「短い間でしたが、言葉では言えない恩義を頂きましたこと、本当に心から感謝いたしております。ありがとうございました。どうか奥さま、お元気でお過ごし下さいませ。どこにおりましてもわたくしは奥さまのお幸せをお祈り申し上げております」
エヴリーヌが、非の打ち所のない、立派な、かつ情感のこもった別れの挨拶をして、部屋を、いや、屋敷を出て行った。
ジョゼフィーヌは、せめて玄関まで見送ってやろうか、と思ったが、不覚にも涙など流してしまっては、晴れの門出にケチがつくと思い直した。
そう裕福ではないエヴリーヌの実家が、あまり持参金を持たせられなかったと聞き、退職金名目で、常識的な額に相当上乗せしたうえに、祝いと称して、いくつかの貴金属も持たせた。
無論、嫁ぎ先のマリー・アンヌの家で、肩身の狭い思いをさせられることなどまずないだろうが、それでも何かと心づくしをしないではいられなかった。
古株の侍女がやってきて、馬車が出たことを知らせてくれた。
エヴリーヌは、この侍女が仕込んだのだった、と思い出した。
見所があり、教えがいがある、と言っていたから、きっと自分の気持ちと同じだろう、ねぎらってやらねばと、声をかけた。
「急なことでしたが、色々、相談にのってやってくれたそうで、ご苦労でしたね」
「いいえ、わたくしなど、なにほどのこともいたしておりません。奥さまこそ、もったいないくらいお気遣いくださって、使用人一同感激いたしております」
ジャルジェ家から嫁いで20年近くたつが、少女のようなかわいらしさをいまだにとどめているジョゼフィーヌに、古参の侍女は心から感謝していることを伝えた。
使用人たちは、エヴリーヌの結婚がジャルジェ家の陰謀によるものだとは知るよしもない
奥さまのお使いで公爵家にいったときに、先方の執事の息子に見そめられ、ぜひにと望まれて、とんとん拍子に縁談が進み、今日にいたった、というのが共通理解だった。
エヴリーヌ自身がそう思っているのだから、周囲が異を唱えようはずもないことだ。。
だが、実際は…。
ジョゼフィーヌはため息をついた。
もとはといえばオスカルのせいなのだ。
けれどそれを言い立てると、母や姉たちに、オスカルも家の犠牲者なのだから、守ってやらねば、と諭される。
そのうえ、諸悪の根源はお父さまなのだから、わたくしたちは一致団結して立ち向かわなければ、勝ち目はないのよ、と説教される。
オスカルも犠牲者…。
二言目には母と姉が言う。
そうなのだろうか。
確かにそう思い、かわいそうに思ったこともあったが、最近のあの子を見ていると、犠牲者というには、あまりに態度が大きいように見える。
そうだ、態度が大きいのだ。
こういう言葉使いは、貴婦人として日頃から厳に戒めているから、口に出すことはできないが、心の中ではいくらだって言える。
ジョゼフィーヌは、今日ばかりは、心の中で罵詈雑言を吐くことを自分にゆるしてもよかろう、と思い、妹への苦情を続けた。
六女のくせに、さんざんわたくしの世話になったくせに、態度が大きいのだ。
そもそもが、あのような境遇のおかげで、両親の愛情は誰より多く受けてきたはずだ。
15やそこらで嫁がされた自分と違い、30過ぎても親元で、親の庇護を受けて、妻にも母にもならず、ただ子供としてのみ生きている。
いや、一応妻にはなったのだった。
しかし妻となるにあたっての、あの過保護なまでのお母さまやお姉さまの行動。
自分も一枚かまされたことが、今となっては口惜しい。
そのうえ妻となっても実家で暮らし、夫への気遣いなんてこれっぽっちもしていない…はずだ。
何と言っても夫は幼馴染みの従者なのだから、しかもよくできた従者だから、妻とはいえ好きにさせているに違いない。
わたくしなど、夫だけでなく、婚家の両親や、夫の兄弟、使用人たちにどんなに気遣いしてきたか。
お姉さまたちだって、皆さま、そうだったはずなのに、あの子には、とことん甘くていらっしゃる。
五女と六女でのこの違い…。
軍隊勤務が何だというの?とまで言ってしまっては身も蓋もないけれど、このたびのことで、せめてオスカル自身から御礼のひとことくらいあってもいいのではないかしら。
ついでにお詫びも…。
甘やかされたあの子には、そんなことは思いも付かないようだけれど。
エヴリーヌに随分高価なお祝いを届けてきたから、自分がこの縁談の元凶だという自覚はあるようだ。
そちらにそれだけの配慮ができるなら、わたくしにもしなさいよ。
悶々とした思いが次から次に押し寄せて、黙っている女主人を、侍女は、去っていった使用人を惜しんでくれていると受け取り、さらに感激していた。
美しくて優しい、自慢の奥さま、一層心をこめてお仕えしよう、と決意を新たにしていると、年若い侍女が、手紙を持ってきた。
沈黙しているジョゼフィーヌにペーパーナイフを添えて差し出した。
「お母さまからだわ」
きっと落ち込んでいる自分をなぐさめてやろうと思ってくださったのだ、とジョゼフィーヌは、いくばくか立ち直り、急いで封を切った。
愛しいジョゼフィーヌへ
いろいろ事情があって、ついにばあやに本当のことを話しました。
はじめはショックで寝込んでしまいましたが、今は復活しています。
二人のことを応援する同志がふえたことになります。
おかげでオスカルは最近とても明るくなって、嬉しい限りです。
もういつこちらへ来ても構いませんことよ。
ただし、お父さまにはまだ内緒だから、そこのところは充分気をつけてくださいね。
母より
目が点になった。
「な、なんなの…?」
「は…?」
「どういうこと…?」
「奥さま…?どうかなさいましたか?奥さま…!」
心配顔の侍女を尻目にジョゼフィーヌは長椅子に深々と座り込んだ。
「ひとりにしてちょうだい」
尋常でないジョゼフィーヌの姿に、侍女は驚きつつ退室した。
ばあやが知ってしまった…。
応援する同志…。
だったら、なんではじめっからそうしなかったのよ?
そしたらエヴリーヌは結婚しなくてすんだのに…。
気づいたときには手紙をぐしゃぐしゃに握りしめていた。
そして勢いよく立ち上がると、めずらしく机に向かい、さらにめずらしい長文の手紙を延々としたためた。
せめてこれくらい書いても罰は当たるまい。
オスカル、あなたはわたくしに謝罪すべきです。
あなたの鈍感さと無遠慮な態度が、どれほど周囲を混乱に陥れたかを、胸に手を当てて、じっくり考え、反省し、詫び状を寄越しなさい…・
日頃の筆無精が嘘のようにペンがスラスラと進む。
ええ、ええ、今回、わたくし以外は誰も損をしていないのよ。
お母さまもばあやもオスカルも…。
マリー・アンヌお姉さまだって、執事後継者にもったいないくらい良い嫁が来て、結構なこと!
わたくしだけが、理不尽な理由でお気に入りの侍女を手放すはめになって…。
恨み辛みがあふれんばかりにこめられた手紙が完成した。
再び侍女を呼びつけ、至急ジャルジェ家のオスカルに届けるよう指示した。
さあ、あとは返事を待つばかり。
ようやくジョゼフィーヌは心を鎮めた。
翌日、そりのあわない姉からの分厚い手紙をわたされたオスカルは、こんな忙しいときに読んでいられるか、とアンドレにむかって放り投げた。
そして、返事がいるようなら、おまえが適当に書いておいてくれ、と言った。
だが、アンドレとしてもさすがに私信を読むわけにはいかず、律儀にオスカルの文箱に手紙をしまった。
オスカルは忙しい。
手紙の件はその日のうちに完全に忘れた。
封が開けられるのがいつになるのか、神のみぞ知るところである。
終わり