ディアンヌは結婚のために用意した新品のコルセットとペチコート、そしてまだ一度も袖を通していない外出着を衣装箱の中から取り出した。ソワソン家が一人娘のためにできる結婚準備は、到底、普通の貴族のそれには及びようがなかった。ディアンヌが12歳で早々と修道院から連れ戻されたのは、寄付金はおろか、仕送りの金にさえ困るようになったソワソン家の経済状態ゆえであった。だが、実家に呼び戻された理由が貧困のためとはいえ、修道院の生活よりも母や兄とともに暮らす生活の方が、ディアンヌにとっては、はるかに幸せだった。
「12歳でこの修道院を出られるなんて、嫁ぎ先はどちらの伯爵家ですの?」
「なにも、聞かされておりません」
「では、社交界デビューはいつですの?」
「たしか、あなたはお父様がいらっしゃらなかったはず。どなたが、あなたの後見を引き受けてくださったのかしら?」
「なにも、知らないんです」
先輩達の意地の悪い質問など、ディアンヌにとってはどうでもよかった。ただ、この規律の厳しい修道院を出てまた家族と暮らせること、それはディアンヌにとって顔も知らぬ結婚相手の決定よりなにより、心躍る知らせだった。たとえ、帰った実家が食費にさえ困る状態だったとしても。ディアンヌは母の家事手伝いだけでは時間があまることを知ると、近所の繕い物などを引き受けるようになった。修道院では裁縫など、教えてくれるはずもなかったが、幸い、母が身分の隔てなく近所づきあいをしていてくれたおかげで、隣家のおばさんがディアンヌに裁縫を教えた。ディアンヌは思いのほか覚えが早く、手先も器用だったため、最初は繕い物程度だったが、そのうちサイズ直しまでできるようになっていた。
ただ、そんな依頼がしょっちゅうあるわけでもなく、また時間が余り、時間が余ればその分、我が家の貧しさが目に付いた。ディアンヌはついに、洗濯に出たいと言い出したが、これには母が、いくら落ちぶれても人の汚れ物を洗う洗濯女などの真似はしないでくれと涙で懇願したため、ディアンヌの仕事は家の中でできるものに限られた。だが、わずかな収入も使わなければ、徐々に貯まり、ドゥトゥール男爵からの思いがけない縁談が持ち上がったときには、結婚資金としては極めて少ない額だったが花嫁衣裳と身の回りの物だけでも揃えられる額となっていた。
もともと、ドゥトゥール男爵はソワソン家の事情を心得ており、持参金がないのはもちろん承知のうえ、結婚費用はすべて男爵家で負担し、ディアンヌが嫁いできても不自由しない身の回りの品は揃えると言ってくれていた。
その若きドゥトゥール男爵も結婚話がまとまるまでは、ひっきりなしにディアンヌに贈り物をしたり、劇場のドゥトゥール家のボックス席に招待したりしていたが、最近は連絡さえ途絶えがちだった。ただ、あちらも結婚の準備で忙しいのだろうとソワソン家でも、あまり気にかけないようにしていた。
ディアンヌが出かける準備を進めていると、アランが珍しく休みだというのに、シャツのボタンを上まできちんと止め、小さな鏡の前で髪をなでつけていた。ディアンヌは母とともに軽い昼食を摂ると、また、鏡の前で後れ毛を耳にかけたり、ドアの外の足音に耳を澄ませてみたりと落ち着かないことこの上なしといった様子だった。
遠くで馬車の蹄の音が止まった。そして、軽やかな足音が家の前に近づいてくるとディアンヌが待ち焦がれていた来訪者のノックの音が狭いソワソン家に響き渡った。
トントン・・・
その音に、ディアンヌは椅子から飛び上がるようにして立ち上がった。そして、鏡の前で再度、自分の姿を確かめると右手で胸を押さえ、一歩、一歩ドアに向かって歩き始めた。ドアを開けると、ソワソン家に別の空気を届けてくれる人が立っていた。そのブロンドの髪に冬の空気を含ませ、凛とした表情で、その人は薄ピンクの薔薇のブーケを手にしていた。
「冬薔薇であまり、大輪ではないのだが・・・」
そう言って、ブーケを手渡しながら、その人の口元は薔薇のピンク色よりも柔らかく微笑んだ。
ただ、小さく溜め息をつくことしかできないディアンヌにオスカルはさらに声をかけた。
「出かけられますか?」
ディアンヌは我に返ったように慌てて、返事をした。
「ありがとうございます。お待ちしておりました」
そう言うと、ディアンヌはブーケをテーブルに置き、玄関に用意してあったコートを手に取った。
「俺も行く!!」
玄関を出ようとしたディアンヌの後ろからアランが叫んだ。見れば、上着に片袖を通し、慌てて玄関に向かって突進してきているところだった。
「なんのために?」
オスカルが冷ややかな視線を送ると、アランは歩みを止めて上着に両袖を通した。
「妹の付き添いだ」
その返事に、オスカルは極めて怪訝そうな顔をしたが、それ以上は尋ねずにディアンヌをエスコートして外へ出た。
二人の後をコツコツとアランの足音がついてきた。
「美味しい焼き菓子を作っているカフェがあるのですよ」
オスカルはディアンヌに話しかけながら、アンドレが待つ馬車まで案内した。
そして、小路を曲がろうとした時、振り向かずにアランに聞いた。
「御者はできるか?」
「あっ、当ったり前だ!」
いきなり問いかけられ、アランはとっさに答えた。
広い道に出るとアンドレが馬車を道の脇に寄せて待っていた。
「アンドレ!おまえは中へ入れ」
オスカルはディアンヌとともに馬車に乗り込むとそう声をかけた。
アンドレも二人の後から付いてきたアランを見て、オスカルの意を解し、続いて馬車に乗り込んだ。
アランは必然的に御者台に上ることになった。だが、それが特に不服というわけでもなかったので、御者台に座ると馬車の中に声をかけた。
「どこまでだ?」
すると、アンドレが窓から顔をだした。
「サントノレ通りまで、やってくれ!」
御者のアランを含め4人を乗せた馬車は、馬のひづめの音も軽やかにパリの街を走り出した。
馬車の中ではオスカルとディアンヌが隣通しに、その前にアンドレが座った。
走る馬車の中で、特別な話をしているわけではないが、オスカルが話し、ディアンヌが笑い、アンドレが相槌を打って、打ち解けた雰囲気でドライブは続いていた。
だが、馬車が走り出して20分ほど経った頃だろうか。アンドレが訝しそうな顔をしだした。
そういえば、どうもだんだん馬車の走りがぎこちなくなってきていた。
アンドレは窓から顔をだし、アランに声をかけた。
「アラン!どうした?」
「どうも今日はどの道も様子がおかしい」
アンドレは窓から顔を出したまま、あたりを見回した。
確かに、馬車の前後で恨めしそうな視線を投げてくる男達が気になった。
馬車はジャルジェ家では一番、小型のもので派手な装飾などいっさいないものだった。
「道を変えたらどうだ?」
「どの道も一緒だ」
アランは馬を止めることなく答えた。
「狭い道には入るなよ!」
だが、少々、広い道でも相手の人数が多ければ同じことだった。
「だめだ!このままでは取り囲まれる!!降りろ!!」
アランの判断は正しかった。
オスカルはディアンヌを降ろし、かばうように小路へと走った。アンドレもそれに続いた。
アランはまだ、御者台の上だったが、何人もの暴徒を相手に戦うなど無謀過ぎた。
「アラン!馬と馬車は捨てろ!」
後方からアンドレが叫んだ。
アランが御者台から飛び降りると同時に、暴徒達は馬と馬車を切り離した。
一人の男が馬に跨ると、それを自分の物とし、走り去った。
馬に乗れないもう一人は、馬を引いて群集から抜け出た。
残った男達は馬車の中をあさりだしたが、金目の物がないと分かると今度は、アランを追いかけ始めた。
アランの前にはアンドレが、アンドレの前にはディアンヌの腰に手を添えたオスカルが走っていた。
アンドレは後を振り返り、アランとその後から迫り来る暴徒の群れとの距離を測っていた。
どうして、あいつらは飢えているにも関わらず、あんなに足が速いのだろう。人を打ちのめすほどの腕力が残っているのだろうと不思議に思わずにはいられなかった。
が、追いかけている方からすれば、自分達より、はるかにいい暮らしをしていそうなやつらの財布を手に入れさえすれば、あるいは上着一枚でも剥ぎ取ることができれば、そうすれば自分も家族もあと1日、あと2日と食いつなぐことができる。
そういう境遇にいる人間が死に物狂いで追いかけてくるのだから、同じ立場の人間との喧嘩よりもずっと恐ろしい状況だった。
そして、今回は足の遅いディアンヌを連れている。けっして怪我を負わせてはいけない女性を連れていることが状況をさらに厳しくしていた。
オスカルは相手を撒こうと、小路から小路へと身を隠すように走ったが、それもどうやら限界が近づいてきているようだった。
次の策を考えなくてはと思って道を曲がると、教会らしい建物の裏へ出た。
オスカルは裏口を探すと、偶然にも鍵のかかっていない扉にディアンヌを押し込んだ。
そして、後から走ってくるアンドレとアランに合図を送ると自分も教会の中に身を隠した。
アンドレに続き、アランが裏口をくぐるとパタンと戸を閉め、相手が過ぎ去っていってくれるのを待った。
「いくらなんでも、神の家にまでは押し入っては来まい」
オスカルにほっとした表情が戻った。
アンドレとアランも肩で息を整えていた。
やがて、男達の声が聞こえてきた。
遠のいていくというより、迫ってきているようだった。
「教会に隠れたぞ!」
「表と裏に回れ!」
事態は想像とは違った。
オスカル、アンドレ、アランは顔を見合わせるとディアンヌを連れ、礼拝堂の方へ走った。
このままでは、見つかってしまう。
アンドレは礼拝堂の奥の小部屋を見つけ、他の三人を呼び寄せた。
三人を小部屋に通しながら、アンドレは見覚えのある教会だと思ったが、教会というのは似た作りが多いし、そんなことを思い出している余裕もなかった。
全員、小部屋に入ると扉をそっと閉め、息を潜めた。
だが、ここもすぐに見つかってしまうだろう。
オスカルと男二人は武器を持ってはいたが、なんとか、誰も血を流さずにこの場を乗り切らなければならなかった。
三人が考えていると、アンドレの左手になにか金属が触れた。
そのひんやりとした手触りにも記憶があったが、アンドレはそれが扉の取っ手だと分かるとそっと押し開き、片足を踏み込んだ。
とたん、アンドレは強い引力に引き込まれそうになった。
「オスカル!!」
アンドレは思わず、オスカルの左手首を掴んだ。
「ディアンヌ嬢!」
オスカルはディアンヌの左手首を掴んだ。
「にいさん!!」
ディアンヌの声に驚いたアランは差し出されたディアンヌの手をしっかりと握り締めた。
手を繋ぎあった四人は、暗闇の中を強い力に引き寄せられるがまま浮かんでいるような、落ちていっているような不思議な感覚のまま進んでいった。
パタン・・・
扉の閉まる音がしたかと思うと、男達の声が遠くで聞こえた。
「誰もいねえ」
「どこへ行きやがった」
オスカルとアンドレは突然の事態を理解し、アランとディアンヌは訳の分からないまま暗闇の中を進んで行った。
(2)
オンディーヌさま作