予 兆

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選挙が迫っている。
たとえ、平民でも政治に口出ししてよいのだ。
誰はばかることなく、堂々と自分の意見を主張しよう。
自分の持つ投票権を最大限有効に行使することこそ、新しいフランスを作る第一歩であり、我々に与えられた最高の権利だ。

街頭で地面に置いた野菜用の木箱に乗り、ベルナールが大声で叫んでいた。
周囲に人だかりができ、次に演説しようという候補者が、その隣に立って、原稿を見直している。

その演説を聞く人の群れからやや離れた所に、複数の兵士の姿があった。
街頭演説が、ときに小競り合いのもととなり、暴動につながることを警戒して、衛兵隊のパリ留守部隊は、市内に散って情報を収集し、いつどこで誰が演説するかをリストアップしていた。
そして危険な匂いを感知すると、数人の兵が武器をこれ見よがしに携帯して、群衆からやや離れたところに立ち、見張りを務める。
力ずくで市民を押さえ込むためではなく、市民の安全を守るために、オスカルはこの方法を選んだ。
暴動は関係ないものも容赦なく巻き込み傷つける。
それを未然に防ぐには、威嚇というものも必要だ、との軍人としての冷静な判断の結果である。

もとより、ベルナールの演説自体に危険性はない。
今のところ、彼は、市民に武器を取れ、と言っているわけではなく、投票に行こう、とよびかけているだけだからだ。
だが、彼の記事を載せた新聞は市民に人気があり、候補者の立ち会い演説会を主催すると、大勢の人が集まる。
ひとりひとりにそのつもりはなくとも、群集心理というものは、ときに思いもかけない騒動を引き起こす危険性があるのだ。
貴族というだけで、豪奢な馬車に乗っていた、というだけで、今のパリでは命を狙われることすらある、ということを、オスカルは身をもって学んでいた。

兵士が遠巻きにしている、さらに遠く離れた路地に、質素な馬車を止め、オスカルは演説風景を監視していた。
この距離では、ベルナールの声は届かない。
だが、きらきらした眼と少年のように紅潮した頬が、躍動的な生命そのものをあらわしていて、自然に周囲に力を与えていることは、遠目でもよくわかった。
「ロザリーは幸せだな」
思わずつぶやいた。
「会わなくてもわかる」
「ああ。ベルナールがあんなに元気なのは、私生活が充実しているからだろう」
アンドレの同意を得て、オスカルは満足げにうなずいた。

幸い、数人の候補者の演説は、無事に終了した。
人々が解散しはじめた。
すると、ベルナールが
「今の演説は、ここに書いてある。さあ、みんな買って帰って、聞けなかった仲間に読ませてやれ!」
と叫んだ。
演説会を主催し、人を呼び集める代償に、演説の要旨を前もって候補者から聞き出し、自分の新聞に掲載して、演説会終了と同時に、その場で売りさばく、というわけだ。
「見事な商魂だな」
と感心するオスカルに、
「だが、誰も損をしていない。原稿を渡した候補者も、印刷した新聞社も、記事を買って帰った市民も…。それこそが見事だ」
とアンドレは返した。
飛ぶように売れた新聞に、喜色満面のベルナールと記者仲間が、演説台の空き箱をかたづけているのを確認して、オスカルは馬車の窓をしめた。

程なく兵士だちが、オスカルの馬車に近づき、簡単に経緯を報告した。
すでに自身の目で確認済みではあったが、オスカルは再び窓を開け、丁寧に返答した。
「ご苦労だった。一旦パリ本部に戻り、午後の計画を伝える」
「はい、承知しました」
窓が閉じられ、兵士たちは、馬車の前後に整列し、警護する体制を取ると、出発した。
何事もなく終わったことに一番ほっとしているのは、いざというとき前面で武器を持たねばならない兵士たちである。
だが、気を緩めたときほど、大事が起きる。
オスカルは再び窓を開け、
「本部に戻るまで、決して気を抜くな」
と命じた。
まだあと半日。
無事に過ぎて欲しい。
絶える事なき緊張感に、オスカルは軍服の詰め襟を少しゆるめた。



本部に戻ると、午前の巡回や監視を終えた兵士が各々の持ち場から続々と戻ってきていた。
どの顔にも安堵感が漂っていて、騒ぎが起きなかったことを、無言のうちに伝えていた。
オスカルとアンドレは顔を見合わせ、ほっとため息をついた。
本部と言っているが、もとは留守部隊である。
市内警護の人員増員のため、衛兵隊ベルサイユ駐屯部隊もパリに主力を移さざるを得ず、当然、指揮を人任せにできないオスカル自らがパリに出ずっぱりとなり、ダグー大佐が預かるベルサイユの方が留守部隊と化していた。
したがって、もともとはパリ留守部隊である現在のパリ本部は、近年にない人口密度となり、隊士でごった返していた。

それをかきわけるようにしてアンドレが進路を確保してくれる中、オスカルは司令官室に向かった。
「ああ、どけどけ、隊長のお通りだ」
と、叫びながら、この人数の口を満足させる食糧が、はたして留守部隊の食堂にあるのだろうか、と、いたって現実的な心配をアンドレはしていた。
まさか、隊長の分まで食い尽くされることはないだろうが、早いこと食堂へ行って、確保しておくに越したことはないな、と思い、オスカルが司令官室に入ったのを見届けると、アンドレはすぐ食堂に向かった。

案の定、食堂は超満員で、椅子に座れなかったものが、床に座り込んで昼食を取っていた。
野郎たちの、空腹感を原因とする殺伐とした雰囲気の中で、アンドレはなんとか一人分トレイにのせることに成功した。
自分の分は、あとで取りに来るか、空いた頃合いを見計らって食べに来れば良い、と思っていると、後ろから声がかかった。
「アンドレ、それ、隊長の分?」
フランソワだった。
「ああ。今から届けるところだ」
「自分の分はどうしたのさ?」
「二つもてるほど器用じゃないからな。あとで取りに来るか、食いに来る」
「俺、今、終わったから、アンドレの分、持ってってやるよ。パリには隊長専属の食事当番もないもんね」
優しいなあ、フランソワ。だが、このまえしつこく指輪のことでオスカルに迫ったから、おまえ今評価を落としているぞ、とは言わず、有り難く好意に甘えることにした。

アンドレが司令官室の机にトレイを置いて、疲れた様子のオスカルを座らせたとき、扉がノックされた。
「フランソワ・アルマンです。お食事をお持ちしました」
やけに明るい声だ。
「入れ」
「失礼します」
にこにことフランソワが入ってきた。
「悪かったな。助かったよ」
フランソワからトレイを受け取りながらアントレが言った。
すぐに退室するかと思うと、チロチロと二人を見ている。
また、つまらないことでからむと、今度こそ、おまえの評価は地に落ちるぞ、とアンドレは気が気でない。
すると、
「アンドレはいつも隊長と食べられていいなあ。家でも職場でも…」
といかにもうらやましそうにフランソワがつぶやいた。
「そんなことはない。今日はたまたまだよ。それに家で一緒のわけがないだろう」
アンドレはあわてて否定した。

オスカルとともに食事をするのは、衛兵隊に入ってからはじまったことで、それまでは、同席などしたことはない。
給仕は何度もしたけれど…。
衛兵隊転属後、アンドレも同時に入隊し、しかも隊長付となり、さらに、オスカルが自分も兵士と同じものを、と言ったから、昼食を司令官室で取るときだけは、相伴するようになったわけで、いつも一緒というわけでは決してない。
いらぬ誤解や疑いを招くのはまずい、次回からは、食堂に行こう、とアンドレは思った。

「わたしと一緒に食事をしたい、とフランソワは思っているのか?」
オスカルが聞いた。
「あったりまえじゃないっすか。俺だけじゃなくて、みーんな思ってますよ」
一度、この連中と飲み屋に行ったことがあった。
そう、このパリで、ノエルの休暇のときだ。
なかなか楽しいひとときだった。
愉快な想い出がよみがえる。
「そうか。それは光栄だな。考えておこう」
フランソワの上機嫌が伝染したように、オスカルは答えた。
「あ、ありがとうございます!」
フランソワは大喜びで退室した。


「おい、安請け合いして大丈夫か?」
アンドレが固いパンをちぎりながら、尋ねた。
「なに、一度くらいみんなと食べてもかまわんだろう。楽しそうじゃないか」
「そうだな。そのほうが食も進むかも知れない」
最近、オスカルはとみに食が細くなっている。
激務で、時間がとれないせいだとは思うが、荒くれ兵士たちなら、どんなに忙しくても食べるものはきっちり食べるわけで、むしろ食べなければ持たない。
時間がなければ流し込むようにしてでも腹に詰め込んでいる。
それにくらべるとオスカルの食事量は心細い限りだ。
いっときにくらべて随分と酒量も減り、ようやく顔色も芳しくなってきたというのに…、とアンドレが思っているのを察してオスカルが笑った。
「そんなに食べてないわけではない。心配しすぎだ」
「釈迦に説法だが、軍人は体力勝負だからな」
真面目な顔でアンドレが言うと
「アルコールがあるとだいぶん違うんだがな…」
と、オスカルは混ぜっ返した。

結局、すべての品が半分ずつ皿に残ったままオスカルは昼食を終え、食糧難のご時世にそのまま返却するのはあまりにもったいないので、仕方なく、アンドレが残りを食した。
「あんな食うことしか楽しみのない奴らと同量を食べろと言う方が無理だ。おまえはカラもでかいから、余分に食べてちょうど良い。なかなかうまくできてるではないか。とにかく、今度、食堂に顔を出してわたしも兵士諸君と同席しよう。段取りをつけておいてくれ」
オスカルはアンドレの不安げな顔をまるで無視してニコニコと指示した。


                                             つづく