午後からは、チュイルリー宮広場に、人員を増加して編成しなおした部隊を率いてオスカルは出動した。
大がかりな集会が開かれるとの情報があったからだ。
僧侶出身でありながら第三身分から出馬したシェイエスが、演説するという。
貴族であるのに平民議員に立候補したミラボー伯爵とならぶ人気者だ。
彼の出した「第三身分とは何か?」というパンフレットは、空前のベストセラーになっていた。
いわく、
第三身分とは何か? すべてである。そして今までその政治的価値は? 零である。
では何を求めるか? 相当なものになること。
つまり、第三身分はすべてに相当するものになることを求める、というのが彼の主張であった。
その骨格はまさに革命の根本をなすもので、はじめて目にしたときは、オスカルも度肝を抜かれる思いがした。
何も持たぬ彼らが、国のすべてであり、そのすべてにふさわしい地位を要求する、という主張は斬新で刺激的で、感動すら覚えた。
演説に立ったシェイエスは舌法鋭く、持論を展開した。
すなわち、三部会において、第三身分は、意志を通すに際して、特権階級と手を結ばず、多数決の国民議会をつくるべきだ、と言うのである。
三部会の構成人員は、基本的には、僧侶の第一身分300人、貴族の第二身分300人、平民の第三身分600人とされたから、部会別では負けても、頭数による多数決なら、第一、第二からの寝返りを働きかければ、第三身分の主張を議決できる。
であるならば、第一、第二身分に妥協する必要はない。
この提言は、実際、三部会開会後に、第三身分から提案され、ジュー・ド・ポームの誓いとして、実現する。
いわゆる国民議会である。
歓声があがった。
「多数決を…!」
という声があちこちに響く。
第一身分、第二身分は直接選挙だが、第三身分は間接選挙である。
投票権を持たない者も、この中には大勢いるはずだ。
だが、それがなんだというのだろう。
なんの権利も保持できなかった、シェイエスいうところの零であった第三身分が、数を頼りに、世の中を変えていこうとしているのだ。
熱気が寒風をどこかに吹き飛ばした。
馬上からその様子を観察しつつ、オスカルは深い思考の沼に嵌っていく自分をもてあました。
最も力弱き人々、それがオスカルにとっての平民の定義だった。
だが、今、眼前で拳をあげ、口々に叫ぶこの人々が、華麗な宮殿の中に日がなたむろして噂話に精を出し、働くことなく食糧を口にしている貴族に比べて、力弱きものと言えるのか。
人間の持つ力とは、いったい何なのか。
権力が力なのか。
熱い志が力なのか。
何が、世の中を動かしていく力となりうるのか。
第三身分がすべてである、というならば、神から統治の権力を授かったという王とは何なのか。
その王によって身分を保障される貴族とは何なのか。
突然、世界がぐるっとまわった。
空が下に見える、と思ったとき、アンドレが、抱きかかえてくれた。
「オスカル!」
自分を呼ぶ声が遠くなるのを感じながら、オスカルの意識は遠のいていった。
アンドレは斜め前のオスカルが馬上から崩れるように落ちていくのを見て、とっさに横に並び、自分の馬に抱き取った。
「隊長…!」
オスカルの馬を中心に、警備についていた徒歩の兵士たちが驚いて駆け寄ってきた。
「オスカル!オスカル!しっかりしろ!」
必死で叫ぶ声が聞こえたのかどうか、うっすらと開けた目でアンドレを見たあと、オスカルは完全に意識を失った。
アンドレは即座にアランを呼び、オスカルの馬に乗るよう指示した。
「アラン、あとのことはおまえに任せる。俺はすぐに本部にオスカルを連れて戻る」
アランは一瞬度肝を抜かれたが、蒼白な顔でアンドレに抱かれている隊長を見て、ことの異常性と重大性をすぐに理解し、隊長の白馬にまたがった。
「わかった。隊長を頼む。衛兵隊は俺に続け!」
というアランの言葉を背中に聞きつつ、アンドレは馬を駆り、本部を目指した。
小さなしこりのあいだに取り除いておくのだった。
こんなになるまで耐えていたとは…!
なぜ、気づいてやれなかったのか。
出てくる言葉は自分への非難ばかりだった。
本部に駆け込み、救護室にオスカルを運んだ。
「軍医どの!軍医どの!」
大声で軍医を呼ぶが、返事がない。
驚いて駆け寄ってきた本部待機の兵士に行方を聞くと、
「軍医どのは、ここの食事が口に合わないといって、いつも外に出るんだ。今日もまだ帰ってないんだろう。昼食は2時間かけて、というのが持論らしいから…」
という。
なんということだ。
オスカルの目が直接行き届くベルサイユ部隊ではありえないことだ。
パリ部隊の士気の緩みようをこんなときに実感しようとは…。
いやいや、もともとゆるかったのを、ベルサイユだけはなんとかまともに鍛え直したのだった。
「誰か、探して呼んでこい!」
2、3人が、ばらばらと駆けだしていった。
「アンドレ…」
小さな声がした。
「オスカル!」
すぐに簡易寝台の脇に戻った。
「もう、大丈夫だ。医者はいらない」
蒼白ながら、しっかりした口調でオスカルが言った。
「馬鹿を言うな。馬上で気を失うなうなんて、ただごとではない」
「昨夜、あまり眠れなかったのだ。案ずることはない。ただの寝不足だ」
「そんな言い訳が俺に通用すると思うのか?」
「アンドレ、頼むから騒いでくれるな。ここの軍医などに診察されたくないのだ」
「…!」
そうだった。
オスカルは、ジャルジェ家お抱えの信頼厚いラソンヌ医師以外のものに身体を診せたことはなかった。
当然だ。
どんなに不調でも、どんなに緊急でも、一旦自邸に戻って、ラソンヌ医師の往診を受けてきた。
オスカルの肢体は、たとえ病の床にあっても、不特定の軍医に診せるわけにはいかない。
そんなことは自分が一番知っていて、一番配慮してきていたのに…。
うろたえて軍医を呼んだ自分を、アンドレは恥じた。
「悪かった。たぶん疲れだろう。ここでしばらく休んで、様子を見て、屋敷に帰り、あとのことはそれから考えよう」
「ああ、そうしてくれ」
ほっとしたようにオスカルは目を閉じた。
アンドレは休んでいるオスカルの妨げにならぬよう、そっと立ち上がり、救護室を出た。
ちょうどそこへ、兵士にせかされて軍医が戻ってきた。
冷たい一瞥をくれてやり、だが、言葉だけは丁寧に言った。
「せっかくのお食事中に、お呼び立てして申し訳ありませんでした。どうやら隊長の様子も落ち着きました。今眠っていますので、とりあえず救護室をお貸しください」
思わぬことで怠慢な勤務態度が露見した軍医は、しどろもどろに言った。
「ああ、無論、必要な限りお使いいただきたい。隊長が倒れられるなど尋常ではありませんからな」
「ありがとうございます。おそらく疲れだろうと思います。ご診察いただくまでもないでしょう。お騒がせしました」
アンドレは、丁寧に頭を下げた。
そしてすぐにきびすを返し、救護室に戻った。
小さな紙片にオスカルへの伝言を書き、枕元に置くと、本部を出た。
できればオスカルが目覚める前に戻りたい。
彼は、いつになく荒い乗り方で馬を駆った。
目を開けてしばらくしてから、オスカルはゆっくりと起き上がった。
救護室には誰もいない。
寝台を寄せた壁のやや高いところに小窓があり、わずかに光が届いている。
気分はそれほど悪くない。
そのことにほっとした。
枕元の紙片に気づき、目を走らせた。
アンドレからのものて゜、ラソンヌ医師のところに行くとあった。
今夜、ジャルジェ邸に往診してくれるよう依頼するためだろう。
急いで戻るから、目が覚めても動くな、との指示は、おそらく彼自身、従うとは思っていまい。
だが、書かずにはいられない彼の気持ちは嬉しい。
オスカルは笑いながら起き上がり、嬉しいのと従うのは別物だ、とつぶやきながら救護室を出て、司令官室に向かった。
玄関ホールまで出ると、突然と扉が開き、ドヤドヤと兵士たちが乱入してきた。
そして先頭のものがオスカルを認め、立ち止まった。
「隊長!」
後ろに続くものたちも、一斉に大声を出した。
「大丈夫ですか?」
「起き上がっていいんですか?」
と、口々に叫び、バラバラと集まってオスカルを取り囲んだ。
「もう大丈夫だ。見苦しいところを見せてすまなかった。集会は無事終わったのか?」
いつもの口調で聞かれ、アランが答えた。
「報告します。シェイエスの演説は相当な反響で、一時広場は騒然としましたが、ぐるりを取り囲む体制で兵士を配置し、銃を捧げて起立させましたので、騒ぎにはなりませんでした」
敬礼しながら返答するアランに、オスカルは心底嬉しそうな顔で礼を言った。
「アランは有能な指揮官だな。班長という職にしておくのはもったいない」
そう言われて、アランより、一班の連中の方が歓声を上げた。
「どんなにおだてたって、その手には乗りません。そうたびたびこんなことがあってたまるかってんだ!」
最後の言葉は一応隊長には聞こえないよう、小さく吐き捨てたつもりだったが、耳聡いオスカルにはしっかりと聞こえ、この一番のはねっかえりが自分に対して見せる幾分ひねくれた思いやりに感謝し、笑顔を見せながら、
「わたしは軍人だ、嘘はつかん」
と、さらにおだててやった。
だが、単純な本性と裏腹に、それを表に出すときは複雑怪奇な回路を経由せざるを得ないアランは、ケッとそっぽをむいてしまった。
あのとき、馬から、まるで体重がないかのようにふんわりと倒れる隊長を見たときの衝撃、そしてアンドレが当然のように受け止めたのち、あろうことか、指揮権を自分に託し、さらうかのように隊長を連れ去った一連の出来事。
その後、自分の精神を平常に保つことがどれほど困難を伴ったか、誰にもわかるまい。
だが、それこそ軍人根性万歳!と自身でほめてやりたいほどのアランの指揮だった。
シェイエスの演説のあとの民衆の興奮、歓喜。
白馬にまたがり、各班の配置を状況に応じて変形させ、一方向に人波がかたよることなく、しかし、また逆に360度に散らばってぶつかりあうことのないように、広場に続くすべての道に市民を誘導したのだ。
そのときのアランの脳裏にあったのは、隊長ならどうするか、ということだけだった。
それを想像し、具体化し、指示したのだ。
そしてまがりなりにも成功した。
アンドレが他班の班長ではなく、とっさの状況下でアランを指名したのは、もちろん日頃からオスカルのアランへの評価を知っていたからだが、それが見事な指示だったことを、ほかならぬ自分が証明してしまったことも、素直に喜べないアランではあった。
アランの心中はまことに複雑である。
「みな、ご苦労だった。一時間の休憩だ。次の指示までに身体を休めておくように」
オスカルは、短くねぎらいと指示を与え、階段を上がった。
隊士たちは歓声をあげながら、食堂に駆け込んだ。
大勢を収容できる場所がここしかなかったため、食事時以外の食堂は兵士の待機所となっていた。
それぞれ、いつのまにか指定席を決めているようで、自然にそれぞれの定位置に場所を確保して、雑談を交わし始めた。
「よかったな。隊長、大したことなさそうで…」
「うん。一時はどうなることかと思ったけどね」
「でも、アンドレはどこに行ったんだろう。さっきから姿が見えないね」
「本当だ。隊長のそばにくっついてないなんて、おかしいな。よりによってこんな時に…」
一班の連中の会話が続く。
「隊長が寝てると思って、どっかに羽根をのばしにいったんじゃないか?」
「まさか…おまえじゃあるまいし。目を覚ますまで絶対ついてると思うけどな、アンドレなら…」
「そうかなあ。一応隊長は女なんだから、寝てるときは席をはずすんじゃないか」
「そうか、それもそうだな」
「まして貴族なんだからな、隊長は…」
「絶対信じられないけど、貴族のお姫さまなんだよな」
「でも、食事は一緒にしてるよ。司令官室で…」
と、これは例によってフランソワである。
「すっごく親しそうにふたりで食べてるもんな。うらやましいなあ」
と、ジャンが言ったのを聞いて、フランソワは胸をはった。
「オホン…。実は今日の昼時に、今度、隊長が俺たちと一緒に食べる、と約束してくれた。近々連絡があると思うから、楽しみにしておくように…」
「ヒュー!」
「えらい!フランソワ!」
歓声があがった。
仕事の指揮はアランにかなわないけど、飲み会といい食事会といい、こんな幹事なら、フランソワはピカイチだな、と皆が賞賛するので、フランソワは鼻高々である。
盛り上がっている連中を黙って見ていたアランはそっと立ち上がると食堂を出た。
早足で、あちこち歩き、何かを探していたが、見つからないといった風で、外に出た。
門番兵が二人、なにか?という顔でアランを見たが、無視して、門を出ると歩き出した。
しばらく歩くと、前方に目当てのものを見つけた。
馬をとばして戻ってきたアンドレだった。
アンドレは、本部舎の柵沿いに歩いてくるアランを見て、馬の足をゆるめ、それから、大声で
「何かあったのか?」
と叫んだ。
アランは片手を挙げ、なにもない、と振って、それからアンドレの馬の轡を取った。
アンドレはさっと馬から下りた。
「先生んとこか?」
アランが聞いた。
アンドレは驚いてアランを見たが、ああ、とうなずいた。
「隊長は、もう司令官室に戻っている」
「そうか」
アンドレが幾分ほっとしたのが、すれあう肩から伝わった。
「集会は大丈夫だったんだな?」
今度はアンドレが聞いた。
「ふん、まあな。心配するようなことは何も起きなかったぜ」
「さすがだな」
アンドレは、目を細めてアランを見た。
「寄せやい。ふたりしておだてやがって…。金輪際こんなことはしないからな」
アランの言葉に、アンドレはオスカルもまた、この班長を賞賛したのだと知った。
そして素直に喜べないアランの心境に、クスリと笑った。
チュイルリー宮広場以来、張り詰めていた糸が、ようやく平常に戻りつつあることを、こういう形で示してくれたアランの肩をポンポンと叩き
「本当に助かった。ありがとう、アラン」
と言った。
隊長にしたのと同じ反応をしていることに全く気づかず、アランはケッとそっぽをむいた。
司令官室のオスカルは、何事もなかったかのように、報告書に目を通していた。
「今日はもう大した集会はなさそうだな」
「今晩八時にラソンヌ先生が往診してくださる」
と、二人は同時に言った。
そして互いに相手の言葉が聞き取れなかったため
「えっ?」
と聞き返した。
そして、いつものようにアンドレが引き、オスカルが再び言った。
「今日はもう大した集会はなさそうだ、と言ったんだ。で、おまえは?」
「今晩八時にラソンヌ先生が往診してくださる、という話だ」
「そうか。もう必要ないように思うが…」
「オスカル」
低い声で名前を呼ばれ、オスカルは首を振った。
「ああ、わかっている。今さらお断りするわけにもいくまい。八時だな。それまでに帰れるよう段取りをつけねばならん」
この話はこれで終わり、というように、オスカルは書類の束をアンドレの方に押しやった。
「最悪、おまえだけでも戻れるようにするさ。俺が残業するよ」
アンドレはサラッと言った。
が、このひとことが、最大限に効果を発揮して、オスカルは、粉骨砕身、書類に取り組み、きっちり仕事をしあげ、二人でベルサイユの屋敷に、定刻に戻った。
その元気な姿に、アンドレは、確かにもはや診察はいらないかもしれない、と思ってしまい、だがあわてて否定し、安心料ならそれにこしたことはない、とつぶやいた。