西側の窓から陽が低い確度で差し込んできて、オスカルは目を細めた。
馬車は軽やかに衛兵隊ベルサイユ駐屯部の門を出た。
今日はめずらしく何事もなく平穏無事に過ぎ、帰宅時間もかなり早かった。
アンドレはオスカルの向かいに座って夕陽を見ている。
相当タフな奴だ、とオスカルは心密かにアンドレのことを礼賛した。
フェルゼンがぶっ倒れたあと、客間に運び、着替えさせ、寝かしつけ、それから再び戻ってきて、今度は自分を寝室に運んでくれた。
もちろん、自分はフェルゼンのようにつぶれたわけではないが、せっかく運んでくれるのならば、身を任せたほうが良いに決まっている。
久しぶりの酒は本当に気持ちよく杯が進み、床につくとすーっと眠りに落ちた。
そして今朝、心地よい眠りから目覚めて、酒宴のあとを見に行くと、そこはきれいに片付けられていた。
アンドレの姿を探すと彼は厨房で頭痛薬を煎じていた。
「わたしは二日酔いになぞなっていないぞ」
と言うと、
「おまえのではない。フェルゼン伯爵の分だ」
と返された。
そうか、フェルゼンは潰れたままか、と、痛快な気分を味わった。
「二日酔いには薬より迎え酒だろう。フェルゼンは修行が足りんな。もう少し鍛えてやらんと張り合いがない」
「おまえと張り合わねばならんのなら、伯爵は金輪際こちらには来られないだろうよ」
背中を向けたままのアンドレから素っ気ない言葉が返ってきた。
「フェルゼンが来るのは嫌か?」
少し気が咎め、そっと聞いてみた。
アンドレの肩がピクッと動き、けれども振り返った彼は、
「大歓迎だよ。ただし酒抜きを希望するけどな」
と溶けそうな笑顔で答えてくれた。
その笑顔を見て、オスカルは、愛している、と思った。
自分でも不思議なくらいに…。
黒ぶどうの髪、黒曜石のぬれてきらめくただ一つの瞳。
こんなにも胸騒ぎ立つ懐かしい香りがあろうとは…。
こんなにも思いのたけを込めて人を恋する日が来ようとは…。
もう生きられない…。
ひとりでは…。
馬車にゆられながら、今朝の自分の思いが蘇り、知らず知らず目の前のアンドレを凝視していた。
「眠くないか?」
とアンドレが聞いてきた。
「いや…。わたしよりおまえの方がよほど眠いだろう。少し休んでいいぞ」
と、いつになく優しい言葉をかけたとき、突然馬車が止まった。
「どうした?」
アンドレが窓から顔を出して御者のジャンに聞いた。
「向こうから来る馬車、うちのですよ」
との答えに、前方を見ると、確かにジャルジェ家の馬車で、御者は馬方のジャックだった。
ジャックもこちらに気づき、急いで馬車を止めた。
「どこへ行くんだ?ジャック」
ジャンが大声で聞くと、
「お客人をお宅まで送っていくのさ」
ジャックがこれまた大声で返答した。
「客人…?フェルゼンか…?」
オスカルがつぶやいた。
アンドレはすぐ馬車を降りた。
前方の馬車の窓が開き、きよろきよろと顔をのぞかせているのは紛れもなくハンス・アクセル・フォン・フェルゼンだった。
こちらも何事かと御者に尋ね、
「うちのご主人さまの馬車ですよ」
と教えられている。
「え…っ?」
顔を進行方向にやったフェルゼンはアンドレの姿を認め、一瞬、馬車に引きこもろうかとさえ考えた。
今頃帰る自分を化け物たちに見られるのはどうにも気まずい。
アンドレならまだしも、オスカルとは特に…。
だが、それはあまりにも白々しいので、腹を決めて、自分から声をかけた。
「やあ、アンドレ。随分世話になった。今、帰りかい?」
「はい、伯爵」
と答えながら、アンドレはフェルゼンの馬車に近づき、窓へ顔を寄せると
「大丈夫ですか?おつらいのではないですか?もう少しゆっくりなさってもよかったのでは…?」
と心配げに尋ねた。
「いやいや、面目ない。きみの忠告をもう少ししっかり聞いておくべきだった。痛恨だ」
いかにも決まり悪い顔で答えるフェルゼンに、アンドレは心底同情した。
オスカルと徹底的に飲むには、それなりの年季と覚悟がいるのです、とのアドバイスをいつか伝えようと決意しながら、アンドレは丁寧に詫びた。
「本当に申し訳ありませんでした。もう少し強くオスカルを止めるべきでした。どうかこれに懲りず、またいらしてください」
「ありがとう。だが、酒抜きで、とジャルジェ夫人にも釘をさされた。次回からはそうさせてもらうよ」
まさかオスカルがもっと鍛えてやろうと手ぐすねひいているとは言い出せず、アンドレは自分も夫人と全く同感である旨を伝え、馬車に戻った。
「やはりフェルゼンか。今頃まで寝込んでいたとはな…。次は酒の飲み方を一から教えてやろう」
嬉しげなオスカルをたしなめつつ、アンドレは
「奥さまに次回からは酒抜きでと、言われたそうだ」
と、伝えた。
「なんと…!母上の最近のご趣味はわたしの楽しみを奪うことにあるのではないか」
オスカルは頬を膨らませた。
アンドレはぶつぶつこぼすオスカルを無視して、
「ジャン、進めてくれ」
と叫んだ。
二台の馬車がゆっくり動き始めた。
互いに開けた窓から相手が見えた。
フェルゼンは深々と座席に座り、対向車に静かに片手をあげ、力なく微笑んだ。
オスカルは窓から身を乗り出して、大声で、もっと修行しろ、と叫び、アンドレに馬車に引き戻された。
やがて完全にすれ違うと、オスカルの馬車は即座にスピードをあげて颯爽と、フェルゼンの馬車は揺れれば神罰でもあたるかのようにそろそろと、それぞれの目指す方向へ進んでいった。
たまたま同じ時、同じ場所を馬車で通りがかり、こうしてすれ違ったことは、単なる偶然であるかもしれないが、深い縁で結ばれたものたちに、なにがしか神の意図が働いてなされた必然であったのかもしれない。
アンドレは昨夜フェルゼンと二人だけの時に交わした言葉を思い返していた。
命がけで守りたい女性と運命的に出会ってしまった同じ境遇の、ただの男としての、心地よい会話だった。
そこに身分の隔てはなかった。
遠ざかっていく馬車の中で、たとえこれから先、どのように道が離れていこうとも、今、互いが互いの幸福を祈ったことは間違いない真実で、それだけで、充分に深い魂のつながりを感じることができた。
アンドレが車外に眼をやると、先ほどまで西空に見えていた夕陽が雲間に隠れ、焼けたような空があたりを覆い、まもなく春だ、と告げていた。
おわり
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