言葉からも明らかだ。
だが、恋情はときに理性を突き抜ける。
今、自分がスウェーデンではなく、このフランスにいることもまた、理性を超えた恋情のなせる業以外の何物でもないのだから。
咲き誇る花のない冬の庭園に、かすかに薔薇の香りを感じ、フェルゼンは我に返った。
夫人が侍女に花かごを持たせて自ら、剪定をしていた。
風に吹かれて、夫人の香水のにおいが自分の鼻をくすぐったのだと気づいた。
夫人の方もフェルゼンの姿をみとめ、花壇の中から穏やかに微笑み軽く会釈した。
そしてはさみを侍女に渡すと、花壇から通路に出て、フェルゼンのそばにやって来た。
ばあやはフェルゼンの荷物を、侍女は花かごとはさみをそれぞれに手にして少し離れて控えた。
「もう起き上がれますか?」
との夫人の問いかけに、フェルゼンは赤面しつつ
「はい。大変お世話になりました。これにて失礼いたします」
と、頭を下げた。
「また、こうして時々いらしてくださいね。オスカルもきっとそう願っていることでしょう」
夫人は優しく語りかけた。
「ありがとうございます。ぜひ、そのようにさせていただきます」
「ただし、次回からはやはり晩餐においでなさいませ。あの子のお酒につきあわせるのはお気の毒です」
夫人はちゃめっけたっぷりに笑った。
「は、はい。いや、これは…参りました」
たおやかな夫人は、かつて王太子妃づきの女官長もつとめたほどのしっかりものだったと、フェルゼンは思い出した。
アントワネットとデュ・バリー夫人との諍いの中で、時に人の命まで奪われるほどの陰謀術策が渦巻き、それでもジャルジェ伯爵夫人が敵を作らなかったのは奇跡のようだった、とかつてアントワネットさま付きの女官たちからさんざん聞かされたものだった。
では、この方はご存知なのだろうか。
娘のことを…。
また、夫のことを…。
運命のいたずらを…。
と、フェルゼンは思いめぐらさずにはいられなかった。
当時の宮廷でのようにここでも見事な差配を発揮してくれれば、どんなに父娘にとって幸福であることか、との止みがたい思いにかられ、フェルゼンは無意識のうちに言葉を発していた。
「伯爵夫人、どうかいつまでもご健在で、ご当家の要としてのお役をおつとめください」
唐突な申し出に、少し驚いた夫人は、やがてフェルゼンの真意を察したのか、にっこりほほ笑んで言った。
「これは、過分のお言葉、恐れ入ります。わたくしの役目が要であるなどと、夫やオスカルが聞きましたならば、きっと一笑に付すことでしょう。けれども、フェルゼン伯爵、扇の要がたった一カ所を押さえているがゆえに、ばらばらになるのを防いでいるように、わたくしもそのように勤めたいと思っております。そのようにおっしゃっていただいて大変嬉しゅうございます」
と、夫人はいつになくきっぱりと言った。
「その御言葉を聞いて安堵いたしました」
突然の無礼な申し出を、さらっと受け、しっかりと本質をついて答えた夫人に、深い敬意を表してフェルゼンは手をとり口づけた。
すると夫人はクスクスと笑い、
「フェルゼン伯爵、一度この挨拶をオスカルにもしてやってくださいな。しばらく色々な人間模様が楽しめると思いませんか?おっほっほっほ…」
といたずらっぽく言いながら、離れて控えていた侍女を促し、花壇に戻った。
そして侍女から花ばさみを受け取り、無駄に長く伸びてしまった枝をばっさりと切り落とすと、フェルゼンににっこりと微笑み、
「ご機嫌よう」
と別れの挨拶をした。
今度こそ、フェルゼンは
「恐れ入りました」
と頭を垂れ、自分が二日酔いで頭痛のまっただ中にあったことを思い出し、この賢夫人の前から逃げるように退散した。
再びばあやに導かれ、早足で歩きたいところ、頭痛のため、どうにもそろそろとしか進めないフェルゼンは、おのが姿が腹立たしくも情けなかった。
ようやく ほうほうの体で馬車止めにたどりつき、御者の手を借りて車内に乗り込んだ。
ばあやが、荷物を向かいの座席に置いてくれた。
「ありがとう、世話になった」
と、それでも律儀に礼を言う貴公子に、ばあやは
「なんだかお気の毒なご様子で…。お客さまをこのようにさせてしまって、申し訳ありませんでした。わたしからもアンドレをきつく叱っておきますので、お許し下さいまし」
と、頭を下げた。
ここまで飲ませたのはオスカルに違いないが、オスカルの不手際はすなわちアンドレの不手際であるから、ばあやは心から客人に詫びた。
「いやいや、アンドレにはなんの落ち度もないのだ。すべてわたしの不徳の致すところなのだからね」
と、フェルゼンはあわてて言うと、
「出してくれ」
と、御者に声をかけた。
ジャルジェ家の豪華な馬車に揺られながら、フェルゼンは散々な結果となったこのたびの訪問を思い返した。
懐かしい、楽しいひとときと、信じられない頭痛と、敬慕の念を抱かせる当主との語らいと、そしてさきほどの夫人の言葉…。
暴挙と知りつつ、夫人の言葉を脳内で映像化してみた。
あでやかに微笑むオスカルの手を取って挨拶した自分が、突如オスカルとアンドレの双方から袈裟懸けに切られる姿が脳裏に浮かんだ。
しかも背後には王妃の冷たい視線まで…。
悪い冗談だ、人間模様を楽しむどころか…下手をすると流血沙汰だ、と震えあがりつつ、この肝の据わった夫人ありせば、ジャルジェ家は安泰だ、とも強く確信し、この二日間に渡ってしまった訪問を、よき想い出のひとこまとして総括した。
そして窓からそっと顔を出すと、御者に
「すまないが、できるだけ静かに走ってもらいたい」
とささやくように言い、聞こえません、と大声で返され、
「頼むからゆっくり走ってくれ」
と、悲鳴のように叫んだ自分の声に、ついに彼の頭は爆発し、深々と座席に沈んだのだった。
つづく
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